35. 向後『風信子《ヒヤシンス》』

 私は――『魔王』を倒した。


 それが、この世界を救う術だったから。

 それが、このゲームの目的だったから。


 ――なのに。


 心は晴れるどころか、余計にもやがかかってしまったようで。

 満たされるどころか、ぽっかりと穴が空いてしまったようで。


 本当に、これで……脅威は去ったの?

 本当に、これで……良かったの……?



 ……ねぇ。


 ……師匠――。




「――お疲れ様でございました」


 不意に誰かの声がした。感情が麻痺してしまったのか、驚きも何もなしにただ機械的にそちらを向く。

 その声の主の女性は、私と目が合うとうやうやしく頭を下げてきた。


「魔王様にお仕えしていた侍女の『サージュ』と申します。魔王様亡き後の諸事を任されております」

「……そっ、か」


 やっぱり……そのつもり、だったんですね。

 あの人にとっては、予定通り。望んだままの結果だったということ。


 ――でも。私にとっては……?


「貴女様の疑問にも全てお答えするよう命じられてますが……差し出がましい事を申し上げれば、日を改めた方がよろしいかとお見受け致します。

 お体を休ませる目的も勿論ですが、何より心の整理が必要かと思われますので……」


 確かに今はまともに話を聞けそうもない。素直にお言葉に甘えた方が良さそうだ。


「うん……そうさせてもらいます。また来た時に、いろいろ聞かせてください」


「はい。お待ちしております――リリィ様」


 ろくな挨拶も無しに、たどたどしくログアウトの動作に入る。

 疲れたから横になりたかったのか……単に一人になりたかったのか。

 私はその場から逃げるように現実世界へと帰っていった。






「――おやすみなさい……アズリー……」




     ◇     ◇     ◇




「…………」


 自分の部屋の天井を、呆然と見上げている。そのことを認知するまでにも、大分ラグがあった。

 心が疲れ切っている。考えたいことがあったはずなのに、何も浮かんでこない。頭が全く回っていない。

 ふらふらと立ち上がる。自分がどこへ行こうとしているのかも分からずに。


 気がつけば――兄の部屋へと足を運んでいた。


「ねぇねぇ、お兄ちゃん」


 ノックもせず、ドアを開く。


「んー? どした」


 PCに向かって作業をしていた兄は、こちらを振り向かずに応じる。とてとてと歩き、兄のベッドへ、ぽすん。と腰を掛ける。

 この部屋へ来たのはいいけれど……私は兄と、どんな話をするつもりだったのだろう。

 ん~……まずは――そうだ。この前のこと、まだちゃんと謝ってなかった。


「この前は……ごめんね……? 変なこと聞いちゃって」

「あぁ。気にすんな」

「大丈夫だった……? 頭、痛そうにしてたけど……」

「んん……ここんとこ寝不足気味だったからなぁ。たぶんそのせいだろ」


 こちらを向いてくれないから表情も確認できないし、絶対とは言えないけど。……いや、表情を見たところでポーカーフェイスのせいで異変に気づけないだろうけど。

 その口調や台詞は、すっかりいつも通りの兄だと思った。


「それより、どうした? またくだんのゲームの話か?」


 ……気を遣って話を変えてくれたのかな。

 それにしてもその話題を挙げてくれるとは。察しがいいのか、単に私が分かりやす過ぎるのか、私が話すことと言えばそれしかないと思われてるのか。……うん、たぶん全部か。

 せっかく相手から振ってくれたので、心置きなく話すことにする。


「あ、うん。そのゲームね、ついさっきクリアしたの」

「おお、そうか。どうだった?」


 ……ほんのちょっぴり、間が空く。


「…………?」

