七海と小さな竜神1
七海は子供の頃、不思議なモノと現実のモノの区別がつかなかった。
庭に住み着いた子猫も裏庭の竹藪から現れた三尾の狐も、軒下に巣を作るツバメも、芍薬の花の中で寝ていた妖精も触れることができる。
でも七海が相手できるのは小さいモノで、あんずさんのように大きくて不思議なモノ、炎のたてがみを持つ金色のライオンや、翼のあるクジャクの相手をすることはできなかった。
恵比寿青年の会社に向かう途中、七海はついうっかり銀色の鱗に包まれた小さな竜を捕らえてしまう。
「どうしよう、小さいおじさん。簡単に捕まえちゃったというか、手を離したら竜が逃げちゃう!!」
七海は両手で小さな竜の細長い胴体を握りしめると、その手触りは金属のように冷たい。
竜は七海の手から逃れようとのたうって、子猫のような鳴き声をあげる。
すると突然周囲の木々が激しく揺れ始め、足下の落ち葉や小枝が風にあおられて舞い上がり、小さなつむじ風が起こる。
「うわっ、落ち葉や枝が体にペチペチ当たって痛いっ」
「娘よ、これは竜神の仕業。捕らえた竜を逃がして、急いで公園の外へ出るのだ!!」
「小さいおじさん、ちょっと待って。この竜どこか行きたい所があるから、私にわざと捕まったみたい」
七海はそう答えると、捕まえたミニ竜に導かれるように、道を引き返して木々の生い茂る公園の奥の方へ向かう。
道の先は大きな木々にふさがれ、繁殖力旺盛な樹木の根が遊歩道のタイルは押し上げている。
「ミニ竜はこの先に行けって言っている。中に入りたいのに跳ね返されるっていうけど、なにがあるんだろう?」
「娘の霊力は異国の竜の意思も分かるのか。さすがあんずさんの孫娘だ」
行く手を遮る木々をかき分けるように進んでゆくと、突然視界が開ける。
目の前には目映い金の塔、ではなく日差しに照らされた全面鏡張りのオフィスビルが光り輝いていた。
頭や服の落ち葉をつけたまま、建物の横の植栽から出てきた七海の前を、スーツ姿のOLが通り過ぎる。
「公園の中にビルが建っているなんて、もしかしてここが恵比寿さんの会社?」
「娘よ、大通りの向こう側に地下鉄の入り口が見える。どうやらワシらは、ずいぶんと遠回りしたらしい」
地下鉄を乗り換えれば十分で到着できるが、徒歩を選んだ七海は、まるで狐につままれたみたいに周辺を一時間近く歩かされた。
二十階建ての建物は、正面の黒い大理石にMEGUMI.Corpと書かれたモニュメントが置かれている。
「やっと恵比寿さんの会社にたどり着いた。この書類を受付に預ければいいのね」
七海は駆け足で建物の入り口へ向かうと、その手前で警備員に呼び止められる。
ビジネスビルの警備員は、両手を前に伸ばした奇妙なかっこうの挙動不審人物を見つけ声をかけたのだ。
「すみませんお客様、どういったご用件ですか。ここから先は部外者立ち入り禁止です」
「私は頼まれた書類を届けに……恵比寿さんの下の名前なんだっけ。ああっ、両手がふさがって鞄の中の書類を取りだせない」
「ふざけていないで、その両手を下ろせ。届け物があるなら俺から受付に渡しておく」
「ちょっとこの手を動かしたら逃げちゃうから!!」
七海と気の短そうな警備員が押し問答している様子を、MEGUMI社員らしきサラリーマンたちが遠巻きに眺めている。
「天願さん、君はまた何かやらかしたのか?」
背後から聞き慣れた声がして七海が振り返ると、そこには残暑厳しい中、ハイブランドの麻のスーツを涼しげに着こなした恵比寿青年が立っていた。
警備員は恵比寿青年の姿を見ると、慌てて七海から離れると深々と頭を下げる。
「おかえりなさいませ恵比寿社長。えっ、この挙動不審人物と若社長はお知り合いですか?」
