神無月の七海1

 深夜十二時。

 居酒屋バイトを終えた七海は、自転車に飛び乗ると家路を急ぐ。

 朝五時からノンストップのWワークはきつく、疲労感が半端ない。

 居酒屋バイトのまかないも、眠気が来るのを恐れ普段の半分しか食べられなかった。


「もう限界、お腹空いた。それよりも早く家に帰って寝たい」


 七海はふらふらの状態で住宅街の心臓破りの坂を立ちこぎすると、坂の上に雨漏りのする我が家が見えた。


「家に明かりがついている。真琴ちゃんと小さいおじさんはまだ起きて……家の前に白い車が停まっている!!」


 疲労感で眠気に襲われていた七海は、一気に覚醒する。

 車があるということは、普段なら夜八時には帰る恵比寿青年が、今日は深夜十二時過ぎても帰っていない。

 

「落ち着くのよ七海、私は別になにひとつ悪い事はしていない。きっと恵比寿さんは小さいおじさんとイチャイチャして帰る時間が遅くなったのよ」 


 気を取り直して家の門をくぐり、息を整えて玄関の扉に手をかける。

 次の瞬間、勝手に玄関の扉が開き、目の前に長身で超絶美形の恵比寿青年がアルカイックスマイルを浮かべながら立っていた。


「た、ただいまです。恵比寿さん」

「お帰りなさい天願さん。今日は大黒天様と話しすぎて、随分と遅くなりました。それではお休みなさい」


 恵比寿青年はいつもより上機嫌で、七海に挨拶をするとさっさと帰った。

 家に入ると、すでに小さいおじさんは座布団の上で寝ていて、真琴は台所のテーブルで学校の宿題をしている。


「ただいまぁ、真琴ちゃん。恵比寿さんは随分と遅くまで居たんだね」

「大変だよ七海 ねーね!! 桂一 にーには何か勘づいているみたい。私宿題するふりをして誤魔化したけど、大黒天様はにーににしつこく尋問されていたよ」 

「ちょっと待って真琴ちゃん。恵比寿さんが尋問とか、私とんでもなく悪いことしているみたいじゃない」

「私も大黒天様も口を割らなかったから安心して。桂一 にーには七海 ねーねを心配してる」

「どうして恵比寿さんが、私のことを心配する必要あるの?」


 七海は真琴の言葉を理解できず、首をかしげる。

 自分はご利益を授かりたくて、小さいおじさんを無理矢理この家に引き留めている。

 小さいおじさん大好きな恵比寿青年が、対立する七海を心配するなんてあり得ない。

 真琴が色々と話しかけるが、疲労困憊の七海は話の半分も聞き取れなかった。


「ゴメン、真琴ちゃん。もう眠っ、詳しい話は明日、おやすみ、なさい」


 七海はもはや寝間着に着替える気力も無く、押し入れから毛布を引っ張り出すと仏間の畳に倒れるように撃沈する。

 よっぽど疲れているのか、半分白目を剥いてピクリとも動かない七海を見下ろしながら、真琴は大きなため息をついた。


「すでにバレていると思うけど……七海 ねーねは一度強く怒られた方がいいよ」



 ***



 翌朝四時半。

 スマホのアラームで叩き起こされた七海は、十分で顔を洗い歯を磨いて服を着替えると、まだ熟睡中の小さいおじさんを起こさないようにポシェットに入れて早朝バイトに出かける。

