第3話


 松井さんの一件で恋の熱にあてられた私は、林田君を猪名川花火大会に誘った。

 私から何かを誘うって初めてで、しかも翌日やし、けっこう急やし、花火大会に二人って、なんかいかにもって感じやからちょっとばかし緊張したけど、林田君は「あぁ、ええよ」なんて軽い返事で、気が抜けたけど、まぁ、良かった。

 それが昨日の夜のことで、「おやすみ」って言って布団に入ったあともなかなか寝付けなかった。まぁ、明日は土曜やし、夕方の花火大会まではなんも予定ないし、ゆっくり寝坊しよー、なんて思っていたのに意外にも六時半にぱっと目が覚めた。

 花火大会の朝。窓から射し込む光は乳白色で、眠気はもうなかった。

 一階に降りると浮雄がキッチンで麦茶を飲んでいた。

「おはよう。部活ー?」

「おはよう。今日はちゃうよ」

「にしては早起きやん」

「うん。なんか目覚めた」

「私も。な、私にも麦茶をくださいな」

「はいよ」

 浮雄は新しいコップを一つ取って麦茶を入れてくれた。汗をかいたケトル。サンキュー、なんつって。麦茶はキンキンに冷えていた。

 で、二人とも早起きしたはいいが特別やることも予定もなく暇で、なんとなく近所を散歩した。

 早朝。

 日によっては分からんが、朝はまだ涼しい。今日は風もあり、散歩するにはうってつけの朝やった。

「そう言えば梓砂姉ちゃん、来月帰ってくるらしいで」

「マジ? 来月のいつ?」

「いつ言うてたかなぁ。親父がたまには帰ってこいって言うたらしい」

「また余計なことを」

 梓砂姉ちゃんというのは私達三姉弟の一番上のお姉ちゃんなのである。今、大学の四回生で一人暮らしをしており、滅多に家には帰って来ない。

 梓砂姉は少し気性の荒いところがある。いや、少しというかカナリ。

 機嫌が悪いと私や浮雄に容赦なくあたるし、それを止めに入るお母さんにだって噛みつく。彼氏にフラれたりした日なんかには最悪で、何週間にも渡って家の空気が悪くなることもあった。

 でも、そんな梓砂姉もお父さんにだけは無闇にあたったりはしない。だからお父さんだけは梓砂姉に対してもいたって普通で、こうして気まぐれに、たまには帰ってこい、なんて言うのだ。

 私達にとっては、なんせ怖い。

 そのような一面を知っているから普通にしてる時も緊張して、てかビビって、まぁ、元々歳も離れているので、私も浮雄も梓砂姉には絶対服従やった。

 そんなわけで二人ともこの長姉をどこか苦手としており、帰って来なくても特に問題はない、と、いうよりその方がよっぽど良いなんて思ってるくらいで、こうやって梓砂姉が帰ってくるということは私達にとってちょっとしたニュースなのだ。

「今度はどれくらいおるんかなぁ。やっば、私、梓砂姉の化粧水勝手に使ってもうた。バレたら締められる」

「あー、それ締められるな。確実に。梓砂姉ちゃん自分のもの勝手に使われるの大嫌いやし」

「しくったなー」

「てか締められること分かってんのに何でそんなん使うねん。どうせいつかは帰ってくんのに」

「ちょっとだけ、ちょっとだけって思ってたらけっこう使ってもうたんよ」

「あ、一回とちゃうんや」

「うん」

「それはもう素直に締められた方がええで」

 なんて浮雄は笑う。

 梓砂姉がそんな感じな分、私と浮雄は昔から仲が良かった。

 浮雄。

 うちの両親は元々男の子が欲しかったらしい。けど最初が梓砂姉で、それからしばらく子供ができなくて私、また女の子やったから、お母さんはそれでもう諦めようと思ったらしいんやけど、お父さんは諦め切れなかったようで、けっきょくもう一人頑張った。