「何かやらかしたって、恵比寿さんが大至急って言うから、千葉の田舎から大急いで書類を届けに来たのよ」
「天眼さんが持っているそれは、この周辺で悪さをする竜だ。早速竜神を捕らえるとは、さすが大黒天様です」
恵比寿青年は七海をスルーして小さいおじさんに挨拶すると、ミニ竜を興味津々で眺めた。
しかも周囲の人間にはミニ竜が分からないので、恵比寿青年が七海に急接近しているように見える。
すると恵比寿青年の後ろに控えていた黒スーツ女性が、忙しそうに分厚いシステム手帳をめくりながら声をかけた。
「恵比寿社長、急いでください。十一時から会議があります」
「え、社長って恵比寿さんのこと?」
「恵比寿よ、竜たちが騒いでいる。そのせいで大気が荒れてきたぞ」
三人が一斉に恵比寿青年に話しかける。
そしてミニ竜を握っている七海の両手はプルプル震えだし、そろそろ限界だった。
「恵比寿さん、ちょうど良かった。私の代わりにミニ竜を持ってちょうだい」
「残念です、天願さん。僕は神や聖霊を見ることは出来るが、君のように竜神を捕らえる力はありません」
「えーっ、恵比寿さんったら肝心なときに役に立たないなぁ」
七海に愚痴られて恵比寿青年は苦笑いしたが、後ろで控える女性秘書は社長を罵倒した若い女に眉を寄せる。
「困りましたね、大黒天様。どうすればいいでしょう?」
「恵比寿よ、竜をおとなしくさせるには、酒で酔いつぶせば良い」
「恵比寿社長、彼女と何の話をしているのですか?」
恵比寿青年の後ろに控えた、秘書の女性が怪訝そうな顔で七海を見た。
竜に追われて公園の中を走ってきた七海は、汗で化粧が落ちて頭には枯れ葉をつけたまま、両手を前に伸ばす謎のポーズで恵比寿青年と立ち話をしているのだ。
「君、今すぐ近くのコンビニで酒を買ってきてくれ。それから午前の会議は明日に延期する」
「恵比寿よ、ビールや酎ハイはダメだ。アルコール度数の高い日本酒かウイスキーがいい」
「大黒天様がおっしゃるのなら、ウイスキーを買わせましょう」
「恵比寿社長、こんな昼間からお酒ですか? わ、分かりました、急いで買いに行きます」
社長秘書には、ミニ竜も小さいおじさんも見えない。
この場に不似合いなジーンズ姿の女と若社長が親しげに話し、しかも突然酒を買ってこいと命じられたのだ。
秘書は頭の中が疑問符だらけのままコンビニに向かい、その姿を見届けた恵比寿青年は七海のリュックから顔を出す小さいおじさんに微笑みかける。
「大黒天様を僕の会社にお招きできるなんて、とても光栄です。どうぞ建物の中で休まれてください」
「僕の会社とか秘書とか、もしかしてMEGUMI.Corpって恵比寿さんの会社なの?」
「会社名は恵比寿の恵からとってMEGUMI、祖父が創業者で本社は関西にある。僕はMEGUMIグループ子会社で、輸入関連事業とテナントビルの管理を任されています」
「恵比寿さん、仕事のできるセレブと思っていたけど、まさかこんなに大きなビルの社長なんてビックリ」
七海はため息交じりに目の前にそびえ立つ、銀色の塔のような細身のビジネスビルを見上げる。
恵比寿青年は上機嫌で小さいおじさんの入っているリュックに腕を伸ばすが、周囲のMEGUMI社員は若社長が女の肩を組んでいるように見えた。
モデル並みの端麗な容姿に常に温和な微笑みを浮かべる恵比寿社長は、仕事でも優れた手腕を発揮して会社は好業績を上げていた。
MEGUMIグループ創業者の祖父は、大人しく地味な息子ではなく孫の彼を自分の跡継ぎと公言するくらい期待を寄せている。
そんな若社長に、突然コンビニで酒を買ってくるように命じられ、社長の急なスケジュール変更を伝えた営業から怒鳴られた社長秘書は、いらついた声を上げる。