 時間ギリギリでレストランの厨房に飛び込み、エプロンに着替える。

 ふと足元を見ると、靴先がすり減って穴が開きそうだ。


「そういえば靴を買いに行きたいのに、福岡旅行やら早朝バイトで忙しくて、まともに買い物していない」


 今日はディスカウントストアも居酒屋バイトも休みなので、早朝バイトが終わったら靴を買いに行こう。

 久々の休日に楽しくなった七海は、パンをこねる作業にも思わず力が入る。

 そうしている間にレストランは開店時間で、朝食を求めて客が店内に入ってきた。

 七海は焼き上がったパンをバイキングテーブルに並べていると、エプロンのポケットに入れた小さいおじさんがモゾモゾと動く。


「おはよう小さいおじさん、今日は焼きたてレーズンパンだよ。この仕事が終わったら食べさせてあげる」

「娘よ、そんなことはどうでもよい。後ろ後ろっ!!」


 普段はのんびりお気楽な小さいおじさんの慌てた声に、七海は思わず作業の手をとめると、背後からよく知る気配が近づいてきた。


「おはようございます天願さん。ズボラで寝起きの悪い天願さんが早朝ウォーキングを始めたと大黒天様から聞いたのですが、まさかこんな場所で会えるとは思いませんでした」


 長身でハイブランドのスーツを着こなした超絶美形は、かっぽう着のような白エプロンに三角巾、顔をマスクで覆った七海に話しかける。


「えっ、恵比寿さんこそ、どうして朝っぱらからこんな所にいるんですか?」

「それは偶然ですよ。昨日は帰りが遅くなったので、東京には戻らず駅前ビジネスホテルに泊まりました」

「さては恵比寿さん、小さいおじさん監視用のスマホGPSでこの場所を割り出したのね」


 七海が言い返すと恵比寿青年は表情を消し、次の瞬間、優美なアルカイックスマイルを浮かべると、七海のトレイからレーズンパンを二個取った。

 

「昨夜はリフォーム業者から、一時間おきにセールスの電話がかかってきました。それとポストに投げ込まれていたリフォームチラシを預かっています。仕事が終わったら詳しく話を聞かせてください」


 仕事熱心すぎるリフォーム会社の営業が家に電話をかけまって、それを留守番の真琴が電話を取ったのだ。

 恵比寿青年は分厚いチラシの束を七海に見せつけると、席に戻っていった。


「娘よ、恵比寿は本気で怒っている。もうワシはフォローできないぞ」

「私なにも恵比寿さんに怒られるようなことしてないよ。小さいおじさんの朝食だって、店の焼きたてパンをあげているのに」


 厨房へ下がる七海と入れ違いに、レストランマネージャーが窓際の席で優雅に食事をする恵比寿青年の元へ小走りに駆けてゆき、嬉しそうにペコペコと頭を下げ、恵比寿青年と名刺交換をしている。

 きっとマネージャーは、恵比寿青年に七海の個人情報をしゃべりまくっているのだ。

 七海はこれまで張り詰めていた緊張の糸が切れたように、ドッと疲れが押し寄せる。


「大丈夫か、娘の顔が紙のように真っ白だ」

「そういえば私、昨日からご飯食べていない。全然お腹が空かないけど、バイトが終わったらちゃんとご飯を食べよう」


 しかしその日は大黒天と恵比寿天がいるせいで、店は千客万来・商売繁盛状態になり、店の入り口からロビーまで行列が出来るほど客が押し寄せる。

 七海は小麦粉をこねまくってパンを焼き、客足が落ち着き仕事を終えた頃には、すでに午前九時を過ぎた。

 窓際の席を見ると、恵比寿青年はノートPCを広げながら、スマホで仕事の打ち合わせをしている。


「恵比寿さんが怒っているって言うなら、私にも言いたいことがある。小さいおじさんのスマホを返して、プライバシーの侵害をやめさせなくちゃ」


 七海は意を決して、自分を勇気づけるように大股で歩きながら恵比寿青年の席に向かう。

 その姿を見た恵比寿青年が、今まで見たことの無い焦りの表情に変わり、慌てて席から立ち上がる。


「私だって、恵比寿さんに怒っているんだから」

「君は、そんな青い顔で、何を言っている!!」


 気がつくと七海を抱きとめるように恵比寿青年の腕が腰に回ったところで、そこから先は意識が無くなった。




 ぐったりと脱力した七海は、全体重をかけて恵比寿背年に寄りかかる。


「むすめよぉぉーーっ、死ぬなぁーーっ!!」

「大丈夫です、大黒天様。彼女は寝落ちしているだけです」


 ポケットから出てきた小さいおじさんは七海の顔をのぞき込むと、眉間にしわを寄せながらクウクウと鼻をならして寝息を立てている。

 恵比寿青年は小さいおじさんをなだめながら、レストランのホールにいたマネージャーに車の鍵を渡し、ホテル正面に車を回すように頼む。

 そして軽々と七海を横抱き(お姫様抱っこ)にすると、女性客からため息のような声があがる。

 

