第16話 お泊まり勉強会 その5

「くそっ、どうなってんだこれ……こっちがプラスだから、こっちがマイナスになって……」

 座卓の向こう側で歌葉ちゃんが悩ましげに呟きます。教科はどうやら数学です。強力な脳天チョップや十一文キックを繰り出せる恵まれた肉体も、問題を解くのには何の役にも立たないようです。乙女としてどうかというぐらい眉間に皺を寄せています。


 歌葉ちゃんは隣の柚原さんの方をちら見して、しかしすぐにぶんぶんと首を振ります。分らないからと簡単に答えを聞いてしまったら、なかなか力が付きません。まずは自分で考えてから、ということなのでしょう。歌葉ちゃんなのに感心です。


「……あの、こうじゃないでしょうか……それでこうなって、こう……」

「はあ? む、そっか。なるほど……って、縹、頼んでもいねえのに横から首突っ込むなよ。せっかくもう少しで分りそうだったってのに」

「ご、ごめんなさい……あんまり初歩的なところでつまずいてるから、神楽坂さんは頭が少しアレなんだなって、可哀想になってしまって……」


 歌葉ちゃんの手の中で鉛筆がへし折れます。先っぽの芯ではありません。真ん中からぽっきりといっています。縹さんは「ひっ」と悲鳴を洩らし、がたがたと震え始めます。けれど瞳は嘘をつきません。ぎとりと妖しい光を放ちます。


「も、もしかしてお仕置き、ですか……? ボクにお仕置きするんですね……いいです。悪いのはボクですから……してください」

 身をくねらせる縹さんを前に、歌葉ちゃんはぐぐっと拳を握り締めます。それから大きく息を吐き出すと、じろりと私の方を睨みました。もし山中で熊と遭遇したら目を合わせてはいけません。私はニコちゃんと一緒に読んでいたテキストに戻ります。それでも歌葉ちゃんは収まりません。まるで女騎士を狙う触手のように、粘っこく絡んできます。


「妙、お前はさっきから何してるんだ?」

「何って、国語のお勉強だよ。まずはしっかりと読むことが大切ですって、いつもさつき先生も言ってるし」

「さつきちゃんにケチつけるつもりはねえよ。けど期末対策だぞ? ラノベが試験範囲に入ってたか? 読むんなら教科書読めよ。余裕ぶっこいてると、ほんとに落第しちまうぞ?」

「平気だよ。ニコちゃんすっごく勉強できるもん」

「お前は全然できねえだろうが!」

「……むぅ、歌葉ちゃんの意地悪」


 私は頬を膨れさせました。確かに全教科満点のニコちゃんに比べたら、少しは見劣りするかもしれません。それでも全然できないは言い過ぎでしょう。私だって五教科合わせれば軽く百点を超えるのです。


「別に、あたしはそんなつもりじゃ……」

 歌葉ちゃんは口ごもってうつむきます。ではどういうつもりなのか、これではちっとも伝わりません。表現力に難ありです。歌葉ちゃんの方こそ、もっと国語のお勉強が必要なようです。


「はいはーい、神楽坂さんは自分の勉強に集中しようね。藤木さんもさ、ちょっとだけ頑張ってみない? せっかくこうやって集まったんだから、みんなでやればきっと勉強だって楽しいよ」

「はあい」


 柚原さんが優しく圧を掛けてきます。私は鉛筆を握りました。なぜか涙目の歌葉ちゃんににっこりと頷いてから、ドリルの問題に向かいます。

 勉強部屋に静寂が訪れます。聞こえるのは物を書く音とページをめくる音ぐらいです。心地の良い緊張感が続きます。そうして幾許かの時が過ぎたのち、柚原さんが気持ちを切り替えるように「むんっ」と伸びを入れました。


「ちょっと一休みしようか。藤木さんは調子どう? どこか分らないところある?」

「うん。だいたいは」

「あれ、そうなの? 実は藤木さんって、やればできる人?」

 柚原さんは意外そうです。私にとってはなかなかに失礼な反応です。


「柚原、間違えるなよ。今のは、だいたいは分らないって意味だからな」

 歌葉ちゃんがさらに失礼なことを付け足します。ただし解釈は正しいです。

「あはっ、そうなんだ」

 柚原さんは朗らかに笑いました。そして私の隣に移動してきます。


「少し一緒にやろうか。わたしで分るところは教えるよ。あと妙ちゃんって呼んでもいい?」

 私はニコちゃんと勉強するので結構です、とはたとえ思ったとしても言いません。柚原さんは基本的には親切かつ善良な人です。大きく膨らんだお胸の半分は、きっと優しさでできています。残りの半分にはまた色々と詰まっているのでしょう。


「ありがとう。もちろん妙って呼んでくれていいよ。お返しに、私は柚原さんのこと柚原さんって呼ぶね」

「おっけー、妙ちゃん。まずはこの問題からね」

 柚原さんは軽やかに会話を流すと、私の勉強を手伝う体勢に入ります。いい機会なので私はたくさん質問させてもらいました。これで期末試験はばっちりだと思います。

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