「恵比寿社長に生意気な口調で話しかけるなんて、あの女何者なの!!」
恵比寿青年はスキップを踏みそうな足取りで小さいおじさんと七海を建物へ案内すると、ロビーの受付嬢が深々と頭を下げ、恵比寿青年は軽く片手を挙げて目配せをする。
建物の中は全面鏡張りの壁とリゾートホテルを思わせる大量の観葉植物が生い茂り、ロビーのソファーで休憩していたMEGUMI社員は、若社長の姿を見ると慌てて席を立つ。
恵比寿青年は七海と小さいおじさんをそこへ案内した。
「大黒天様、この暑い中お疲れさまです。今すぐ飲み物を準備させましょう」
「小さいおじさんはずっと私の背負われているから、全然疲れてないよ。相変わらす恵比寿さんは小さいおじさんしか見てないのね」
やっと休憩できると喜んだ七海はどっかりとソファーに座り、体をひねって背中のリュックを恵比寿青年の方に向けた。
「恵比寿さん、私今手が塞がっているから、リュックの中にある書類を出してください」
「天願さん、わざわざ届けに来てくれてありがとう。封筒の中に書類があるのをすっかり失念して、会社中探しまわっていたんだ」
「私こそ色々愚痴ったけど、封筒に書かれた説明のおかげで借金地獄から抜け出せたから、これは恩返しのつもり。でも恵比寿さんに小さいおじさんは渡さないよ」
七海の返事に恵比寿青年は苦笑いすると、ソファーに腰掛けた七海に覆い被さるように、リュックから書類を取り出そうとした。
それは端から見ると、彼女に後ろから抱きつくバカップルに見える。
「し、失礼します恵比寿社長。お飲み物をお持ちしました」
「わざわざありがとう。大黒天様、アイスコーヒー冷たい紅茶、どちらが良いですか?」
「ワシは朝コーヒーを飲んだから、あいすてぃーが良い。ガムシュロは四個だ」
「それなら私はアイスコーヒーブラック……あれっ、飲み物が二つしか運ばれていないけど?」
ソファーに座るのは、七海と小さいおじさんと恵比寿青年。
だけど普通の人に小さいおじさんの姿は見えないので、飲み物は二人分しかない。
恵比寿青年はいそいそとガムシュロを開けてアイスティをかき混ぜ、七海の目の前に置く。
それが飲み物を運んできた社員には、若社長が七海のために飲み物を用意しているように見えた。
「恵比寿社長が、千葉の彼女の家に通い詰めているって噂があったけど、アレがその彼女か?」
「いやぁ、若社長があんな垢抜けない地味な女とつきあっているなんて、信じられない!!」
「顔は朝ドラの女優みたいに可愛いけど、見た感じまだ学生だよな」
小さいおじさんにベタ惚れの恵比寿青年と、暑さと疲れでバテバテの七海は、社賃たちに激しく誤解されているのに全く気づかなかった。
***
両手でミニ竜を掴んだままの七海は、行儀悪くグラスに顔を近づけストローでコーヒーを飲み干す。
「ふぅ、生き返る。暑い中歩いてきたから、アイスコーヒーが冷たくて美味しい」
「恵比寿よ、このあいすてぃーは風味があって、紅茶の渋みが無くとても喉ごしが良い」
「大黒天様に喜んでいただけるなんて光栄です。これは僕のお気に入りのドイツ製紅茶です」
でも小さいおじさんのアイスティはグラスの底にガムシュロが沈殿していて、あんなに甘くして味が分かるのかと七海は思った。
「お待たせしました、恵比寿社長。言われた通り、ウイスキーを買ってきました」
すると七海の背後からドスのきいた声が聞こえ、思わず後ろを振り返ると、黒スーツの女性秘書が全身ずぶ濡れで立っていた。
恵比寿青年が窓のブラインドを開けると、さっきまで快晴だったのに、外はゲリラ豪雨に襲われていた。
「朝テレビで今日の天気は一日快晴って言ってたのに、天気予報が外れた?」
「娘よ、これは竜神の怒りだ。仲間を連れ去られた竜神が怒り狂い、雨雲を生み出ている」
