第6話 交戦
王都から南西に半日ほど歩いたところと聞いた場所は、思いの外早く目にすることができた。というのもその森はそれなりに大きなのものだったからである。
魔獣は暗いところからやってくる。これは人々の共通認識だ。つまり森というのは基本的に魔獣の住処である。あの森は山に繋がることなく平地に独立して存在しているのだから、圧倒的に危険だということはないだろう。それでも見たことがない魔獣が存在している可能性は大いにある。
村の周辺には林が広がっていたし、子供の頃からよく遊びに行っては怒られたりしたものだ。だけど林は所詮林。鬱蒼としているように見える場所でも木漏れ日が差し込むような場所は、決してそうではないだろう森とは危険性が段違いだ。そういう意味ではシャオは、新たな場所に足を踏み入れようとしているのだ。
……という事実に気がついて、シャオは思わず足を止めた。聞きかじりでしかない知識だけで本当に森に入っても良いのだろうか。せめてもう少し情報を仕入れてからでも良かったのではないだろうか。若い頃には魔王の目覚めに備えてあちこちで魔獣退治をしていたという母親であればその辺りの事情には詳しかっただろう。親任せにしていないで何か聞いておけばよかった。と、シャオは村を出てから初めて前向きな気持ちで後悔をする。
とはいえあそこが目的地である以上ここでこうしていてもしょうがない。一度戻る手立てもあるだろうがそれは面倒臭かったし、また戻ってきたと思われるのもちょっと嫌だったし、何より路銀の問題もある。歴代の勇者が通った道なのだとしたら逆に言えばそこまで危険な場所ではないとも言える。多分。歴代の勇者たちが揃いも揃って自分並みだったという保証はどこにもない。けれどこれはさっき立てた予想と同じものであり、それはつまりそうであるに違いないということなのだ!
そんな自分に都合がいいばかりの仮説を立ててこぶしをグッと握ると、小さく頷いて再び歩き出す。緩やかな丘を登っていって、そうすると遠目に見えていた森は案外近いところにあるのだと分かった。
森は外から見るとそこまで暗いようには見えない。それは明るいところから光が届く範囲を見ているからなのだろう。その奥を覗こうとしてもどうなっているのか、外から覗くだけでは杳として知れない。
森の前に立ち、シャオは剣を鞘から抜く。そしてそのままの状態で森に足を踏み入れた。いつ突然に魔獣に襲いかかられても問題ないようにである。
出遭うのが魔獣ではない可能性は考えなくてもいいだろう。森のそばならともかく、森の中をわざわざ好き好んで歩くような酔狂な人がいるとは考えにくい。近くに村があるなら魔獣対策として、というのは考えられるがこの森は平地に独立して存在しているから、その可能性もない。そして確実にいるはずのマリーアンは眠っているのだからそんな心配をする必要もない。
しゃく。
しゃく。
地面に敷き詰められている良く分からない草と落ち葉を踏みしめながら歩いていく。進めば進むほど外の光は届きにくく、見通しは悪くなっていく。このまま進めば暗闇の中を彷徨う羽目はそう遠くないだろう。
シャオは観念して荷物の中からカンテラを取り出した。多少振り回しても火がこぼれることがないというちょっとした一品で、もちろんこれも母親が準備していたものの一つだ。気合の入れようは自分とは天と地ほどの差があるのだというのは分かっていてもため息がこぼれてしまうものだ。本当に需要と供給が噛み合わない。
軽く頭を振ってカンテラに火を入れる。この位の魔法ならほんの少し集中するだけで問題なくできる。そうしてぼんやりと浮かび上がるようになった景色の中を、右見て左見て歩く。暗いところでは慎重になるべきだ。これは当然のことだ。なんせ何があるか飛び出してくるか分かったものではない。決して怖がっているわけではない。決して───
バサ バサバサバサ!