 そしたら今度はあっさり子供ができた。

 でも出産前の妊婦検診では今回も「女の子っぽいですねぇ」と産婦人科の先生には言われ続けたようで、前二人のこともあるから両親ともに「またかぁ……」という感じになり、諦めて早々に女の子の名前を考えていた。

 それが「浮絵」だった。

 けっきょく浮雄は産まれてくるまで男だと分からなかった。

 産まれたら男やって、両親は喜んだ。特にお父さん。

「お父さんの夢は休日に息子とキャッチボールすることやってん」

 よっぽど嬉しかったんやろう。浮雄が産まれた時、お父さんは梓砂姉とまだ赤ん坊の私にそう言ったらしい。梓砂姉から聞いた。梓砂姉は「別にキャッチボールくらい私らでもしたるやん」と毒づいたが無視されたとのこと。お父さんらしい、そして梓砂姉らしいエピソードやわ。

 その時の言葉通り、小学生の頃、浮雄はよくお父さんとキャッチボールをしていた。結果的に水泳部に入ったけど。

 で、一点困ったのは名前で、さすがに男の子に「浮絵」はないよなぁ、という話になった。

 慌ててちゃう名前を考えようとしたんやけど、お父さんもお母さんも男の子が欲しかったわりに男の子の名前が考えつかなくて、ほんでけっきょく浮絵の浮だけを取って浮雄。

 そんな浮雄ちゃん。

 小さい頃からお姉ちゃん(私のみ)っ子で私にちょこちょこと付いて回るかわいい弟やった。最近ではもう私よりはるかに背も高く、たまに生意気なことも言うけど、こうして夏休みの朝、意味もなく姉と散歩しているところを見ると、やっぱりかわいい奴やな、なんて思う。

 荒牧第三公園の前を通るとガランとしていて、

「なぁ、最近の小学生はラジオ体操せんの?」

 なんて浮雄が聞く。

「いや、ラジオ体操くらいするやろ」

「でも誰もおらんやん」

「土曜やからちゃうん? てかそもそもラジオ体操って公園でやるんやっけ? 小学校でやるんちゃうん?」

「え? そうやっけ。何か公園でやってた気が……」

「いや、私も自信ないけど」

 ほんまに自信がなかった。ほんの五年くらい前の話やのに。

 そんなことを話しているうちに気温が上がってきて、私達はそそくさと家まで帰った。

 日中はさらに気温が上がった。

 暑くて、私達は倉庫から小学生の頃に使っていたビニールプールを出してきて、そこに足だけをつけて、縁側に寝っ転がった。さすがに全身つかってばしゃばしゃやるほどアホじゃない。

