chapter 7

 会社からの帰り道、地下鉄のホームでナカヤを見かけた。

 もちろん声などかけるつもりはなかったが、こちらが彼の存在に気がついた時には、向こうがこちらに頭を下げながら近づいてくるところだったので、そのまま知らないふりをすることも出来ずに、並んで電車を待つことになった。沈黙が耐え難かったのか、或いは天性の人懐こさが成せる業なのか、ナカヤは自分から会話を持ちかけてきた。

「ここでお会いするの、珍しいですね」

「そうかもね」

 彼の方を見遣ると、手には書店の紙袋が握られていた。

「それは?」

「ああ、これ」

 ナカヤは恥ずかしそうに紙袋の表と裏をひっくり返しながら言う。

「絵本です。嫁に言われて」

「ミカミに?」

「ええ」

 僕はナカヤの緩くウェーブのかかった長い前髪と、神経質そうな細い銀縁フレームの眼鏡を見ながら、言った。

「くだらない話していい?」

「何ですか」

「ミカミってさ、イシダと付き合ってたの?」

  何も知らない風を装って切り出して見る。何気無い感じを演出したかったのに、早くも鼓動が全力で走った時のように早まっていた。鼻の穴が広がってきそうなのを必死で堪える。ナカヤは眉を下げながら笑顔を浮かべて言った。

「その話、誰から聞いたんですか。参ったな」

「誰ってわけじゃないけど、まあ聞いてさ。どうなの?」

「僕、嘘ついたり隠したりするの嫌なんで、きちんと言いますけど、ミカミさんからはそう聞いてます」

 ナカヤの視線は真っ直ぐ僕を射抜く。その視線と口調には彼なりの覚悟が感じられた。同じ社内で一人の女を同僚と奪い合う、というシチュエーションはよくあるようであまりないことかもしれない。陳腐な思い付きだとわかっていたが、僕はなぜか西部劇でガンマンが町娘を巡って背中合わせに銃を構える映像を思い浮かべた。彼には結婚に際して、こうした質問を同僚から尋ねられる想定問答はある程度用意していたに違いない。

「ミカミがさ、イシダと付き合ってるうちからお前とも付き合い始めたってのは本当か?」

 ここまで来たら聞くしかない、と僕は半ば自棄になって尋ねた。ナカヤは表情を変えずに続けた。

「そんなことはありません。ミカミさんはそんな人じゃないですよ。きちんと二人でお話をされて、結論を出したと言ってくれてます。きちんと別れたという話を聞くまで、僕も付き合って欲しいとは言いませんでした」

 ナカヤの言葉に迷いは無かった。僕はわからなくなった。嘘を言っているようには思えない。

「じゃあ、もう一つだけいい?」

「はい」ナカヤの表情が少しだけ強張る。

 お前は二股してたのか。

 そんなことまで聞く必要があるのだろうか。口まで出かかった疑問を飲み込んで、僕は「ごめん、なんでもない」と言った。ナカヤは少しだけほっとした顔をして「気になるじゃないですか」と軽く笑いながら言った。

「ミカミのことよろしく」

「はい、もちろん」

 ナカヤはそう応えて反対側の電車に乗り込んで行った。そうやって彼はこれから妻と子の待つ家へ帰る。会社帰りに絵本を買って帰る。

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