chapter 6
年が明けて暫くした頃、思いがけないことが起きた。
最初に聞いた時、僕は質の悪い冗談か、週刊誌で書き立てられる芸能人のゴシップのようにしかその話を捉えることしか出来なかった。現実に自分の周辺で起きるとも思っていなかったし、そもそも何の為にそんなことをする必要があるのかがわからなかったからだ。
ミカミとナカヤは、ミカミがイシダと別れる前から実は関係を始めていた。ナカヤにはその頃、まだ前の彼女がいた。すなわち、芸能人も真っ青のダブル浮気の末の結婚である。しかも、ミカミはこのナカヤの前の彼女からナカヤが浮気しているらしいという相談に乗っていた。自分が当の浮気相手であるにも関わらず。
それが、僕が数日間で社内の至る所で聞き集めた情報の全てだった。
この話に、女性陣は大抵が前のめりで興奮して話し、男性陣は総じて消極的で静観を決め込んでいるようだった。
どこの会社にも一つや二つはあるありふれた男と女の話だろう。三十近くなれば僕らが恋愛に打算と刺激を求めてしまうのは至極真っ当な生理であるようにも思う。それでも、いざこうして身近な、自分自身と双方関わりの深い人間がその渦中に居た、ということを聞くとまるで地理の教科書でしか見たことの無い、遠い異国の地で起きた戦争による爆撃で幼い子供が亡くなった、と聞いた時のような自分自身にはそれが一体どんな影響を及ぼしているのかはっきりと自覚できない、もどかしい思いに捉われた。
ある人は僕の顔を見るとにやにやしながら「お前の同期、なかなかやってくれるな」と下卑た笑いを浮かべたし、またある人は「イシダくんは大丈夫なの?」と決して上辺だけではないであろう表情でおずおずと切り出してきた。もちろんその人も、心配そうに歪める目の奥に好奇心の光が宿っていることを押し隠すことは出来なかったようだが。
イシダは普段と変わらない調子で仕事をしていたし、ナカヤも普段通り淡々と仕事をこなしているようだった。
二人が話すところは見かけなかったものの、お互いがそのことを知らないとは思えなかった。
コーヒーサーバーの前でブレンドとアメリカンのどちらを選ぼうか迷っていると、ワカシマが周囲を見回しながらこちらに近づいてくるのが見えた。
「どうした?」
「聞いた?イシダくんの話」
「聞いたよ。ミカミと付き合ってたってのは有名だったみたいだね。俺は知らなかったけど」
「うん、あたしにも直接話してくれなかった。でも、別れる前からナカヤくんとも付き合い始めたっていう話聞いて、あたしずっともやもやしてるんだよね」
ワカシマは顔を強張らせて言った。僕はコーヒーを注ぐタイミングを失って、紙コップを持った手に力を入れたり抜いたりしている。
「あくまで噂だからね。大抵みんな少しは尾ひれ付けるんだよ。まあ、本人に聞くわけにも行かないけど」
「それはそうだけどさ」
ワカシマは 納得しきれない様子でもぞもぞと手を擦り合わせた。
「あたし聞いてみようかな、カオリに」
ワカシマはミカミのことを名前で呼ぶ。僕はミカミの名前はそう言えばカオリだったなと思いながら返す。
「わざわざ聞くことないんじゃない?本人たちが納得した上だと思うよ。それに、本当だったとしても何にも出来ないよ」
正論だ。どうしていつも僕はこんなに正論が言えるのか自分で不思議に思うことすらある。僕にはワカシマの考えることがわかるのに、それを理解しないふりをして口先だけで異を唱えている。何のために?それでも言葉を続ける。
「ナカヤの前の相手だって社内にいるって話だよ。その子のことだってあるし、もう下手にいじらない方がいいんだよ、きっと」
言いながら紙コップへブレンドコーヒーを注ぐ。話しながら自分で、自分はどの立場でものを言ってるんだと思う。
ワカシマは何も言わなかった。
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