「姉ちゃん、こうやるだけでもだいぶ涼しいなー」

「うん」

 私は少し眠くなっていた。

「夏休みらしい一日やなー。姉ちゃん、暗くなったら花火でもするか?」

「えー、嫌やわ。なんで高校生にもなって姉弟で花火なんてせなあかんのよ。私らはカップルかっての」

「はは。確かになー」

 それで私は目を瞑る。

「姉ちゃん、俺が貸したCDどうやった?」

「んー、あんまタイプちゃうかも」

「そうかー」

「うん」

「なぁ、姉ちゃん」

「今度は何よ」

「あの彼氏とは上手くいってるんか?」

「誰よ、あの彼氏って」

 おそらく林田君のことを言っているんやろうと分かってたけど、気付かんふりで聞いてみた。

「ほら、ガストのー」

「別に彼氏ちゃうよ。友達やで」

「そうなんか? なんかええ感じやったけど」

「まぁ、ちょっとええ感じなんはイナメナイけどね」

「そうか」

「私の心配はええけど、あんたこそどうなん? そろそろ彼女とかできた?」

「俺はまだそういうのはいい」

「あ、そ」

 まだいいとか言いながら、ほんまはめっちゃ欲しいと思ってるくせに。私はそういうの、ちゃんと見抜いてる。

「姉ちゃん、花火するのめんどいなら今夜見に行こうや、ほら猪名川の花火大会」

「あー、それはあかんわ。姉ちゃん、先約あり」

「お。あのガストの人?」

「うん、まぁ」

「ええ感じやな」

 私は何も言わんと寝たフリをした。

「頑張れよ、姉ちゃん」

 やっぱりかわいい弟やな。

 そんなことを思ってるうちにほんまに寝てた。



 川西能勢口の梅田寄りの改札をくぐると浴衣姿の人がたくさんいて、いつもとは違う、花火大会特有の雰囲気があって、その雰囲気を私はわりと好きだ。

 なんて思うけど、私は浴衣じゃない。なんか照れ臭くて、バリバリ気合い入ってるみたいに思われたら嫌やなぁ、なんて思って、ポロシャツに七分丈のジーパンという、超私服やった。そんな葛藤の有る無しは別にして、林田君も同様に超私服。紺のシャツに下は半ズボンやった。

「すげー人」

「そりゃ花火大会やからね」

 人の流れに沿って歩いていたら、気づいたら阪神高速のあたりまで来ていた。少しずつ空が暮れかけている。

 今日の林田君はいつもよりちょっと無口で、それにつられて私もちょっと無口になってる。

 だから、「席取る前になんか食べるもの買おうか」って林田君がいつもの感じで言ってくれた時は嬉しかった。「うん」って言って付いていく。

 屋台の明かりがきらきらしてる。子供たちが笑ってる。大人も。それで前を歩く林田君の大きな背中。少し汗をかいている。圧倒的に夏やった。

 唐揚げとたこ焼きとお茶を買うと、もう花火が始まる時間に近かった。河原には人がいっぱいで、もうちょい早く来たらよかったかなー、なんて思ったけど、土手の上、詰めれば二人座れるくらいのスペースを見つけてそこを抑える。

 その頃にはもう空は暗くて、並んで花火を待つ。

「学校辞めることが正式に決まってん」

 目を合わせずに林田君は言った。

 それはこの夏、心の中に常にあったもやもやで、何をしている時も、幸せな時すらもそれは付きまとっていた。

 林田君と話したりメールしたりするのはほんまに楽しくて、私はずっとその事実から目を逸らしていたけど、いよいよそうもいかない時が来たんやなぁ、と私は思った。

 そしてそれは私にとって絶望と同じことを意味していた。

「それに家も引っ越すことになる」

「引っ越す?」

「うん。親父があんなことになってもうたからなぁ。さすがにこの街にはおれへん」

 それはまぁ、確かにそうかもしれない。

「どこに引っ越すん?」

「川崎」

「川西? なんやそれなら近くやん」

「違う、違う。川崎。川西ちゃうよ」

「川崎って何県?」

「神奈川」

「神奈川……遠いなぁ」

「うん」

 押しつぶされそうやった。見えない何かにつぶされて、ぺしゃんこになってしまう感じ。花火はまだ上がらない。

「林田君、お父さんのこと恨んでる?」

「それがなー。全然恨んでないんよ」

「そうなんや」

「うちの親父、選挙ポスターの写真なんか見ると正直頼りないというか、何とも言えないオッサンなんやけど、あれで意外としっかりしてるし、それに昔からほんまによく遊んでくれた。テニスを教えてくれたのも親父やし。うちの親父、あの感じやけど高校の時テニスで国体出てんねんで」

「へぇ」

「まぁ、今回の裏口入学はちょっとなー。さすがに俺も怒ったし、母さんも怒ってたけど、親父もほんまに反省してて、ドラマみたいに土下座して謝ったりするから、もうそれ以上は何も言えんくてさー」

「そうなんや」

「母さんも一時期はいろいろ混乱しとったけど、やっと最近落ち着いてきて、弟はアホやからなんやよく分かってないけど、とりあえず今は家族四人でやり直そうって感じなんよ」

「うん」

「でもまさか裏口入学やったとはなー。俺けっこう頑張って受験勉強しとったんやけどな。まぁちょっと背伸びした志望校ではあったけど。本気で受かったって思っとったわ。ははは」