羽音が上から急に聞こえてきてシャオは思わずしゃがみ込んだ。その上を鳥とは違う翼を持った獣───野獣が横切っていく。それはシャオも何度か見たことがある獣だ。名前は失念しているが村の近くにも生息していて、たまに果物を荒らしたりはするもののこちらからちょっかいを出さない限りはひどく害になることはないものだ。
とはいえ、基本的に野獣とはそういうものである。
元々は人以外の動物を獣と呼び、区別することはなかったという。けれど魔王が現れて以降その力に影響された獣、魔獣───実際には獣とは限らないものも交じってはいる───が現れるようになってからは、魔王に影響されていない獣を野獣と呼ぶようになったのだという。閑話休題。
ともあれ激しく何度か頭を振ってから、シャオは気を取り直して歩き出す。野獣でビクついているようでは魔獣が現れたときには目も当てられないことになってしまうではないか。ただでさえその頂点に立つ魔王に挑もうとしているのに、それではとてもとても───
── ドサッ
嫌だなぁ、と気持ちがへたりかけた時だった。背後に何かが落ちた音がしてシャオは小さく飛び上がった。恐る恐るゆっくりとそちらにカンテラを向けてみると、そこにはあの名前のない魔獣がいた。
なんだ、と息を吐いてから反射的にその息を呑みこんだ。それの動きは鈍い。非常に鈍い。その気になれば素手で捕らえることだって(やりたいかどうかはさておき)可能だ。けれどどんなに鈍くても止まったままでいることなど無い。なのに、今しがた落ちてきたそれは、墜落した状態のままこれっぽっちも動かない。ということは、つまり───
バサバサバサバサバサ!
「!?!」
枝葉が乱暴に落とされる音と葉と何かががけたたましく擦れる音がいっぺんにやってきた。何が、と思う間もない。シャオの目の前には自分と同じくらいの大きさの魔獣───跳虫がいた。
虫としての跳虫は決して大きくはないがしなやかで美しい翅と強い後ろ肢を巧みに使っての跳躍力が高く、それ故に捕まえるのが困難な虫だ。この大きさなら捕まえること自体は容易だろうが、その場合は恐らく命の保証がない。何しろ跳虫は酷い雑食として知られているからで、この大きさならば恐らく人間もその対象になるだろう。
大きな二つの目がシャオに向けられる。あの目の中には沢山の小さな目があるのだと聞いたことがある───あまり考えたくない類の話だ。
シャオは剣を握り直しながら半歩下がる。知らずに溜まっていた唾を飲み込んで、そうして一秒、二秒、三秒、
「食らえ!」
シャオの叫びとともに放たれたのは大きな炎だった。跳虫に似ている魔獣なら普通に燃えるはず。そう考えての魔法だ。
炎はシャオがイメージした通りに魔獣に向かって飛んでいく。よし、と思わず笑みが浮かんだ瞬間だった。魔獣が炎を突っ切るようにシャオへと飛びかかる。反射的に剣を構え直したものの魔獣のほうが僅かに速く、剣先は魔獣の背中を裂いただけでそのまま押し倒されてしまう。一瞬息が詰まる。まずい。
手から離れかけていた剣を握り直し、何度も何度も魔獣へと斬りつける。斬るというよりは叩くのほうが近かったかもしれない。それでもダメージを与えるには十分なものだったのだろう。シャオの上で何度も身を捩らせていた魔獣は程なくしてくたりと頭を垂らし、力尽きてそのまま伸し掛かかった。どろりとした液体がシャオの服を濡らしていく。生温かいそれはそのままにしておいたらすぐに冷えてしまうだろう。
慎重に魔獣の体を自分の上からどかして、シャオはゆっくりと立ち上がった。自然と深いため息が漏れる。こんなに不様に魔獣を倒したのは初めてだ。油断をしていたからだ、というのはある。知らない魔獣だったから、というのもある。だけど恐らく一番には───
「……」
小さく頭を振ってから濡れた服を脱ぎ、適当に払う。暖かい空気を出して多少でも乾かそうかとも考えたのだけど、魔法を使うこと自体が得意ではないのに持続させようだなんて、こんな状態では到底できっこないと思い直してそのまま羽織った。気持ち悪さが残ってはいるがどうしようもない。
