chapter 9

「ミナトくん、結婚してよかった?」

 ホリちゃんが言う。

 営業部門と管理部門の合同の歓送迎会が終わって、てんでんばらばらに店から出たメンバーがなんとなく集まって空いている店にそのまま入った、という状況で飲み始めた二次会の場でのことだ。当然アルコールはそれなりに入っており、全員がそろそろ自分の話している言葉の内容に責任を放棄し、その一方で自信だけを強めて行く、一種悪魔的な時間帯だったから、その発言が出た時も言葉通りの内容には当然捉えなかった。

「どうした?疲れてんのか?」

 僕はとりあえず防御線を貼る。この場合発言の裏には何種類かのパターンが考えられるだろうが、結果的には導き出される答えは「発言者は現状に不満を感じており、誰かにそれを聞いて欲しいのだ」というところに尽きる。

 周囲にも会社の人間はまだだいぶ残っていたが、それぞれが小さなグループを形成し、その他のグループには興味を持たなくなり始めていたので、僕とホリちゃんは特に不自然な様子も無く二人で会話を始めた。

 ホリちゃんはもともと色白で華奢だったが、ここ最近は目元の隈もより深くなったようだ。顔色が優れているとはお世辞にも思えなかった。

 あのさあ、と言った切りホリちゃんはその先を続けようか決めかねているらしくなかなか言葉を発さない。

 特に促すことも無く、僕は手元のビールを口に運んだ。

「ミカちゃん結婚したじゃん」

 ミカちゃんとはミカミのことだ。ホリちゃんだけは彼女のことを入社時からそう呼んでいた。

「うん」

「結婚する前にミカちゃんがイシダくんと付き合ってたって話、聞いた?」

 またその話か。結果的にこの話を避けて通ることは出来ないのだろう。僕は少しうんざりした気分で聞き返す。

「聞いたよ。それがどうしたの?」

「ミカちゃんが二股かけてたってのも聞いた?」

 ホリちゃんの口から二股という言葉が出てくることが意外で、僕はどぎまぎしながら曖昧に頷く。

「じゃあ、ナカヤくんにもその時前の彼女がいたって話も聞いた?」

「聞いたよ。ダブル不倫とかって言われてたけど。何だかね、安っぽい週刊誌じゃあるまいし」

「ナカヤくんの元カノってあたしなんだ」

 口に運びかけたビールを持つ手が止まった。

「嘘だろ」

「こんな嘘つかないよ」

 ホリちゃんは両手でほとんど空になったグラスを包み込んだまま、俯く。

 ナカヤは二次会前に合流し、先ほどまで隣のテーブルに座っていたはずだ。視線を動かすと、移動したのか、通路を隔てた向かいの座席で他のグループと一緒に楽しそうに話している様子が見えた。

 僕はビールを持ったまま彼女の目元を見つめている。目元の隈が深い陰影の様に見える。伏せられた睫毛は長く、瞬きの度に弱々しい蝶々が浮遊する時の様に上下に動いた。

「ナカヤくんにとって自分はなんだったんだろうって思う時があって」

 ホリちゃんの声は小さくて細いけど、はっきりとした輪郭を持っている。今彼女の声は周囲の雑音の中に紛れ込むことを拒否するように、僕の耳まで響く。

「結婚するって聞いた時に頭の中真っ白になっちゃった。それであたしわかったんだけど、あたし、彼女でもなんでもなかったんだって。ナカヤくんって優しいから、あたしが勘違いしてただけみたい」

「でも、ミカミに相談してたんじゃなかったか?ナカヤとのこと」

「してたよ。ミカちゃん、力になれるかわからないけど、何でも相談してって言ってくれてたから」

 そういうと彼女は口角を上げて笑って見せようとする。顔の筋肉の使い方を忘れたような、ちぐはぐな笑顔だった。

 彼女が営業部に異動になると内示を受けた時に泣いたと言う話は、決して仕事の辛さを思ってのことだけではなかったのだ。

 僕はそのことを知った。それからしばらくホリちゃんは俯いたまま動かなかった。僕は何も出来ずに、それでもナカヤの楽しそうな横顔が妙に心に引っかかったまま、自分の体の中で先ほどから動いたり震えたり跳ね回る感情に、どのように手をつけるべきなのか持て余していた。

「あのさ」

「何?」

「もう少しだけそこにいてくれない?ナカヤくんから見えるから」

 彼女が泣いていることに、僕はその時気が付いた。声も出さずに、ただ涙を流していた。

 何分そうしていたかわからないが、僕はそのまま彼女の傍にいた。ホリちゃんはしばらくして顔を上げると、ちょっとトイレ、と言って立ち上がった。ナカヤはいつの間に帰ったのか、店から姿を消していた。


 別れ際、彼女は何度もごめんね、と繰り返した。駅に向かう彼女の足取りは覚束ない。街灯の下に近づくたび暗闇の中に彼女の明るい茶色の巻き毛がふわふわと浮かび上がった。彼女の家まで送ることも考えたが、終電の時間は迫っていたし、あまり遅くなるのも妻がいい顔をしないだろうと考え「気をつけてね」と声をかけて、そこで彼女とは別れた。駅へ向かいながら、気をつけるって何にだよ、と我ながら間抜けな言葉に苛立った。家に戻る途中、電車の中でメールをしようと携帯を取り出したが、送るべき言葉が見当たらず、そのまま携帯を鞄に仕舞った。


 彼女が手首を切ったのは、その数時間後のことだった。

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