 なんて林田君は笑うけど私は笑わない。

 私の顔は暗い。

 それに気づいた林田君は急に話題を変えて、

「そういえば高橋さん、近々誕生日ちゃうの?」

 なんて言う。私はちょっと驚いて、

「そう。再来週やで。なんで分かったん? 言うたっけ?」

「いや、祭理って名前やから今くらいの生まれなんかなって思っただけ」

「意外に鋭いのね。それでは何かプレゼントをおくれ」

「はは。ええけど。何が欲しいん」

「やっぱニンテンドースイッチかな」

「高っか。そんなもん買えへんわ」

「んー、ほな3DS?」

「いやいや、そない変わらんやん。てか、とにかくゲームが欲しいんやな」

 そう言って林田君は笑う。

「うん。なんかおもろそうやん」

「もうちょい俺の手の届くもんにしてくれー」

「じゃ夏が終わっても私と一緒にいてよ」

 そこで最初の花火が上がった。

 ひゅーっと昇り、パンっ。きらめいて、夜に散る。

「そうしたいのはやまやまなんやけどね」

 林田君が言う。

「好きやで、林田君」

 花火はぼんぼん空に上がっとる。

 色とりどりで、私は少し頬を赤らめてそれを見る。林田君は驚いて、

「初めて女の子にそんなこと言われた」

「そう?」

「うん。俺も……高橋さんが好きや」

「そんなこと言うのも初めて?」

「や、それはずっと前に一度だけある」

「そこは嘘でも初めてって言えい」

 と言って私は林田君の頬にグーを入れる。

 んで、私のグーを受けた林田君の笑顔が花火に染まってる。

 綺麗ね。

 なんつーか、そういうの、良い。

 打算的なことは抜きにして、そんな瞬間に巡り会えてとにかく感謝、やと。無意識に微笑んだりする。林田君も。私も。でもマジやかんね。マジで初めてって言ってほしかったんやから。初めてって大事なんやからね。

 見慣れた猪名川の先からまた花火が上がる。

 閃光が空に広がる。何重にも。

 それはどう見ても非日常的光景で、どーにもなぁ、消えんでほしかった。花火の一つ一つが愛おしかった。散ってく光景が美しいのに。そんなこと分かってんのに。

 花火を見ながら、林田君は少しだけ泣いた。

 私は男の子が泣くところなんて初めて見たから驚いた。それでそっと手を繋ぐ。

 花火が終わった後もなんとなく繋いだ手を解くタイミングを失って、中山観音駅までずっと林田君の手を握っていた。



 週が明けたらまたすっかりおなじみの夏期講習が待っていた。

 なんも変わらん教室。道ちゃんが手を振ってる。

「おはよー」

「おはよ」

 私は欠伸をする。

「何? 今日は一段と眠そうやん」

「あ、うん。あのー、撮りためてたドラマを一気に観てた」

「何時に寝たん?」

「三時かな」

 嘘やった。

 いや、三時に寝たってのはほんま。

 撮りためてたドラマを観てたってのが嘘。眠れなかったのだ。単純に。林田君と花火に行ったのが土曜日で、そのあとの日曜、昨日はなんともピリッとしない一日で、気の抜けたように一日を過ごしていたのに、夜、布団に入ったあたりから急に頭が働き出して、もやもやと悪い考え事をしてしまい、それで気付いたら三時やった。