「恵比寿よ、最近娘はワシの声が聞こえないみたいに様子が変だった」  


 七海を車の後部座席に寝かせると、小さいおじさんは涙目で話す。

 恵比寿青年は小さいおじさんを慰めようと手を伸ばすが、神の体に触れることはできない。

 神に触れることのできる高位の霊力を持つ彼女に、一体何が起こっているのか。

 その時スマホのバイブが鳴り、手にとった恵比寿青年は思わす唸り声をあげた。


「僕としたことが、失念していました。彼女の異変は大黒天様のせいではありません。今は神無月、神の声は届かない」



【神無月】

 陰暦十月(最近は新暦でも使われる)の別称。神無し月。

 八百万の神が出雲に集うため、神が居なくなると言われる。



 白いハイブリット車は駅前ビジネスホテルを出て、天願家へ向かう。


「なんと、娘はワシの声が聞こえない状態なのか!!」

「天願さんは大黒天様の話を聞いているつもりでも、心に届かないのでしょう」


 神無月の話は民間俗説と言われるが、今の七海は小さいおじさんの話を聞かず暴走状態だ。


「では、恵比寿も弁財天も娘を説得できないのか?」

「神無月の留守を守る神もいます。恵比寿天はヒルコで出雲まで行けない。しかし相手は天願さん、僕の話を素直に聞くかどうか」


 恵比寿青年は後部座席に横たわる七海の顔をのぞき込むと、まぶたは閉じられたまま眉間にしわを寄せ、プシュープシューといびきをかいている。

 家に到着しても七海が目を覚ます気配は無く、恵比寿青年は仕方なく彼女を仏間に寝かせた。


「大黒天様、僕はこれから仕事の打ち合わせがあるので、また夜に参ります。それと大黒天様のスマホを貸してください」

「そういえば娘がスマホで監視するのはやめろと言っていたぞ。恵比寿よ、何をしている?」

「不要なセールスや防犯を考えて、カメラアプリを入れました。これで大黒天様を二十四時間見守ることが出来ます」


 やたらと嬉しそうな恵比寿青年からスマホを渡され、新規登録したアプリを見た小さいおじさんは大きなため息をつく。


「恵比寿よ、さすがにこれはドン引きだ。ペット・モニターと表示されているが、はっきりいって監視カメラではないか」

「これでいつでも大黒天様のお姿を拝見でき、あっ、アプリを消さないで」


 すっかりスマホを使いこなせるようになった小さいおじさんは、恵比寿青年の入れた監視カメラアプリを削除する。

 小さいおじさんと恵比寿青年が騒いでいる間も、七海は爆睡したまま起きる気配が無い。



 ***



「ふわっ、炊きたてご飯とサンマの焼ける香ばしいかおり。そういえば恵比寿さんが早朝バイトの邪魔をする夢を見たけど、えっ、私なんで寝ているの!!」


 七海は夢見心地で呟きながら、もう一度布団の中に潜ろうとして、違和感から急激に覚醒する。

 慌てて飛び起きると、七海は真琴のお布団に寝かされていた。

 仏間のちゃぶ台には炊きたてご飯と旬のサンマの塩焼きが置かれ、小さいおじさんが赤味噌仕立てのしじみ汁を美味しそうにすすっている。


「娘よ、よく寝たのぉ。そんな驚いた顔をしてどうした?」

「えっ、外は薄暗いけど今何時? 時計は七時で、やばい、早朝バイト寝過ごしたぁ」

「七海 ねーねったら寝ぼけているのね。今は朝じゃない、夕方だよ」


 声がした方を振り向くと、台所から天ぷらの盛り合わせを運んできた真琴と恵比寿青年と目が合う。

 自分はさっきまでビジネスホテルにいて、早朝バイトが終わったら靴を買いに行く予定だったのに、どうして家で寝ているのか状況把握ができない。

 

「バイト先に恵比寿さんが来て、とてもお腹が減って、それから私どうしたの?」

「天願さん。君は僕の目の前で、寝不足と空腹と過労で倒れたことも覚えていないのですか」

「今、夜の七時!! 私せっかくの休日を寝て過ごしたの?」


 Wワークを始めてから一週間ぶりの貴重な休日が、寝て終わり気づいた七と海は、思わず膝から崩れ落ちた。

  

