お泊まり勉強会

第12話 お泊まり勉強会 その1

 教科書にカレーの汁が跳ねた。

「うわっ、やばっ、柚原ゆずはら、ティッシュくれ、ティッシュ」

「いいよ、はい」

「ありがと……くそ、思いきり染みになっちまった」

 神楽坂かぐらざか歌葉うたはは大きく舌打ちをした。例題の数式が見事に黄色く塗り潰されている。柚原史恵ふみえは落ち着いた調子で助言した。


「ちょっと水に濡らして拭いてみたら? 少しはましになるかも」

「だな。そうするか」

「……あの、ボクが舐めて綺麗にしても……いつも神楽坂さんにさせられてるみたいに……」

「そんなんいっぺんもさせたことねえよ。おい引くな本山もとやま、この変態が勝手に言ってるだけだ。あたしをこいつと一緒にするな」


 歌葉は机を向かい合わせにした本山千紗ちさに念を押す。席が前後の並びになって早二ヶ月、給食は毎回こうして共にしているのに、打ち解けた様子は未だない。

 千紗は救いを求めるようなまなざしを隣に向けた。それに史恵は大きく頷いてみせる。


「大丈夫だよ、本山さん。神楽坂さんはバイオレンスな人だけど、エロスは藤木ふじきさん限定だから。まだ今のところはね」

「柚原、おかしな言い掛かりはやめろ。あたしはいつでも清らかで心優しき乙女だっての」

「だけどそんな神楽坂さんが、ボクにだけはあんなひどいことや、こんないかがわしいことを……」

「は、な、だぁ~~」

「ああ、痛いです神楽坂さん、でもそれがいい!」


 隣席のはなだ綾乃あやののこめかみに拳をぐりぐりと抉り込ませると、歌葉はさっさと席を立った。教科書とティッシュを手に教室を出る。

 ややあってのち、戻ってきた歌葉に史恵が尋ねる。


「取れた?」

「いや。多少はましになったけどな。腹減ってる時にこのページ開いたら、カレー食いたくなりそうだぜ」

「あはは、それは大変だ。ごはん食べながら教科書なんて見てるからだよ。どうしてそんなことしてたの?」

「期末が近いからに決まってんじゃねえか。他に何があるんだ」

「あらら、真面目か。神楽坂さんってそういうキャラだったっけ」

「知らねえよ。中間がひどかったから、期末はちょっと頑張んなきゃってだけだ」

「……あの、よかったらこれ」

 ため息をついた歌葉に、綾乃がデザートのプリンを差し出した。歌葉は眉をひそめる。


「あん? なんだよ。縹が食わないってんなら貰うけど」

「お詫び、です。ボクなんかが神楽坂さんよりいい成績取っちゃって……きっとすごく傷ついちゃいましたよね。いつもはボクのこと蹴ったり踏みにじったりしてるのに……立場が逆転だもん、うふふ」

 歌葉のこめかみがぴくぴくと震えた。机に置かれたプリンを取って隣の机に叩き返す。


「ざっけんな、お前だってあたしと大して変わんなかっただろうがよ。あと変な捏造するな。本山もいちいち真に受けてんじゃねえ」

 歌葉に睨まれて千紗が身を竦める。怯える同級生の頭を史恵は撫でてやった。


「よしよし、怖くないよ。だいたい試験の成績なら神楽坂さんより本山さんの方がずっといいんだから。どーんと構えてればいいの。この愚民めが、ぐらいの上から目線で」

「学年八位の柚原はお貴族様かよ?」

「上流市民ぐらい? でも神楽坂さんだって、そんな言うほど悪くもなかったでしょ」

「後ろから数えた方が早いんだぞ? ひでえだろ。これでも小学校の時は一番できる方だったってのに。やっぱ私立はレベルがちげーな」

「赤点で落第とかも一応あるらしいからね。もし実際にそうなったら、退学して公立に転校ってことになるだろうけど」

「マジか……」

 歌葉はうんざりと肩を落とした。史恵はお気楽な風情で続ける。


「全然心配することないって。神楽坂さんぐらい点が取れてたら進級は余裕だよ。暴力沙汰とか素行不良が原因で……っていうならあるかもだけど」

「……ボク、神楽坂さんにされたことは誰にも言いません。暴力なんかじゃなくて、ちゃんと愛の鞭だって分ってるから……いいな、鞭。はぁ、はぁ」

「縹、てめーはいっぺん病院行け」

「……赤点なら、藤木さんとか危なそう」

 それまで黙って話を聞いていた千紗が、ぼそりと呟く。


「なんだと?」

 歌葉の面相が一気に凶悪なものに変わった。ゴッ、と重い音を立てて机を殴りつける。千紗は小さく悲鳴を上げた。


「ご、ごめんなさい、違うの。悪口とかのつもりは全然なくて、ただ大丈夫かなって、かなって……」

「おい本山、たえが落第って、それガチでありそうじゃねえか。ちきしょう、もしそうなったらあたしはどうすりゃいいんだ。せっかく受験して入った学校やめて、妙と一緒に公立行くのか? 親にバカ高い入学金やら授業料やら払わせてるってのに。でも妙と離れるぐらいならそうするしか……」

 悲壮な表情でぶるぶると拳を震わせる。史恵は吹き出した。


「あはっ、神楽坂さんってば先走るねー。いらない心配してると眉間に皺がついちゃうよ? まだ試験一回やっただけなんだし、藤木さんだってこれから挽回すればいいだけじゃない」

 歌葉ははっとした顔をした。


「これから挽回すれば、か。そうだよな。柚原の言う通りだ」

「そうそう」

 分り合った二人が笑みを交わす。歌葉の脇に顔をうずめて匂いを嗅ごうとした綾乃が肘打ちを喰らう。


「あのあの柚原さん、じゃあもし挽回、挽回できなかったらどうなるのかなって、かなって……」

 背中を丸めた千紗が、史恵の袖をくいくいと引いた。史恵は腕組みをして首を捻った。


「うーん。それは落第しちゃう、かも?」

 歌葉の笑みが引き攣る。

「待て柚原、まさか本気で言ってるわけじゃないよな?」

「あはは」

「あはは、じゃねえよ! 妙、待ってろ、あたしが絶対お前を救ってやる! 特訓だ!」

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