 夏期講習はとにかく眠かった。てか、半分寝てた。私は普段は授業中に寝たりしないタイプなんやけど、三時寝はさすがにキツい。

 休み時間、道ちゃんとトイレに立った。私はまだ欠伸をしている。すると、隣の男子トイレから林田君がテニ部の男子数人と一緒に笑いながら出てきた。

 私は驚いた。てかお互い「あっ」ってなった。

「学校、来てる」

「うん。最後やからな。今週は来てんねん」

「そっか」

 この前、好きなんて言うてもうたから若干気まずい。

 ま、それはお互い様か。

「いつ引っ越すん?」

「八月三十一日。見送り、来てくれる?」

「家族もいるんやろ? 気まずいって」

「そりゃまぁ、確かに」

「また住所教えてな。手紙書くわ」

「ええよ、メールで」

 それで笑う。私の好きな林田君の笑顔。

 先に歩いて行っていたテニ部の男子達が「宗介ー!」なんて向こうの方から林田君の名前を大声で呼んでる。そういえば林田君、下の名前は宗介やったな、とその時思い出した。

「呼ばれてるで」

「うん」

「またね」

「うん、また」

 手を振って別れる。

 一緒にいた道ちゃんは驚いて、

「何? あんた、林田君と仲良かったっけ?」

「まぁー、最近ね」

「あ、なんかその言い方怪しいぞ。さてはなんか私に内緒にしとるな」

 そう言って道ちゃんは私の頬っぺたをつねる。

 へへへ、なんて言って笑う。

 その日、私はこの夏の林田君とのことを洗いざらい道ちゃんに話した。

 道ちゃんは最初、「なんでもっと早く言わないのよー」なんて怒ってた。そりゃそうだ。ほんで「なんかええなー、青春みたいで」って言われてちょっと照れた。青春、なんて言葉。むず痒い。

「でもあんたええの?」

「うん?」

「行ってまうんやろ? 林田君」

「そうやねんなー」

「そうやねんなって」

「いや、好きって言うて、俺もってなったんやけど、あの時、花火中やったからなんとなく話が流れちゃったんよねー」

「タイミング悪。なんでそんな時に言うんよ」

「てかそもそも言うつもりじゃなかったんやけどなー」

「気づいたら言うてた的な?」

「そうそう」

「ノロケよって。めっちゃ好きやん、それ」

 言われてみたら確かに。私、いつの間にか林田君のこと、めっちゃ好きになってた。

「行っちゃうよ、林田君」

「うん」

 分かってるっつーの。

 でもけっきょく、私は何もできないままに、林田君は川崎に行ってしまった。

 そして十七の夏休みも終わった。



 文化祭の日は快晴。ってか残暑が信じられんくらいのポテンシャルを見せつけた一日やった。

 だから出店もスープとか、ちょっと凝って明石焼きなんかを売ったクラスはまったく売れずで、逆にシンプルにかき氷なんかにしたクラスは大盛況で半端ない収益格差が生まれた。

 私のクラスはというと、教室を段ボールで区切って迷路を作り、「大迷宮の館」なんてネーミングで売り出した。

 しかしまぁ、所詮は段ボールの迷路。作ってる途中からクラスメイトも、普通にやったらこの企画がちっとも面白くないことに気づいてしまい、そこから電気を消して真っ暗にしてみたり、百均で売ってる蛇の人形を陰から投げてみたりと、もはや迷路なのかおばけ屋敷なのかよく分からん感じにどんどん方向性を変え(迷路なだけに迷走して……上手い! 座布団一枚!)最終的にはまぁ一応、総合評価六十点くらいの迷路にはなった。

 当日も意外と人が入った。これはほんまに意外で、後で他のクラスの友達に感想を聞いてみると、「クーラーがよく効いていた」とのことだった。笑ってしまった。

 文化祭中、交代で「大迷宮の館」の店番をした。それは蛇の人形を投げたりとか、ラッパを鳴らしたりとか、そんなん。私は主に道ちゃんと受付をしていた。

「祭理、お母さん来たよ」

「え」

 道ちゃんの指差す廊下の向こうを見ると、驚くことに、お母さんと梓砂姉がいた。

「梓砂姉」

「久しぶりね、祭理」

 梓砂姉はどこかでもらったのであろう「文化祭!!」と書かれた団扇を持っていた。この前まで茶髪やったのにいつの間にか黒髪に戻っていた。

「今日帰ってきたん? てかどしたん、こんなとこに来るなんて」

「帰ってきたら、お母さんが祭理の文化祭に行くって言うから付いてきたの。久しぶりに母校を見たかったしね」

 梓砂姉もこの学校の卒業生なのだ。

 隣にいるお母さんは微妙な顔をしていた。多分、梓砂姉をここに連れてきたくなかったんやろう。梓砂姉は在学中、やはり破天荒で、お母さんも何度か学校に呼び出されたことがある。その苦い思い出があるからだ。