「目の前で倒れた天願さんを見て、黒天様がどんなに心配したか」

「私倒れた? そういえば手足に力が入らない。小さいおじさん、お腹が空いたよ」

「娘よ、ワシのお供え物を食べるのだ」


 普段とは逆の立場でご飯をねだる七海に、小さいおじさんは早く食べろとしじみ汁を差し出した。

 小さいおじさんにお供えした後だから少し冷めているけど、新米の銀シャリ美味しい。

 冷めたサンマの塩焼きも、皮がパリッと焼けて身に脂がのっている。

 一日……もしかしたら二日ぶりのまともな食事を平らげ、七海はほっと一息つきながら、もう一度壁の時計を見る。

 せっかくの休日を寝て過ごしてしまった。

 明日から再びWワークで、忙しくて食事も睡眠もまともに取れないだろう。

 思わずため息をついた七海は、小さいおじさんにお茶を運んできた恵比寿青年とうっかり目が合う。


「それでは天願さんが早朝バイトを始めたり、リフォーム会社から電話があった理由を教えてください。バイト先で倒れた君を保護した僕は、話を聞く権利があります」


 いつものアルカイックスマイルを浮かべた恵比寿青年に、七海は引きつり笑いを浮かべながら返事をする。


「えっと、この間の大雨で二階の天井が雨漏りしているけど、真琴ちゃんと小さいおじさんは一階で寝ているし、いきなり家が壊れたりしないから安心して」

「娘は家の雨漏りの修理費用を稼ぐため、朝働き始めたのだ。ワシは娘が働き過ぎだと注意したが、全然話を聞いてくれない」


 恵比寿青年は七海の言い訳を全く無視して、パラパラとリフォーム会社のパンフレットをめくる。


「このリフォーム見積もりを見たが、屋根瓦を全て処分してガバリウム鋼材にとり換えとなっている。この家をトタン屋根にするなんて風情が無い」

「リフォーム会社の営業さんは、屋根を軽くすれば地震に強くなるって言ったけど、えっ、ガバリウム鋼材って屋根瓦じゃ無いの?」

「それと外壁修繕をサディングで行うとありますが、この美しい木壁をプラスチックの壁で覆うなんてつまらない」

「えっ、壁からも雨漏りするって説明は聞いたけど、サディングって何?」


 とても仕事が忙しくて、リフォームのパンフレットに目を通す時間が無かった七海は、リフォームの専門用語を聞かされてパニックに陥る。

 恵比寿青年から完成予想図とかかれた紙を渡されると、そこにはボロだけど趣のある古民家から、ハウスメーカーの新築にそっくりな建物がCGで描かれていた。


「雨漏りの修繕に費用がかかるのは仕方ないとして、他社から相見積もりは取りましたか?」

「私はネットでいろんなリフォーム会社を調べて、テレビCMを流している有名な会社を選んだわ」

「つまり天願さんは、相見積もりも取らず一度説明を聞いただけのリフォーム会社に、この家を修繕させるのか。家主である君がそれで良いというのなら、僕は別に口出ししない」


 家の雨漏りを隠している事に怒られると思ったら、七海が拍子抜けするくらい恵比寿青年は事務的だった。

 

「私だって、まさか家が雨漏りするなんて思ってなかったよ。最近は少し運が良くなったと思ったのに、またすぐ悪いことが起こる」

「天願さん、君は運が悪いから家が雨漏りしたと思っているのか? この家の築年数を考えれば、老朽化で雨漏りしてもおかしくない。でも君は祖母から譲り受けたこの家を守ろうと決意したはずだ」


 恵比寿青年の言葉に、七海は意外な気持ちになる。

 自分の運が悪いから雨漏りが起こったと考えて、無理に仕事を詰め込んで急がしくして、その感情から逃れようとした。


「君がすべきことは、あと二カ所からリフォームの相見積もりを取って、修繕内容と費用が納得できる所を探す」

「でも私、明日もWワークで忙しくて、他にリフォーム会社を探す時間なんて無い」

「君は雨漏りの修繕費を稼ぐために働いているのに、リフォーム会社と打ち合わせする時間が無いなんて本末転倒だ。それから家をほったらかして真琴に留守番を押し付けるなら、真琴を下宿させる意味が無い。来週から東京中野の家に戻す」