「んっ、とね、えと……その――」


 慌てて口を開いたが、なかなか言葉が出てこない。

 『楽しかったよー!』――それがたぶん、いちばん私らしい答え方だ。これまで何度も発してきた第一声だ。

 だから、そう伝えようとした。……なのに。


「た……、たのしかっ――」


 声が、どうしてだか詰まってしまった。口だけじゃなく、全身が――思考さえも固まってしまっている。

 さすがに兄も不審がってしまったのか、こちらを向いて……ギョッとした。



 私が――泣いていたから。



「……悠莉子?」

「あ、あれっ? おっかしい、な……」


 誤魔化すように笑って、慌てて涙を拭う。


「あのね、ちがうの。ちょと……感動……、しちゃ、って――」


 ――だから本当に何でもないの、大丈夫だよ。心配しないで。

 そう続けようとしたかったのに、上手く喋れない。

 流れ続ける滴に半ば苛立ちつつ目をごしごしと擦るも、一向に止まる気配がなく……とうとう両手で顔を覆ってしまった。


「………………」


 互いに無言になる。

 私が時折しゃくり上げるだけの、深閑とした気まずい時が訪れてしまった。


「…………はぁ」


 やがて頭を掻きながら溜息をついた兄が、立ち上がり歩いてきて……私の隣へと座る。


 ――ぽふん。


 私の頭に、兄が手のひらを乗せる。

 元々こんなこと慣れてなどいないのだろう。むしろ初めてなのかもしれない。

 不器用でも、一生懸命に私を慰めようと撫でてくれた。


「っ……」


 ――……待ってよ。


「ぅ、っく……ぐすっ、ひっく……」


 ――ここで、その優しさは……ダメ、だよ……。


「……ぁ、ぅ……ぁっ、あ……っ――」


 ――ズルいよ。

 あの人とは、別の意味で……お兄ちゃんも、ズルい……。


「うわああぁぁぁぁぁぁぁんっ!」


 兄の胸に顔を埋めて、堪えようもなく大声を上げて泣きじゃくってしまった。

 何が悲しいのか、分からない。なぜこんなにも涙が溢れてきてしまうのか、分からない。

 だけど本当は気づいている。ただ『分からない』と自分に言い聞かせるよう繰り返し、『分かってしまいたくない』と認めたくない現実から目を背けてしまっているだけだった。


 が、あの人のため、世界のためだった。その想いは変わっていない。

 ただ、それと同時に……同等か、それ以上の後悔もしてしまっている。



 大好きだった人を――この手に掛けた。



 一度自覚してしまえば、あとはもう燎原りょうげんの火のようで。

 この現実は、私には無慈悲なまでに重すぎた――。




     ◇     ◇




 涙は、いつか枯れる。どんなに哀しかろうと、いつかは泣き止んでしまう。そして涙には不思議な効果があり、思いっきり泣いてしまえば否応なく落ち着いてしまう。

 誰もが知っているであろう真理だ。いま私は、その信憑性を身に染みて感じてしまっている。


 落ち着いたら――心に開いた穴が、また一段と大きくなってしまった。

 私の中に……何も、ない。

 何も、できない。何も、考えられない。何も……



「――――俺、な」


 泣く声が収まってきたのを見計らってか、兄がおもむろに口を開いた。

 何を語る気なんだろう。……こんな状況で。


「俺さ……ゲームを作る側に回ろうと思ったんだよ。プレイする側じゃなく」


 すがりついたまま、突然の告白に目を見張った。ぼんやりとしていた意識が覚醒し、兄の次なる言葉を傾聴する。


「その為に学ばなきゃならない事が山ほどあってな。時間がいくらあっても足りん。目まぐるしい毎日でホントしんどいわ」


 ゲームでなくPCにばかり向かうようになったのも、どこかへ外出する機会が増えてるのも、そういうこと……?

