三品目『人気トラットリアの騒動』(2)


「あああああ!もう!」


 バギャアアアンと言う音がして足元に転がっていたボウルが蹴り上げられ、開いたままの冷蔵庫の扉にぶつかって両者がへこんだ。ボウルはもうべこべこで、今の蹴りで底に穴が開いた。がこん、と音がして冷蔵庫の扉の蝶番が外れる。だめだ、これ以上暴れられたら物に当たるでは済まなくなるかもしれない。ただでさえもう既に台風の中枢に居る様な荒れ具合だ。このままでは本当に警察どころか機動隊を呼ばれかねないし、新人としては今すぐ呼びたい。


「ててて、店長、落ち着いてください!」

「……落ち着け」


 ギャルソンの制服までよれているギャルソンに二人が声を掛ける。何があったかは知らないが、大事なものが盗まれたと言っていた。よほど大切なものなのだろう。その言葉にようやく一人で暴れていた時より穏やかになったのか、ギャルソンは大きく息を吐き両手で乱れた髪形を整えながら近場に転がっていた椅子を拾い上げ、腰を下ろした。


「これが…落ち着いていられるとでも?」

「な、何があったんですか?店長がこんなに…怒り狂うなんて、俺、初めて見ましたよ…」

「私の大切なレシピ…」

「レシピ?」


 はっとして新人は厨房の端に設けられた事務机の上に目を走らせた。毎朝、彼が出勤する度にその日のレシピを確認する場所だ。そこはもう、散乱を極めていた。破れた紙に、散らばった紙、いつも整然としているその机には、ギャルソン手書きのレシピと、レシピを挟んだファイルが無残に散乱していた。

 新人の背を汗が伝う。まさかこの店の大切なレシピが盗まれた…?それは由々しきことだ。


「まさか…盗まれたんすか?うちの…レシピ…」

「そうです。私の大切なレシピ…で作った、私による私のためだけに作られた…プリンが」

「ぷりん?」


 思わず間の抜けた声が出てしまった。プリン?プリンと聞こえた気がするが。

 瞬間、新人の脳裏を昨夜の閉店後の様子がよぎった。


 * * * * *


「プリン、プリンー」

「店長、何作ってるんですか?」

「え?プリンです。私特製、私が食べるためだけの美味しいプリンです」

「へー、試作じゃなくて?」

「はい!久しぶりに食べたくなったので。ふふ、明日の朝が楽しみです。今度新人くん達にも作って差し上げますね」

「それは楽しみっす!」


 * * * * *


「確かにプリン作ってた!」

「そのプリンがね…無いんですよ」

「プリンが、無い?」

「あああああ!もう!」

「ぎゃあ!」


 確かに昨晩、店を閉めた後。せっせと何かを作っているギャルソンに声を掛けた。それは本人の言う通り間違いなくプリンだった。何の変哲も無い見た目だったが、ギャルソンが言うのなら相当美味しいプリンだったのだろう。それはもう、頬が蕩けるほどに。

 落ち着いたと思われたギャルソンは、その言葉を口にした瞬間また座ったまま足元の物を蹴り上げた。今度は包丁だ。それが壁に当たって角度を変え、新人の頬を掠めて壁に刺さった。思わず悲鳴を上げる新人。後ろに倒れかけたのを、料理長が支えてくれたお陰で転ばずに済んだ。


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