 恵比寿青年はそういうと、話は済んだとばかりに立ち上がり、小さいおじさんに挨拶をして部屋を出る。

 ふたりの様子を見ていた真琴は、慌てて恵比寿青年を外まで追いかけた。

 恵比寿青年が車に乗り込むと、真琴も助手席に座り込む。


「ちょっと桂一 にーに、七海 ねーねにWワークをやめるように説得するんじゃ無いの?」

「天願さんと僕は、大黒天様を巡ってライバル同士だ。それに彼女が僕の説得を素直に聞くとは思えない」

「でも桂一 にーには七海 ねーねの事を気にしているのでしょ。だって今日の夕御飯、七海 ねーねが食べるって分かっていたから、ご飯は少し柔らかめだった」


 芸能の神、弁財天の守護を受ける真琴は、人の心の動きを読むのが巧い。


「真琴の言うとおり、天願さんはとても扱いにくい。神を捉えるほどの霊力を持ちながら、お人好しで警戒心がなさ過ぎる。今回もほんの数日目を離した隙に、とんでもないことをやらかした」


 恵比寿青年はハンドルから手を離し、諦めたように大きくため息をつく。


「ハンサムでお金持ちで神人かみんちゅの桂一 にーにに、女の人はみんな好意を寄せる。でも七海 ねーねは、なぜか桂一 にーにを警戒しているね」

「天願さんの父親はとても美形で、女癖が悪かったらしい。だから僕の作り笑いを見て、眉をひそめるのは彼女ぐらいだ」


 祖母のあんずさんは地元で有名な美老女で、父親もかなりの美形で色男らしい。

 七海も磨けば光る美人だが、スボラで大雑把な彼女はお洒落に気を遣う余裕が無い。


「僕に媚びを売って金を借りようとすら考えない。とても世渡りが下手すぎる。彼女ほどの美人なら、水商売の方が稼げるかも……」

「それ絶対ダメ、ダメだよ。お人好しの七海 ねーねが、変な男に引っかかって借金を増やすパターンが目に見えている」

「確かに真琴の言うとおりだ。今でも天願さんは、バイト先のマネージャーに同情して、ほぼ毎日働く羽目に陥っているのだから」


 真琴は七海のことで頭を悩ませる恵比寿青年の横顔を眺めながら、いっそのこと二人がくっついちゃえば良いのにと思った。

 




 七海はなにひとつ恵比寿青年に言い返せず、色々考えるのが面倒くさくなった。 


「でも今の私に出来ることは、バイトして修繕費を稼ぐことだけ。お金がなくちゃ何も出来ない。明日も早いから、さっさと寝てしまおう」


 ふてくされて畳の上で薄い毛布に包まる七海に、小さいおじさんは声をかけられない。

 小さいおじさんは仏壇にのぼると、あんずさんの遺影に話しかけた。


「神無月の今、娘にワシの声は届かない。でもあんずさんの声なら娘に届くかもしれない。どうか娘の働き過ぎを止めてくれ」


 ***


 午前四時十五分。

 七海はけたたましいアラーム音で目を覚ますが、スマホは足元に転がっている。

 昨日は早朝バイトの後に倒れて九時間爆睡、夜は恵比寿青年に言い負かされてふて寝したから、充分休んだはずなのに……体が動かない。

 

(あれ、声が出ない。私ったら寝ぼけている?)


 部屋の中が暗いと思ったら、自分の目蓋が固く閉じたままだと気づいた。

 体を無理に動かそうとしても、親指が微かに動くだけ。

 そして七海の腹の上に、ずっしりと重たい何かが乗っかっている。


(小さいおじさんったら、寝ぼけて私の上に乗っかっているの?)


 しかし七海の隣から、ぷすぅ~ぷすぅ~と小さいおじさんの鼻息が聞こえる。

 さっきからスマホのアラームがうるさいぐらい鳴っているのに、小さいおじさんも真琴も起きない。


(ちょっと待って。それじゃあ私の腹の上に乗っているのはなに? 体が動かないのは、もしかして金縛り!!)


 七海は必死に体を動かそうとして、右手だけが微かに動いて腹に乗っている何かに触れる。

 もふ、もふもふ、もふもふっ。

 毛の長いぬいぐるみみたいな、どう考えても人間じゃない手触りを感じた七海は、そこで意識が途切れた。

 


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