「浮雄は?」

「浮雄は部活よ」

「あ、そっか」

 うちの学校以外は普通の週末なのだ。

「で、何。迷路?」

「うん。大迷宮」

「なんかおばけ屋敷みたいやねぇ」

 と、お母さん。

 お母さんは少し怖がりなところがある。この後、蛇の人形を投げつけられることを知っているから道ちゃんと目を合わせて苦笑いをする。

「ねぇ、ねぇ、祭理の彼氏はどこ? せっかくやから紹介してよー」

「そんなのいませんよ」

「うっそ。ダメやん、女子高生。頑張らな」

「うっさいなぁ」

 私は膨れる。やっぱり梓砂姉は怖いから恐る恐るやけど。

 それで二人、大迷宮に入って行った。

 しばらくしてお母さんの悲鳴が聞こえた。

 はは。文化祭。

 そして文化祭の一番のイベントと言えば、そう、合唱コンクールである。

「ホール・ニュー・ワールド」

 講堂のステージに上がり、全校生徒を前にするとさすがにビビる。でも歌い出したらわりと楽になって、いい感じの状態になった。みんなもそんな感じやったのか、結果的になかなか見事な「ホール・ニュー・ワールド」になった。

 そして驚いたことにうちのクラスは高等部内で第三位に選ばれたのだ。これはけっこう珍しいことで、いつもだいたい上位三位は三年が占める傾向にあり、二年での入賞は快挙やった。

 一番頑張ったさっこちゃんは泣いていた。

 うんうん、ほんまに良かった。

 やっぱ文化祭っていいよね。みんなが一つになるこの感じ。

 なんて浸っているうちに、文化祭、あっという間に終わった。

 最後はみんなで教室の片付けをする。うちのクラスは大迷宮に大量に段ボールを使っていたから片付けはけっこう大変やった。段ボールを折りたたんで紐でくくる。百均で買った小道具も、もう捨てる。誰もいらないし。見ると、透明なビニールのゴミ袋からあの蛇の人形がこちらを見ていた。お前は、よう頑張った。

 くくった段ボールはけっこう重いから男子、私達女子はその他の軽めのゴミを持って体育館横のゴミ捨て場に行ったんやけど、私達が来るのが遅かったこともあり、ゴミ捨て場には既にいつもとは比べ物にならない量のゴミが捨ててあり、満パン状態で、自分達のゴミを捨てる場所がなかった。それで体育教官室にいた先生に相談したら、体育館の裏手にある第二ゴミ捨て場へ持っていくように言われた。

 指示された通りに第二ゴミ捨て場に行ってゴミを捨てる。軽くなった身体で教室へ戻る。すっかり遅くなってしまった。他のクラスはもう下校し始めていた。

「あ」

 校舎の手前で私は立ち止まる。

「どしたん? 祭理」

 少し先を歩いていた道ちゃんが振り返る。

「しまったー。第二ゴミ捨て場の鍵、持って来ちゃった」

「あちゃー。こっから戻るんめんど」

「しゃーないな」

「ついて行こか?」

「や、いい。ぱっと行ってくる」

 私は体育館への道を引き返した。

 夕方になってもまだ暑い。残暑ってこんなきつかったっけ? なんか去年もそんなこと思ってた気がするけど。

 体育教官室をノックするも、返事がない。それで中に入ると、やっぱり誰もいなくて、せっかく戻ってきたのにどないしょーと思ったけど、壁に「第二ゴミ捨て場鍵」とテプラで貼ってある空っぽの引っ掛けがあったから、まぁ、ここに掛けとけば問題ないかと思って掛けておく。

 教官室の窓からはプールが見えた。

 うちの学校のプールは立派で、普通は二十五メートルプールが主流なところを五十メートルプールなのだ。広い。今日は文化祭やから、さすがに水泳部も練習してなくて、誰もいない。

 ちょっと考えついて、体育教官室を出る。

 で、そのまま柵を乗り越え、プールサイドに侵入した。

 私は飛び込み台に座り込んで上履きと靴下を脱いでプールに足をつけた。冷たい。

 濡れた足は、首からかけたタオルで拭けばいい。

 蝉の声が聞こえる。

 夕方の斜陽が水面に反射して揺れる。

 文化祭はもう終わった。

 林田君、君がいなくなって二週間が経つよ。川崎で元気にやっているのかい?

