掌の小説

まるこゆうき

「油虫」

 中学時分の話だが、隣家に変わり者のじいさんが住んでいた。午後になると通りに面した縁側に腰かけてタバコをのむのが日課で、ときどき目についた人間にからんではからかいにかかるのだ。当時の俺などは格好の標的で、たびたび縁側まで誘いこまれて対客をつとめさせられたものだった。



「油虫」、と深沢のじいさんが言うものだから、へえ? アブラナなんかにたかって花を駄目にしちまう、ちっちゃな緑色のやつのことかい? と俺は聞き返した。

「違う、違う」深沢のじいさんが首を振った。「そいつじゃなくて、洗い場なんかに這って出る、黒いやつのことだ」

「ああ」俺は納得した。

 なるほど、言われてみれば、あのいやらしくてかてか光る翅の具合なんかは、まったく「油虫」と呼ぶのに相応しい。

「そうだ。そっちの油虫だ」

 満足げに小さく頷いた深沢のじいさんは、続けて突拍子もないことを言った。

「人間はそのうち、みんな油虫みたいになるんだ」

 俺は驚いて聞き返した。

「おい、じいさん、いったいそいつはどういうことだよ?」

 深沢のじいさんは笑って答えた。

「あいつらは、考えてみりゃあ、随分幸せなもんだ。食い物はあるし、その日その日を、なんにも考えずに平和に過ごしている。きっと、人間もそのうち、あいつらみたいに無感覚になっていくんじゃないのかな」

 俺はなにも言わずに肩を窄めて見せた。すると、深沢のじいさんは、顔中に皺を寄せた、特徴のあるしたり顔を作って見せた。それがいつもの得意の表情なのだ。よくよく変わったじいさんだった。

 そんなじいさんが死んで、俺も通夜に呼ばれることになった。

 白い布の下から覗いたじいさんの死に顔は微笑んでいるようで、俺にはなんだか、じいさんがあの例のしたり顔をしようとしているように思われた。

 焼香の時、どこから紛れ込んだのか、枕飾りの白木台の下から一匹の油虫がするすると這い出してきた。

 ちょうど近くに座っていた、ひどく中年肥りをしたじいさんの娘が金切り声を上げて、すぐさま上履きでそいつを叩き潰した。

「なにをするんだ、じいさんかもしれないのに」俺はついそう口にしてしまい、その場にいた弔問客たちから一斉に奇異の視線を浴びるはめになった。肥り過ぎのじいさんの娘は忌々しそうに俺を睨んでいた。

 通夜が済んで家に帰り着くと、暗い居間に座り込みテレビだけをつけた。ニュース番組をやっていた。

 また中東で人が死んだらしい。

 俺は嫌な気分になった。じいさんよ、人間のどこが平和なものか、なにが幸せなものか。世の中はどんどん不幸になっていくばかりだ。力を持った大国が、その豊かな石油が欲しいばかりに土地の人々を犠牲にしている。他の国も、腰を入れて反対しないところを見ると、裏で話が付いているのだろう。やつらも共犯だ。誇りも情けもない、利己欲に塗れた塊だ。なんと醜い連中じゃないか。まるで油虫みたいに醜く、汚らしい。

 台所の方に小さく動く気配があって、俺はそっちを振り返った。

 冷蔵庫の隅に小さな黒い影がある。どうも、本物の油虫だ。

 俺は音を立てないように立ち上がり、そっとそちらへ忍び寄った。影の形からして、一匹ではなく、二匹連なっているらしい。

 台所の床の上履きを片手で拾い上げ、肩の上に構える。さらに近くに寄った。もうすぐで手の届く位置までやって来た。油虫め。怒りで手が震えた。この、汚らしい油虫め。

 その時、テレビの画面が切り替わったのだろう。居間から台所へ、ぱっと明かりが差し込み、眼下に影の正体を照らし出した。

 俺ははっとして息を呑んだ。

 それらは確かに二匹の油虫だったが、一匹は仰向けに転がり、天井を向いた六本の脚を腹の傍に縮こめていた。もう一匹が、その二本の触角をひっきりなしに振り回しながら、仲間の死骸の右眼の辺りを貪り喰っていた。

 明かりは一瞬で消え、もう目の前のそれは小さな影に戻っていたが、俺の両目は驚愕に見開かれ、身体は凝然として呼吸の仕方も忘れたようだった。台所の片隅の暗闇で平然と行われる悪徳に俺は唖然とし、腕の力も抜けて、上履きを振り上げた手がゆっくりと脇に落ちていった。

 こういうことだったのか。

 じいさんのしたり顔の意味がやっとわかった。背後のテレビのスピーカーから、キャスターが今度は子供を殺した母親のニュースを読み上げ始めるのが聞こえてきた。

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