chapter 11
久しぶりの顔合わせの場に来たのは四人だった。
ミカミ、ウミノ、ワカシマ、それと僕だ。
昼食は入社したばかりの頃、同期全員でよく訪れた蕎麦屋にした。時間帯が早かったおかげで、二階の座席に通してもらうことが出来た。十二時を過ぎると座敷はおろか、テーブル席でさえ待たねば入ることが出来ないのだ。
上機嫌なミカミは子供の夜泣きがひどいがナカヤは起きてくれないので自分は寝不足だ、子供がいると自由な時間が無くてろくに外食も出来ないから今日はとても嬉しいのだというようなことを喋り続け、僕とウミノがそれに適当な相槌を打った。顔はいつも通りしっかりと化粧をしていたものの、ファンデーションだけでは隠しきれない目元の吹出物に彼女の生活の不規則さや育児のストレスが少なからず見受けられた気がした。ワカシマは終始硬い表情だった。唯一、待ち合わせ場所とした会社のロビーでミカミが周囲を見渡しながら「ホリちゃんとイシダくんは来ないのかな?残念だな」と言った時、何か言いかけて、やめていた。
天ぷらそばを頼んでしまうと、することが無くなった。
注文をしてから品物がやってくるまで平均で三十分近くは待たねばならないこの店は、味も雰囲気もいいが来店する時には時間の余裕と覚悟が必要だ。それでも入社当初はなんだかんだと話をしているうちにおばさんと呼ぶには四半世紀ほど遅い店の女性店員が「お待たせしましたあ」とやって来た。今僕らは、これからの数十分をどうやって過ごすのか、僕には見当が付かなかった。
四人の間に薄い膜が貼られたような空気の中で、ミカミが口を開いた。
「ねえ、さっき人事言った時にムカイさんに聞いたんだけど、ホリちゃんって休んでるの?」
空気がさっと変わった。
さっきまで温い温度を保って僕らの周囲を取り囲んでいた空気の靄のようなものがすうっと引いて行き、あたりは急に静かになった、
それまで全く気にも留めていなかった店の有線放送が焦点を結ぶように音像の輪郭を表してくる。
リタクーリッジの「ウィーアーオールアローン」だ。そう言えばイシダはこの曲が好きだと言っていた。旅行に行った時、車の中でイシダが運転する時、決まって流すのがこの曲だった。ミカミの結婚式でお祝いのメッセージVTRを作った時も、編集を担当したイシダがBGMでこの曲を使っていたはずだ。僕らはみんな、ひとりぼっち。
そんなとりとめもないことを考えている間も、頭がぐわんぐわんと揺れている。静寂に耳の奥がきんとして痛くなるほどだ。反射的にウミノとワカシマの表情を見やる。
ウミノは表情に出さないよう顔の筋肉に力を入れているのか、何でもないような風に見えるが、普段より瞬きが多く、右手を開いたり閉じたり繰り返している。僕の右横、ミカミの向かいに座るワカシマの表情は伺えないが、彼女から明確な意志を持つ空気が周囲へ放たれ始めていることはすぐにわかった。
「うん、休んでるね。何か異動もあって、体調崩してるみたいだけど」
僕は言う。これで終わりだ。次の話題に行こう。
そんな意図を込めた口調になってしまう。ウミノは意図を察したのか「ホリちゃん、昔から体弱いから」と続ける。ワカシマはまだ喋らない。ミカミは「そっかあ」とそれほど興味を示さずに、そのまま、また自分の話を始めた。ワカシマから漂う空気の濃度が徐々に強くなって行く。
「でもさ、自分で休むタイミングとか決められるってやっぱり自由でいいよねえ。子供がいるとやっぱりさ、自分の都合だけで動けないじゃん?」
「自分の都合で動いてるのはカオリじゃないの」
ワカシマがミカミを名前で呼んだ。声は低く尖っていて、突き刺すようなスピードと質量を伴っていた。
だめだ、と遠くで思う。自分が想像する方向へ物事が進んで行く予感をはっきりと感じ、僕は必死に話すべき言葉を探す。
ミカミが不思議そうな顔で言う。
「え、何であたし? もしかして、今日のこと?急にみんなに声かけたから?」
「自分でわかるでしょう。イシダくんにも、ホリちゃんにも、何も感じてないの。何か言うことあるんじゃないの?」
やめろ、それ以上言わないでくれ。
僕はそんな言葉ばかりが浮かんでくる自分に同時に驚いていた。
どうして?どうして言わない方がいいんだ?この場を穏便に済ませるため?同期としての自分たちの関係性をこのままに留めておくため?
既に僕らの関係性は形を変えてしまっている。既に終わった事の為に、何を犠牲にする必要があるのだろう。
「何で平気な顔でいられるの?人のこと傷つけてまで何でも手に入れたいの?」
ワカシマは一定の早さを保って言葉を打ち出した。その一つ一つが正確な軌道でミカミの耳へ刺し込まれて行くのが見えるようだった。
ミカミの体が言葉を受けて、実際に拳を顔面に打ち込まれた時のように大きく動いたように見えた。彼女の目は左右に激しく動き、その目は僕とワカシマの間を不安定に彷徨った。ミカミは答えない。
「信じられないよ。二度と会いたくない」
ワカシマはそのまま立ち上がると、店を出て行った。
ウミノが「ワカシマ!」と言ってそのあとを追って出て行った。
あとには僕とミカミしかいない。
「あたし、悪いことしてない」
ミカミは下を向いたまま言う。
「何でこんな言われ方されなきゃいけないの?ミナトくんもそう思ってるの?」
僕は答えられない。この後に及んで自分は善人ぶるのか?全身がギリギリと細いワイヤーで縛り上げられるように体中の筋肉が硬直していく。こんな昼下がりの蕎麦屋の座敷で、僕ほど全身を緊張させている人間は世界中探してもきっと僕だけだろう。
「あたしは幸せになっちゃいけないの?」
「それは、俺が言うことじゃないと思う」
僕の言葉にどれほどの意味があるのかもわからなかったし、どれほどの力があるのかも自信がなかった。ただ、言うべき時期だけは間違っていないと信じた。
「自分の幸せは、他の人と比べるものじゃないし、誰かが何かを失うことで別の人が感じるような幸せを、俺は幸せだと思わない。俺は自分の力で幸せになりたい。何もしなくても幸せだと思ってる」
ミカミから視線を逸らしてはいけない、と自分に言い聞かせる。彼女の顔は青白く、ほんの数分の間で幾つも年を重ねたように見えた。
年配の女性店員がこちらへ向かう足音がする。天ぷらそばの出汁の香りが鼻腔をくすぐり、間も無く「お待たせしまたあ」と四人分の天ぷらそばがやってくることのを、僕は待っている。
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