 関西弁、クラスで浮いたりしていない? あんま変なこと言うて周りを困らせたらあかんよ。学校が始まって、私はそれなりに楽しくやってる。文化祭は楽しかったし、合唱コンクールは高等部で三位やったし、梓砂姉が帰ってきたのはまぁ、アレやけど、うん、幸せよ。

 けっきょく恥ずかしくて見送りには行かなかったんやけど、引っ越してから、林田君からのメールは途切れがちになっている。まぁー、引っ越したてでバタバタしとるんやろなぁ、なんて自分に都合の良い解釈をして、なんとなくそれを受け入れていた。

 学校が始まってから、いろいろなことがあった。

 まず、凛はけっきょく百井さんと付き合った。

 道ちゃんの言う通りになった。

 今では百井さんは毎日凛の練習が終わるのをギャラリーで待って、二人で下校している。ひゅー。

 で、当然松井さんは荒れて、また、けっこう泣いた。その感じはなんだか梓砂姉に通じるとこもあるなぁ、なんて私は思って。まぁ、またいい人が見つかるよ、なんて道ちゃんと月並みなことを言って慰めた。

 次に、テニス部の矢野君が学校の屋上で煙草を吸って停学になった。

 あほよねー。屋上って言ったってうちの校舎の造りからすると中等部の方から丸見えなんやもん。なんでわざわざ学校で吸うかなぁ。それでテニス部は今、林田君も矢野君もいなくなっちゃってけっこう大変みたい。秋に大会もあるのに。

