第35話 夏風邪(仮)その6
「千紗、悪いけど水汲んできてくれよ。暑かったから喉渇いちまった。とりあえず一杯飲みたい」
「お水、お水ね、すぐ取ってくるから、から!」
千紗は子犬が走り出すような勢いで給水器の方に向かった。転ばないかと思わず心配になってしまう。
綾乃が生温かい息とともに囁きかける。
「……お見事な調教っぷり……さすがです、神楽坂さん……」
「人聞きが悪ぃな。千紗はあたしのパシりじゃねえぞ」
「……もちろんです……神楽坂さんの奴隷はボクだけですから……」
「そのわりにちっともあたしの言うこと聞かないよな、お前」
半眼で睨みつける。綾乃は打たれたみたいにびくりと身を震わせた。
「ひぃっ、すいませんっ……これからはもっと卑しい牝犬になると誓いますから……どうかたくさんお仕置きを……ボクをいっぱい愛してください……」
「愛して……愛してって、どういう、どういう意味なのかな、かな」
背後から暗い声が聞こえた。千紗だ。両手に紙コップを三つ危なっかしく持って立っている。
「……ボクの体は神楽坂さんのものだから……好きなようにしてもらう……という意味ですよ……これまでも、これからも……」
「お前な。いい顔して何言ってんだよ」
歌葉は呆れて突っ込んだ。千紗はさらに動揺をあらわにする。
「いい顔、いい顔って……やっぱり、やっぱり二人はそういう、そういう関係なのきゃっ!」
噛んだのではなく悲鳴が上がる。千紗の手から紙コップが滑り落ち、焦って掴み直そうとしたのがいっそうの惨劇をもたらした。
「冷てぇ……」
「ご、ごめ、ごめん、ごめんなさ、なさい、う、うた、うた、は、さん、さん、わた、わたし……」
「いい。ただの水だ。ちょっと手洗い行ってくる」
頭のてっぺんから胸元まで濡らした歌葉がハンドタオルを持って立ち上がる。
「……お供します」
「いらねえ」
「……遠慮は無用ですよ……粗相で濡れた歌葉さんの肌を清めるのは……ボクの大切なお役目ですから……」
「気持ち悪いから背中に張りつくな! やめろ馬鹿、スカートの中に潜り込もうとするんじゃねえ!」
歌葉は纏いつく綾乃をげしげしと蹴り放し、トイレに入るとすぐしっかり鍵を掛けた。
綾乃はドアに身を寄せてひたりと耳を押し付ける。瞬間、見透かしたように内側からがつんと扉が叩かれた。
「……あうっ」
綾乃は耳を押さえ、よろよろと後退りする。
「……痛い……ありがとうございます……」
トイレに向かって一礼、席に戻る。
「あ、縹さん」
こぼした水の始末をしていた千紗が顔を上げた。
「歌、歌葉さんは……?」
「……神楽坂さんは……素敵ですよね……とても尊い……ボクを踏みつける……女王様……」
「そう、そうだよね。素敵だよね、だよね」
つい頷いてしまった千紗だが、今重要なのはそこではない。
「じゃなくて、じゃなくて、もちろん素敵じゃないってことじゃなくて……怒ってた、よね、よね?」
「……そうですね」
「やっぱり、やっぱり……いくら、いくらわざとじゃなくたって、怒って当然、当然だよね」
「……でももっと激しくしてほしかったです……おトイレの中で……あんなことやこんなことを……そんなことまで、ふふっ……」
二人はそれぞれの思いに沈んだ。やがてふと気になったように千紗が尋ねる。
「そういえば、そういえばなんだけど、縹さんはどうして、どうして今日わたしのことを誘ってくれたの?」
「……ご迷惑でしたか?」
「そんなことは全然、全然ないの。ただちょっと不思議に感じたから。せっかく、せっかくの機会なんだし、縹さんだって二人、二人きりの方がが良かったんじゃないかなって、かなって」
「……ボクだって……ということは……本山さんも神楽坂さんと二人きりが良かった……そういう意味でしょうか」
黒縁の眼鏡の奥で艶のない瞳が千紗を捉える。千紗は軽く下着を濡らしてしまいそうになった。もちろんエッチな方ではなくだ。
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