もう一度ため息をつき、少し遠くに転がってしまっていたカンテラを拾い上げて再び歩き出した。
火が消えてなかったのは幸いと言えるだろう。流石、あの母親が吟味したものだな。なんて変なところで感心してしまった。
そこからは何かに襲われるようなことはなかった。次は不意を突かれないように慎重に歩いたせいで時間はかかってしまったけれど、漸く目的の場所に辿り着けたと言えるのだろう。というのも進めど進めど木々と草むらしか見えなかったところに急にぽっかりとひらけた場所があったからだ。シャオは辺りの様子を窺ってから恐る恐るといった様子でその場所に足を踏み入れる。あまり広いとは言えないその空間の中心には鬱蒼とした森には似つかわしくない程の華やかで色とりどりとした花畑が、その中央には鮮やかな赤を纏った女性が仰向けの状態で眠っていた。
「……」
シャオはゆっくりと近づいた。といっても広くはない空間だ、10歩も歩かないうちに花畑の手前まで辿り着いてしまう。そうやって近づいて分かったのは、女性は美しいということだった。横たわって眠っている姿だけなのだけど、それだけは分かった。シャオが知る限りの文献にはどれにもそんなことは書かれていなかったから、不意を突かれたような気持ちになってもう数歩近づいた。花を踏んだかもしれない。なんだか現実味が薄くてそんなことも認識が怪しい。数歩近づいてその寝姿は、いつの間にか昇っていた月の静かな明かりに照らされていっそ神々しく見える。
シャオの手が無意識にその体に伸びて───既のところで引っ込めた。そんなことをしている場合ではない。少なくとも今は違う! 今じゃなくても違う!!
胸に手を当てて深呼吸を何度もしてから、カバンの中にしまってあった瓶を取り出した。慎重にタオルを外して、しっかり握ってから慎重に蓋を開ける。そうしてあの老魔術師、シークレーは振り掛けろって言ってたよなと思い出しながら全体的に振りかけた。
するとどうだろう。
まずは周囲の花畑が消えた。
代わりに浮かび上がったのは丸太小屋───シャオはいつの間にか丸太小屋の中にいて、女性は質素なベッドの上に寝そべっていた。そのまぶたが震えてゆっくりと開いていく。その目もまた、赤い。
シャオが息を呑みこんでいる間にゆっくりと上半身を起こして大きな伸びを一つ、それから周囲を見渡して最後にシャオと視線を合わせた。姫とは違う美しさがある。居た堪れなくて顔中が強張った瞬間だった。
「今回もハズレじゃない!」
突然の大きな声に、一体何を言われたのかが理解できなくてシャオの目がまんまるになった。その目の前で、美しい顔がはあぁと大きなため息を吐く。
「ナーシャとコゥユはいい感じだったのに……そりゃあ前回もあんまり好みってわけじゃなかったんだけど」
ブツブツと何事かを垂れ流してからまた視線が上がる。まじまじとシャオを見つめる赤い瞳。なんなんだこれは。感情がうまく追いつかなくて、シャオは身動ぎもできない。
「ま、致命的に悪い顔ってわけじゃないし……しょうがないわね」
それは妥協なんだろうか。小さく頷くと、もう一度伸びをして床に降りた。するとシャオより頭半分ほど高いことが分かる。
「アンタ、名前は?」
「あ、シャオって言います」
自分が本当に勇者かどうか聞かなくていいんだろうか。それともそれは毎回のことだからもうすっ飛ばしていいものなんだろうか。勇者初心者かつ未だに自覚がない上に持ちたくないシャオには、そこのところは良く分からない。
「シャオね。じゃあ行きましょ」
取り敢えず順調に道が作られていることは間違いないらしい。
返事も聞かずに歩き出したマリーアンの後ろ姿を見てふと、シークレーが最後に言っていた言葉を思い出したのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます