一品目『人気トラットリアの内情』(8)


 三つの皿を手に立ち上がったギャルソンに、新人がそう声を掛ける。洗い物の量を心配してくれたと思った口から漏れたのは別の心配。瞬間、ギャルソンの長い足がテーブルの上を横断して目の前に座っていた新人の顔をかすめる。

 わざと逸らしてくれたが、そのスピードに新人は思わず悲鳴を上げる。


「店長、足癖悪いっすよ!」

「ええ、今その君が心配している食器を抱えているもので」

「店長の蹴りはクマも沈めるんですからね!顔面に食らったら…」

「食らいたくなければ、もう少し口を慎むことですね」

「ふぁい…」


 そっと足を引っ込めながらギャルソンは笑みを崩さない。新人だけが蒼い顔をしているし、目の前を異物が横切ったにも関わらず全く動じない料理長。それどころか既にコック服に手を掛け、脱ぐ支度をしている。


「料理長、全然動じてないですね…」

「料理長はこの店を立ち上げる前に、相当私に蹴られましたからね」


 こくりと頷く料理長。この二人の過去に何があったのかは新人である新人にはまだ知らされていない。それを話すのは三年持ったらです、とギャルソンに言われている。新人がこの店に入って正式には二年と九カ月。その日も近い。そしてそれだけの歳月が経っているにも関わらずいつまでも新人扱いの新人。まぁ、ギャルソンかしてみればまだひよっこ中のひよっこだ。しかも生まれたばかりで尻に殻がひっついているようなひよっこだ。

 新人にできる事は腕を磨く事と、時を待つ事だけだ。

 なぜなら彼も立派な悪食のひとり。入店してから一年目、この店の秘密を知ったときの彼の反応。今までの流れを見れば大方想像はつくだろう。


「俺は蹴られてなんて死にませんからね!俺は食い続けたいんす!何なら食べられるまで食べていたい!」

「だったら良く働いて、よく休むことですね。今日はお疲れさまでした」

「んじゃ、俺もお言葉に甘えて一足先に上がらせてもらいます」


 コック服のタイを引き抜きながら新人はそう言った。もう料理長は立ち上がって上着を脱いで畳んでいる。ギャルソンはにっこりと微笑んだまま二人がコック服を脱ぎ終わり、厨房へ向かうのを待っている。きっちりと服を畳んで厨房の隅にあるロッカーから鞄を取り出しそれを押し込める。隣では料理長が同じ動作をしている。

 ギャルソンはシンクに置かれた先程の食器の隣に器を置く。先程までの団欒とは打って変わって、そのごそごそとか、カチャカチャと言う音だけが厨房に響く。


「店長、それではお疲れさまでした」

「……お疲れ」

「はぁい、気をつけて帰ってくださいね」


 各々の鞄を手にした二人がガレージへの出口を潜りながらギャルソンに向かってそう交互に声を掛けた。

 ギャルソンは腕まくりをしながら二人を見送る。パタン、と扉が閉まる音がして、店内にはギャルソンだけが残された。

 ギャルソンは脂っこい食器と、ジェラートを乗せただけの容器を別々に、さっさと泡立てたスポンジで洗い流していく。洗い上げた皿を水切り籠に寸分の狂い無く立て掛け、掌の水をタオルで拭うと食器を一枚ずつ拭いて行く。

 それが全てあるべき場所に戻されると、彼はホールへと戻り、両手を胸の前で打った。


「さて、明日の支度を終わらせますか」




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