「大黒天様のおっしゃる通り、ウェザーニュースの雨雲レーダーでは、この辺に雨雲は表示されません」
次の瞬間、窓の外に白い稲光がひかり、続いて不気味な雷の音が鳴り響く。
「もし娘が外に出たら、竜神たちは娘を狙って雷を落とすかもしれない」
「ひえっ、このゲリラ豪雨って私のせいなの? だってミニ竜はこの建物の中に入りたがっていたよ。恵比寿さん、どうして建物の周囲にミニ竜が住み着いているの」
七海がそう言うと、握り締めていたミニ竜が答えるようにパタパタ後ろのしっぽを左右に振る。
恵比寿青年はミニ竜に顔を近づけると、マジマジと観察する。
しかし周囲の人々にミニ竜は見えないので、若社長が彼女の胸元を凝視しているようにしか見えなかった。
「この建物を覆い尽くす巨大な樹木は、高さ1メートルの植栽でした。それが半年前、突然竜神が現れて建物の周囲に住み着くと、瞬く間に植栽がビルも覆うほどに成長したのです」
「どこからか現れた? そうじゃない、ミニ竜はこの地の呼ばれたって言っている」
「恵比寿にも分かると思うが、これは大陸の竜神だ」
「大黒天様のおっしゃる通りです。建物の三階から七階は香港系貿易商社のテナントになる予定で、竜神はその企業と契約をした頃に姿を現しました」
「それなら他のミニ竜も建物の中に入れてあげれば良いじゃない。竜がこの建物の中に入れないのは、恵比寿さんが何かしているんでしょ」
七海が公園と思ったのは建物の植栽で、その中をさんざん迷ってこの建物にたどり着いた。
人を迷わせるなんて技ができるのは、神人(かみんちゅ)の恵比寿青年しかいない。
「実は……竜神は女性を狙って突風を起こすので、僕は竜が建物の中に入らないように結界を張りました」
恵比寿青年が言いにくそうに口ごもり、それを見て七海は理解した。
「女性を狙う突風って、もしかしてスカートめくり? 竜神なのにすることは小学生男子と一緒ね!!」
「竜神の名誉のために言うが、女子(おなご)の驚く様子を面白がってイタズラしたと思う。それからこの細長い銀色の建物は、竜神は昇りたがる形をしている」
恵比寿青年は困った様子で答えると、小さいおじさんはぴょんとソファーから飛び降りてロビーの中を歩き出す。
「恵比寿よ、この鏡張りの壁は竜神の霊気を跳ね返すし、偽物の観葉植物も良くない。龍神が居心地良く過ごせる空間にする必要がある」
「しかし大黒天様、竜神は一匹ではありません。建物の周囲に居る八匹の竜が中で暴れたら、大変なことになります」
「竜神を大人しくさせるなんて簡単なこと、たらふく酒を飲ませて酔い潰せばいい。試しにコンビニで買わせた酒を飲ませてみろ」
小さいおじさんの指示に従い、恵比寿青年はウイスキーの蓋を開け、七海が飲み終えたアイスコーヒーのグラスに注ぐ。
するとミニ竜はアルコールの香りに反応して、銀色のウロコを逆立てると激しくのたうつ。
「娘よ、竜神を捕まえた手を離せ。この御神酒なら小さき竜神も満足するだろう」
「ミニ竜が頭からウイスキーの中に突っ込んだ。うわっ、すごい飲みっぷり」
貪るようにウイスキーを飲んでいた竜神のウロコが、銀色から赤に染まる。
それは竜神を見ることができない普通の人間にも、不思議な現象としてあらわれた。
ウイスキーの中の氷が不自然に転がり、生ぬるい吐息が混ざったようなアルコールの香りがロビー中にに漂う。
「お酒を飲んで満足したみたい、ミニ竜は酔いつぶれて寝ちゃった?」
七海は尻尾を引っ張ってグラスの中から出すと、ミニ竜は七海の腕にブレスレットのように巻き付いて、大人しく動かなくなった。
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