第29話 通知表 その2

 史恵は散らばった通知表を集め始めた。一応、気を使って中身が目に入らないようにする。もっともクラスの子達の成績は既に把握済みなので、今さら盗み見る必要もない。

 さつきはおどおどと手をさまよわせる。


「柚原さん、そんな……先生が自分でやりますから」

「二人でやった方が早いですよ。ごちゃごちゃ言ってる暇があったらさっさとやっちゃいましょう」

「……はい。分りました」

 史恵の仕切り力には抗えず、さつきも通知表の回収作業に戻る。だがいかにも不器用だ。史恵が五枚拾う間にようやく一枚といった調子である。


「よしっと。これでだいたい全部かな。せんせ、ぇ……」

 史恵は沈黙した。さつきが再び階段で四つん這いになっていた。古いゼンマイのおもちゃみたいにたどたどしく、スカートもさっき以上にけしからん有様になっている。


 史恵はさつきの脇を通り過ぎると、下の位置から通知表を拾い上げた。あ、と口を開けたさつきの手を握り、今度は細心の注意を払って立ち上がらせる。ついでに大胆にめくれたままだったスカートも直してやった。


「先生、もっとちゃんとしてください。いくら女子校って言っても、男の先生だっているんですから」

 強めの口調でたしなめる。さつきはスカートの裾をいじり始めた。


「いいんです……どうせ私の下着を見て喜ぶ人なんていませんから……」

「そういう問題じゃないです。それに先生はちゃんと魅力的な女性ですよ?」

 史恵はちらっと上目遣いを向けたが、さつきは安定の下降を続ける。


「ううん、喜ぶとか以前の問題だわ……柚原さんの言う通りかもしれない……こんな見苦しいものを他人様の目に晒すわけにはいけない……」

「結論は合ってるんだけどなあ。前提が間違ってるんだよねえ」

「もう全部終わりにするから……柚原さん、今までありがとう……ごめんなさい」

「待ーちーなーさーい。どこ行こうとしちゃってるんですか」

「誰もいない、この世の涯に……」

「はいはい、そういうのもういいですから。教室行きますよ」

「……柚原さんが怒ってばっかり。やっぱり私のことが嫌いなのね。だけど当然よね。いつも迷惑ばっかり掛けてるんだもの……」

「わたしさつき先生のこと大好きですけど」

 さつきはひゅっと息を呑んだ。史恵は自分で自分の言ったことにびっくりしたような顔をして、だがすぐに取り澄ましてみせる。


「なーんて、もちろん先生としてっていうか、人としてって意味ですけど……ちなみにせんせーは、わたしのことどう思ってるのかなーとか」

「……好き、だと思います。私自身のことよりも……」

「え……ほんとに?」

 さつきはこくりと頷いた。だが喜ぶには早い。史恵は気持ちを改める。


「じゃあもう一つ訊きます。ご自分のことは好きですか」

 そしてさつきはいなくなった。

「……どうせ私なんて、どうせ私なんて、どうせ私……」


 不吉な呪文みたいな呟きが流れてくる方へ、湿ったまなざしを史恵は投げた。

 さつきは自己嫌悪癖の持ち主だ。そのさつきよりは好きだと言われても、どう受け止めていいのか分らない。


「せんせー、そんな座り方したら見えちゃいますってば」

 廊下の片隅で膝を抱えたさつきの前で、史恵はきちんと制服のスカートを捌いてしゃがみ込んだ。


「クラスのみんなが待ってます。そろそろ教室に行きませんか」

「みんなが待ってるのはこれでしょう。私じゃないわ」

 通知表の束に視線を落とす。


「どうせ私は紙より価値の薄い人間なんです。私がいる意味なんてないんです」

「だとしても、です」

 史恵はさつきの手に自分の手を重ねた。うつむいた相手の顔を強引に覗き込む。


「わたしはね、先生、価値とか意味とかじゃなくて、たださつき先生が担任でいてくれることが嬉しいんです。これからもずっとそうだったらなって思ってます。それだけじゃ足りませんか?」

 色白なさつきの頬が仄かに染まる。まるで史恵の瞳の発する熱に照らされたかのようだ。きっと今二人の体温は同じぐらいになっている。


「柚原さん、あなた……」

「はい。わたしが?」

「……いえ、いいの。柚原さんにはいつも助けてもらってるなって。私も頑張らないとね。こんなところにいつまでも座っていられないわ。少しお尻も痛くなってきちゃったし」

「やっ、それはいけませんね。わたしがさすってあげましょうか」

 少しく前のめりになった史恵に、さつきが珍しく微笑みを浮かべる。


「ありがとう。でももう平気ですから……柚原さん」

 さつきは通知表を大事そうに小脇に抱えて立つと、もう片方の手を差し出した。史恵はぱちくりと瞬きをして、それから嬉しそうにその手を握った。ぐっと握り返したさつきが一歩を踏み出す。


「さあ柚原さん、帰りましょうか」

「はい先生……じゃなくて! まだ帰ったら駄目ですってば。一学期はこれで終わりなんですから、あとちょっとだけ頑張りましょうよ。ほら、さつきせんせー、教室はあっちー!」

 やっぱりこの人にはわたしがついてないと。史恵は強くそう思った。

(「通知表」 了)

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