 私が顔を上げ見つめると、兄は決まりが悪そうに目を逸らす。


「いつかは話そうと思ってたんだが……無事に習作の一本が完成した時でもいいかって、つい先延ばしにしちまってた。悪い」


 ぽりぽりと頬を掻き、ぶっきらぼうに謝ってくる。


 ――そう……だったんだ。


 形は違えども、兄はこれからもゲームと共に在り続けようとしている。

 それも前向きに意欲的に、ゲームで遊ぶことに夢中だった頃と負けず劣らず、生き生きとした目で。

 そのことが嬉しくって。心がすっと軽くなったのを感じた。


 あの人と兄の間に、一体何があったのか。結局は分からず終いで。

 あの人がいなくなった今、知る機会ももう永遠に来ないのかもしれない。

 急にゲームをやめちゃったり、記憶の混乱が見られたり……あの人のせいで、兄はおかしくなったんだと思っていた。


 けど……違った、のかな。


 あの人のお陰で……変われた、のかな――。


 涙に濡れた頬を拭う。

 まだ少しぎこちないかもしれないけど、精一杯に微笑んでみせた。


「もし出来たら、遊ばせてね」

「おう期待しとけ。お前じゃ一生かかってもクリアできない難易度にしといてやろう」

「そんなゲームじゃ、あまり売れない気もするけど……」

「いきなり商用の物なんか出来るか。それはお前のお前によるお前の為のゲームだ、光栄に思え」

「あ、はは……。ありがたきしあわせぇ……」


 "もう大丈夫そうだな。"――そう言うように、頭をぽんぽん叩いてくる。

 それに応えるよう、元気よく立ち上がった。


「一応クリアはしたハズだけど……まだしばらく、あのゲームで遊ばせて貰うと思う。たぶん、やり残したことがあるから」

「ああ。頑張れよ」

「うんっ!」


 退室しようと、ぱたぱたと歩き出す。

 去り際に振り返る。そして先ほど上手く言えなかった台詞を、改めて伝え直した。



「すーっごく、楽しかったよ。ありがとう、お兄ちゃん」


 今度は、ちゃんと。一点の曇りもない、晴れやかな笑顔で。






 聞かなければならないことがある。

 オルグイユ様にも、サージュと名乗ったあの女の人にも。


 知らなければならないことがある。

 魔王のいなくなったことで、何が変わるのか。何が起こるのか。

 あの世界がこれからどうなっていくのか。見守らなきゃいけない。


 それが、あの人の想いを受け取った『弟子』として――『勇者』としての義務だと思うから。



 だから……もう一度、あの世界へ――。




     ◇     ◇




 ……全く世話の焼ける奴だ、と信哉は思った。

 しかしゲームのことであそこまで泣くことのできる感受性は、少しだけ羨ましいと感じてしまう。

 悠莉子は、本当にゲームが大好きなのだろう。


 ――それに比べて……俺は、どうしたんだろうな……。


 いつからだろうか。あれほど好きだったはずのゲームをしても、気分が悪いと感じるようになったのは。

 その不快感の正体はすぐに自覚できた。ゲームの内容に納得がいかないからだと。


 ――『悪を倒す』という行為に、抵抗を覚えるようになったのだと。


 設定が、物語が認められなくなった。そうなってしまった理由が何処にあるのかは、ここに至ってもまるでさっぱりだが。

 だから――創ろうと思った。自分の手で紡いでやろうと思った。


 そう……が笑っていられる、幸せになれる結末を――


「……『アイツ』、って……誰だよ……」


 誰かのために始めた覚えはない。当然、その人物に心当たりなどない。

 まだ睡眠不足が解消されてなかったか? やはり睡眠はしっかりとらないとダメか――と、苦笑いしつつ内省した。


 その頬に熱いものが滴り落ちていたことに、気づくこともなく――。




     ◇     ◇     ◇




 ――知っていますか? 師匠。


 花には、花言葉というものがあります。


 私たち兄妹の名を組み合わせることで完成する『風信子ヒヤシンス』。そして『ゲーム』という花言葉を持つ『風信子』は、私たち兄妹にとって運命のお花だと思っていました。


 でも……あなたのことを、ほんの少しだけ知った今。

 あなたにとっても、相応しいお花だな、って。

 そう、思ったんです。


 あなたの紫水晶のように綺麗だった瞳。あなたはその瞳で、私たち兄妹を――『風信子』を映していました。

 紫に彩られたその花は、また少し別の意味合いの花言葉を持ちます。


 ――『悲しみを超えた愛』。


 自身の悲しみを顧みず……他者のため。世界のため。

 あなたは最期まで、あなたが愛したもののために、生きていました。

 自分で言うのもなんですけど……私も、あなたのため。その想いを貫いたつもりです。

 ……きっと、お兄ちゃんも。あなたのために、何かをしてたんでしょう……?


 だから――このお花は。

 私たち三人にとって、運命のお花なのかな、って。

 私は、思ったんです。



 ――いつか、あなたに見せられたらいいな。


 そんな、『風信子』のお花を――。

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