通知表

第28話 通知表 その1

 教室の中が大変に賑やかです。むしろ浮ついていると言った方が近いかもしれません。今は休み時間ではないので本当はいけないことです。先生が来るまでの間、静かに自習して待っているのが清く正しい学生の在り方です。


 しかしそんなことを気にしていそうな人は余りいません。ですがきっと仕方のないことなのでしょう。

 なぜなら今日は終業式、明日からは夏休みが始まります。


 講堂で校長先生からのありがたいお話や、生活指導の先生による親身なご注意を聞くという定例行事も済んで、あとは通知表を受け取ってさよならするばかりです。心も自然とぴょんぴょんしてきます。


 それでも私は騒いだりはしません。夏休みが楽しみなのは同じですが、根が真面目なうえに常に品行方正を心掛けているので、こんな際でも学生の本分たる勉強に全力で取り組みます。科目はもちろんニコちゃんです。

 私が微に入り細を穿ってニコちゃん観察に取り組んでいる以外にも、クラスにはまだしっかり者の優等生さんがちゃんといました。


「はいはーい、みんな静かにしてー。わたしはちょっと先生の様子見に行ってくるからね。おっけー?」

 学級委員長の柚原ゆずはらさんがパンパンと手を叩いて注目を集めます。クラスの誰もが多かれ少なかれ、表に裏にとお世話になってるいいんちょさんです。刃向かうような命知らずは一人もいません。


 はーい、と返事をする従順な子羊達を、柚原さんは圧のこもった笑顔で見渡します。そして念を押すような頷きを残すと、廊下へと出て行きました。

 教室の中につかのまの静寂が訪れます。私は小声でニコちゃんに喋りかけます。


「……そういえば、先生遅いよね。どうしたんだろうね」

 ニコちゃんの神秘を探求していてつい時を忘れてしまっていましたが、終業式からもう三十分以上が経っています。本当ならもうとっくにホームルームが始まっている頃です。


 私達の通う貞心ていしん女学院は、部外者の立入は厳禁です。校門には本職の警備員さんが常駐していますから、予期せぬ事件に巻き込まれたといった可能性は低いでしょう。もっと普通にありそうな状況として、ぱっと思いつくのは次の三つぐらいでしょうか。


 その一、何か粗相をしてしまい、学年主任の先生に怒られている。

 その二、何か粗相をしてしまい、ひとり途方に暮れている。

 その三、何か粗相をしてしまい、樹海へ旅立つルートをグー○ルマップで検索している。


 優しくていい先生だったのに残念です。

 これからのさつき先生の道行きに幸多かれ――私がそっとお祈りしていると、ニコちゃんがガラス玉のように澄んだ瞳をまたたかせます。


「だいじょうぶ」

 ニコちゃんの託宣が下ります。先生の安否について、明らかな確信があるようです。


史恵ふみえが、たすけにいったから」

 まさに納得の理由です。私は安心してさつき先生の存在を忘れると、ニコちゃん体験学習に再び取り組み始めました。


     #


「いーちまーい、にまーい、さん、ああっ……三十三枚足りなーいっ、うぅぅ……」

 まるで地の底から発されたみたいな陰々滅々とした嘆きが響く。階段の上に立ち尽くした柚原史恵は堪えきれず両の掌で口元を覆った。


 それはひどく凄惨な光景だった。アラサー女教師が頭を下にして階段で四つん這いになっている。周りに散乱しているのは通知表だ。落ちた数枚を拾おうとして、小脇に抱えていた残りの全部をぶちまけてしまったのだった。

 あられもない格好のせいでスカートがめくれ上がり、薄いストッキング越しに下着がのぞいている。ちなみに色は黒だ。


「生徒達の大切な通知表が……早く拾わないと……でも私なんかに拾われるぐらいなら、いっそこのままにしておいた方が……」

 深刻なエラーが発生したみたいに動きが止まる。色んな意味でやばかった。


「うん、笑ってる場合じゃないや」

 史恵は頭をこつんと叩くと、早足で階段を下りた。クラス担任の真野まのさつきの傍らで腰を屈め、駄目な大人の手を取る。


「先生、危ないですから」

 ともかくも立ち上がらせようとして、だがずっと頭を逆さにしていたせいか、上体を起こしたさつきが目眩を覚えたふうにふらついた。


「ひゃっ!?」

 つられてよろめいた史恵の足が空を踏む。落下の予感に悲鳴を上げて、咄嗟にきつく目をつぶる。


「……大丈夫、ですか?」

 しっとりとした温もりに包まれ、恐る恐る目を開いた史恵は、思わずのけぞりそうになった。近い、どころじゃない。相手の腕の中にすっぽりと捉えられている。コスメの甘い香りに混じって、微かに汗が匂う。自分の顔が赤らんでいるのがはっきりと分った。


「……ありがとうございます。おかげで助かりました。それであの、先生」

「なんですか、柚原さん……はっ、まさか怪我をしたのですか? ああ、私のようなゴミのせいであってはならないことが……やっぱりもうこれ以上誰の邪魔にもならないように、早く消えてなくならないと……」

「違います、わたしはどこもなんともないですから。先生が抱き締め……んんっ、守ってくれたおかげです。だけどそろそろ離してもらえないかなって」

 さつきは感電したみたいにびくんと震えた。ぎこちなくも慎重に腕をほどいてから後退りする。


「本当にごめんなさい……さぞかし気持ちが悪かったでしょう。私にくっつかれるなんて、私なら耐えられないわ……」

「別に嫌ではなかったです。ちょっと暑かったですけど、それは先生のせいじゃないですもん。あ、わたし拾うの手伝います」

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