第27話 ウォーターランド その7

 まだ水の膜に包まれているみたいなふわふわした体を、お昼過ぎの太陽がひたぶるに照りつけます。私達は光のつぶてに打たれながら、ちょうど停車していた駅行きのシャトルバスに乗り込みます。やはりこんな早くから帰る人は少ないようで、座席はがらがらに空いています。


 歌葉ちゃんは真っ直ぐに一番後ろまで行くと、奥の窓際に腰を下ろし、頬杖をついて外を向きます。柚原さんは一つ手前の同じ窓側に座ります。本山さんはちらりと歌葉ちゃんの方を見やって足を止め、体の向きを変えて柚原さんの隣に行きます。


「ちがう」

「な、なに、なに?」

 しかし本山さんが座ってしまう前に、ニコちゃんがスカートの裾を掴みます。そのままぺろんとめくり上げて下着をチェック、などとありきたりなことをするニコちゃんではありません。


「こっち。歌葉のとなり」

 本山さんをくいくいと後ろの席へ引っ張ります。本山さんはどうしていいか分らないという足取りで、対する歌葉ちゃんは眉間に険しく皺を刻みます。


「二子? なんのつもりか知らねえけど、好きなとこ座らせてやれよ。本山が嫌がってんだろ?」

「全然、全然! 嫌なんかじゃないっ、ないから……」


 本山さんは勢いよく首を振り、けれどすぐ燃料切れを起こしたみたいにうつむきます。ニコちゃんはつまんだ本山さんのスカートの裾を、さらに歌葉ちゃんの方へ近寄せます。


「歌葉。この子とすわるの、いや?」

 本山さんの肩が瞬間びくりと震えます。歌葉ちゃんはおもむろに顔を巡らせます。

「本山」

「は、はい、か、かぐ、神楽坂、さん」

「疲れたからあたしは寝る。それでもいいんなら座ってくれ」

「……じゃあ」


 歌葉ちゃんは言葉通り早々に目を瞑り、隣に本山さんが腰かけます。微妙に距離を置いているのは、直接触れてしまうのが怖いからかもしれません。寝ている獣を刺激するのは大変に危険です。そんな二人の隙間を、縹さんが物欲しそうに窺います。しかし突っ込む前に柚原さんに捕獲されます。


 ニコちゃんも眠たそうに目をこすると、歌葉ちゃんの反対端の席に行って丸くなります。お姫様の眠りを覚ますのは王子様の役目です。バスが駅に着いたらニコちゃんをくちづけで起こせるように、私は隣に控えます。なのにニコちゃんと一緒にあっさり世界の淵に沈んでしまい、柚原さんに揺すり起こされるまで、私はついに一度も目を開けないままでした。




 地元の桂木かつらき駅に着いた私と歌葉ちゃんはてくてくと帰り道を歩きます。私の傍らにはもうニコちゃんはいません。ハッピーになれるお薬が切れてしまったあとのように、お昼抜きの体が強い不満を訴えます。


「はあ、お腹空いたな……」

 私が呟くのと同時に、歌葉ちゃんが足を止めます。神楽坂邸の立派な正門の脇にある、通用口に手を掛けて私の方を振り返ります。うちで何か食ってけよ。もしも歌葉ちゃんがそう言うのなら、お邪魔するのもやぶさかではありません。別に松坂牛のステーキでなくても構いません。トリュフでもキャビアでもフォアグラでも、おいしくいただきたいと思います。


「じゃ、またな」

 なのに歌葉ちゃんは素っ気なく告げるいなや、敷地の中へと足を向けます。私はすかさず膝かっくんを決めました。


「ふぁっ?」

 歌葉ちゃんは間の抜けた声を上げ、むやみに高い背が後ろへと傾ぎます。私はそのまま歌葉ちゃんに尻もちをつかせ、正面に回り込みます。


「なあ妙、今はしょうもないいたずらにつき合ってる気分じゃ……」

 歌葉ちゃんの文句を遮って、私は髪を撫で撫でしてあげます。

「頑張ったね、歌葉ちゃん。いい子いい子」

「は……? いきなりなんだよ。意味分んねえぞ?」


 歌葉ちゃんが吊り上がり気味の目を丸くします。

 具体的にどんなことがあったのかは知りません。あとで柚原さんが教えてくれると思いますが、今は置いておくことにします。


「いいの。だって歌葉ちゃんは頑張ったんだから」

 私は歌葉ちゃんの頭を撫で続けます。強張っていた歌葉ちゃんの体から、ふっと力が抜けていきます。


「……別に大したことじゃねえし。もうなんとも思ってねえよ」

「そうだね」

「あんな奴らどうだって……あんな奴らに、見られ……ぐすっ、ほんとは、怖かったけど……本山と柚原がやばくて、ほっといたらひどいことされそうだったから……だけどあたし、結局なんの役にも立てなくて……すんっ」

「いいんだよ。歌葉ちゃんは精一杯頑張ったの。偉い偉い」

「ひっくっ、子供扱い、すんなよ……妙なんか、あたしよりずっとずっとチビのくせに……」

 いくつになっても歌葉ちゃんは泣き虫です。だけど他のみんなの前では我慢できていたようなので、そこは褒めてあげたいと思います。

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