三品目『人気トラットリアの騒動』(4)


 何をとち狂ったか知らないが、今度は一流のレストランにこの店のレシピを横流しして雇ってもらう心積もりで侵入したのだった。

 レシピとは元来、店の命。それを盗んでまでのし上がりたいクソ野郎。それが隠れている男の正体だった。

 そして男は夜中を回った頃に厨房に侵入して、自分でも知っている事務机のレシピ帳を漁っていたのだった。あまりのレシピの膨大さに、書き写すのにも限界が来て途中から重要そうなレシピだけ持ち出す事にした。それ以外は賊の痕跡に見せるためひたすら紙を破いた。

 それで事務机周りは酷い有様になっていたわけだ。しかし思った以上に膨大過ぎたレシピの前に時間が経つのは早かった。

 本来なら厨房の中も荒らす算段でやって来たのだが、それは朝早く、ジョギングに出掛けるギャルソンが二階から降りて来る音で寸断されてしまった。慌てて隠れようとしたがギャルソンは、気付くことなくそのままガレージへ続く裏口から外へと出て行ってしまった。

 鼻歌を歌いながら非常に機嫌がよかったギャルソン。それもそうだ、冷蔵庫に楽しみにしていたプリンが眠っていたのだから。

 しかし、だ。

 男はレシピを盗むだけでは飽き足らなかった。

 どうせなら店の『味』も盗んでやろうと、様々な物を口にしだしたのだ。ギャルソンが帰って来るまでの時間は読めなかったから、とにかく手に付くもの全て味見をした。

 この男の安舌では何が使われているのはほとんど解らなかったが。さっさと逃げればいいものを、いっぱしの料理人ぶったのがこの男の敗因だった。

 ギャルソンが帰って来て、上階へと登ってから運命の時は来た。


 男は、冷蔵庫を開いたのだ。


 開いた冷蔵庫は食肉用では無く、調味料や既に仕込みが済んだ食材が入った冷蔵庫だった。

 目の前には様々な食材を押しのけて、無数のカップが置かれていた。底が申し訳程度に平たい、つるんとした卵型の容器。胴体部分には全て大きく『ギャ』と書かれていた。ひょいと手に取って中を覗き見ると、白みがかった黄色の、気泡も一切無いプリンが詰まっていた。

 男はピンときてしまった。

 これは、もしかしたらあのギャルソンが次に店で出すために試作を重ねたプリンでは無かろうか。


 この時点でこの男は察しが悪いのだが、そう思った彼は食べてみずにはいられなかった。


 恐る恐るプリンに手を伸ばし、シルバーのしまってある引き出しを引く。中には磨き上げられたスプーンや銀食器がこれまた几帳面すぎる程綺麗に並べられていた。中からドルチェ用のスプーンを取り出すと、ごくりと唾を飲み込んだ。

 これがこの店の新作…。実際新作でもなんでもないのだが、男は柔らかいプリンにスプーンを差し込むと、一口、口に運んだ。


 甘い、甘い、メレンゲの様な軽さの甘さが口の中に広がった。

 最初の一口は天にも昇る様なそれが印象的だった。だが味蕾を凝らして味わえば、それは次第に重厚感のある甘味へと変わって行く。

 卵と砂糖、ミルク。そしてほのかに香るバニラの香り。個々が主張し合いながら口の中で一つになって、まるで天鵞絨ビロードの様な滑らかさを織りなしていく。特に卵の濃厚さは目を瞠る程で、しっかりとした甘みは口の中を極楽にしてくれる。丁寧に裏ごしされたであろうそれは本当に滑らかで、飲み込むのが惜しいほどだった。

 思わず器の底に沈んだキャラメルソースを引きずり出し、上品な甘みの白いプリンにからめる。口に運ぶと、今度はほんの少し苦みを感じるソースが、甘味の塊であるプリンを包み込んだ。先程の子供も喜ぶ、大人も喜ぶ、全人類向けの美味さとは異なり、つるんとしたプリンがとろりとした焦げ茶の外套を纏って口に含まれれば、途端に御馳走へと姿を変えた。

 食事の後のドルチェ(デザート)であるにも関わらず、このプリンひとつで完全に一つのメインとして成り立っている。もうこれはプリンの域を超えている。甘く、濃厚でいて滑らかなプリン本体、それがソースに溺れただけで甘さ控えめ、まるで飲み下せるコースのメイン料理だ。甘く、苦く、だがやはり甘く。絡み合うその重奏を言葉に等到底できない。これがギャルソンの本気で作った新作…。いや、しつこいが新作でもなんでもないのだが。


 気付くと無数…三十個程あったプリンを、男は貪るように平らげていた。そうだ、あの細身で食べ盛りの新人や、自分の体躯よりも大きい料理長よりずっと食欲旺盛なギャルソンの事だ。プリンも作るとなったら一個で済むはずがない。

 最後のプリンを手にした瞬間、階段を下る音がした。はっとして我に返った男。慌てて隠れたのだが、階段を最後まで降りきった靴音がこちらに向いてくるのを感じて身震いした。彼の脇には膨大なレシピが抱えられ、手にはプリンの容器とスプーンを持ったままだ。空になったプラスチックの器はゴミ箱に捨てたが、早くまた去ってくれないかと心の中で願う。


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