 あとは何やろ、あとはまぁ、相変わらずかな。

 あーそういえば、道ちゃんが塾に行きだした。夏休みが終わって、若干受験モードになってる子が何人かいる。私は何もしてないけどね。

 ははは。

 はは。

 は。

 は。

 はー。

 なんてこと、林田君はなんも知らんねんなぁ。

 林田君がいない毎日が、こうして当然のように動き出しているのだ。

 そんなことを考えると、急に信じられないくらい涙が溢れてきた。

 大粒の涙が頬を伝う。

 明日も明後日もまた朝が来て、林田君のいない毎日が続いてく。でもそれが辛いのは林田君と過ごした毎日があったからこそなのだ。

 それを愛おしく思おうと思った。でも私はそんなに大人じゃなかった。

 だから泣いてしまう。

 声をあげて泣いてしまう。

 誰もいないプールサイド、私の泣き声が広がった。ここで良かった。一人で良かった。

 多分いつどんな時でも、あんなこと考えたら泣いてしまっていたと思う。

 てか、涙ってこんなに出るん? ってくらいに涙が出る。

 やっべー、干からびてまうわ。だんだんなんか震えてきたし。腰のあたりがぶるぶるしてきた。うおー、まじで。

 って、や、これはおかしい。これはなんか違う。

 スカートのポケットの携帯が鳴っているのだ。

 道ちゃんやろなぁ、ぱっと行ってくるなんて言うたくせになかなか戻らんから。でも見ると、これがまさかの林田君やった。しかも電話。

 うおっ。

 ええっ。

 なんか、奇跡みたいやな。慌てて涙を拭き、電話に出る。

「もしもし」

「あ、もしもし。ごめん今大丈夫?」

 懐かしい林田君の声。

「うん」

「何してたん?」

「泣いてたよ」

「泣いてた? またなんで?」

「林田君のこと想って」

「はは、そうか」

 多分、冗談やと思ったんやろう。電話の向こう、林田君は軽い感じで笑った。

「どしたん?」

「んー、いや、なかなかメール返せてなくてごめん」

「いいよ。ばたばたしてたんやろ?」

「うん。初めてやったんやけど、引っ越しって大変なんやなぁ」

「私、引っ越ししたことない」

「うん」

「ほんでどうしたん?」

「うーん。一つ言い忘れてたことがあって」

「何?」

「俺と付き合ってほしいんだ」

「はぁー?」

 驚いた。そんなこと言われるなんて思ってなかったから。どうせまたいつもの馬鹿話やと思った。

 もちろん嬉しかった。でもなんか笑ってしまった。ふふ、って。

「え、笑うとこ?」

「だってもっとさ、いいタイミングあったやん。ロマンチックな」

「花火とか?」

「そう、花火とか」

「まぁ、せやな。なかなか言い出せなくて。てか俺は俺なりに今電話するのも勇気いったんやで」

 林田君らしい。

「いや、まぁ、ある意味ナイスタイミングよ。今林田君からの電話がなかったら、もしかしたら私、死んじゃってたかもしれんから」

「なーんや、それ」

 はは、なんて私は笑う。半分泣き笑いやった。

「ほんで、どうなん?」

「私、寂しがり屋やで」

「うん」

「わがままなとこもあるし」

「うん」

「胸かて小さいし」

「おーい。分かったからそろそろ返事を教えてくれー」

「いいわよ。いいに決まってるやん。今やって林田君のこと考えて泣いてたくらいなんやから」

「えっ、マジやったん?」

「マジやわ。アホ」

「ありがとう」

「何がありがとう、よ」

 なんかムカつく。

「俺、バイトしてお金貯めて高橋さんに会いに行くわ」

「えっ、いやいや、林田君はテニスせんと」

「まぁ、それは……」

「サボらんとテニス頑張りや。バイトは私がして会いに行くから」

「えっー。それはそれでどうなん」

「いいのよ。私、暇やし」

「まぁ、そこはまた考えよか」

「うん。てか私、そろそろ行かないと。今日は文化祭やったんよ。まだ片付けの途中やねん」

「おぉ、文化祭」

「うちのクラス、合唱コンクールで二位やってん」

「すげぇやん」

「へへへ」

 聞いてほしいことはたくさんある。

「また連絡くれる?」

「もちろん」

「じゃ一旦切るね」

「うん。また」

「また」

 それで電話を切った。

 前を見ると、校舎の向こう、空が真っ赤に染まっていて綺麗やった。あ、これは絶対に写真に残すべきや、と思って携帯で撮るも、なんだか微妙で、自分の目で見る方がずっと綺麗で、素晴らしかった。

 思い出なんてものも多分それと同じなんちゃうかな、なんて思う。今私が見ている光景や気持ちを、私は多分三十まではっきりと覚えておくことはできないやろう。携帯で撮った写真と一緒で、その素晴らしさを保存することは絶対に不可能やと思う。だからしっかりと今を、今この時を、空気を、全身で感じておこう。そう思った。

 十七の夏。林田君と付き合いだした日。夕景。

 濡れた足を拭き、プールサイドから出て暮れかけた空を背負った校舎の方へ、一人ゆっくりと歩いていく。

 夏の夕暮れ。うちに帰ったらまた林田君に電話をしようかなー。いやー、でもこの後、打ち上げとかあるやろしなぁ。遅くなりそうってことだけメールしとこうか。なんて。うん、まぁ、ゆっくり行こう。

 また携帯が震える。

 今度は本当に道ちゃんやった。

「祭理、どこおんの? 早よー」

「ごめんごめん」

「何してんのよ」

「ん、ごめん。ちょっとうだうだしてた」

「……大丈夫?」

 道ちゃんは鋭い。んで、優しい。

 多分、林田君のことで心配してくれてるんやろう。

「大丈夫よ」

 なんて笑ってみせる。ほんまにもう大丈夫なのだ。十五分前までは確かに大丈夫ではなかったんやけどな。

「ならいいけど。そろそろ打ち上げ行くよー」

「了解。あと二分待ってて」

 電話を切り小走りになる。

 気持ちの良い風とすれ違う。

 夕陽色に染まる校舎への道を、私は一度も振り返ることなく駆けて行った。

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