chapter 5

「誰かに言った?」

 イシダが言う。

「いや、まだお前が最初」

 会社の小会議室で僕はイシダと向かい合って座っていた。

 十二月、暴力的な寒さの北風が突き刺すように窓を揺らし、夕方には早朝とも深夜とも見分けのつかないほどの暗闇が街に降りる時期。

 終業のチャイムが鳴るとともに内線で彼を呼び出し、ここに呼び出した時には訝しげな表情をされたが、僕が「子供が生まれるんだ」と切り出すと、彼は予想以上に大きな声で「おお」とまず一言発し、それから「おめでとう」と破顔させた。

「ついに来たかあ。それにしても、ミカミとミナトの子供が同級生になるってのも何かの因果だな」

 その言葉を聞いて僕は思わず俯いてしまう。

 いわゆる「できちゃった結婚」のミカミと、二年前に大学時代から五年付き合った彼女と結婚した僕の妻は同時期に妊娠をしていた。

 向こうもこちらも出産予定日は四月。正確には向こうの方が三週間ほど早い計算になる。

 結婚と出産が同時報告であったミカミが社内の注目を、それは良くも悪くも集める一方、僕は自分のことについて周囲に話すタイミングを逃し続けていた。身も蓋もない言い方をしてしまえば、ミカミと異なり僕は自分自身が出産をこれから体験するわけでもない。父親なんてものはどこまで行っても傍観者でしかないとわかっていたので、それをさも自分が何かの偉業を成し遂げたかのように話をすることも、まして社内結婚のミカミに比べれば自分の妻は部外者なわけだから、プライベートなことを会社でああだこうだ喋るのもちょっと、なんて具合にぐだぐだ言い訳を考えているうちに臨月となってしまった。

  もちろん会社の上司や人事には形式上報告する必要があったが、その前に僕は誰かにこのことを言いたかった。

 その時最初に頭に浮かんだのがイシダだったのだ。

「じゃあ、お祝いしないと」

 イシダはそういうと立ち上がった。

「お祝いなんていいよ。ちょっと、先に一言言っときたかっただけだから」

「最初に言ってもらったんだから、やっぱりそれには応えないと」

 彼は、三人兄弟の一番上で、人の前を歩くのが得意だった。僕は三歳離れた姉にくっついていつも歩いていただけだから、人について行くのが得意に育った。


 二時間後、仕事を無理やり切り上げた僕とイシダは新宿の伊勢丹にいた。

 年末の新宿は家族連れとカップルと外国人とその他とにかくありとあらゆる人種が混ざり合い、さながらデモ行進か暴動が起きたかのよう混沌具合だった。

南口を出て信号を渡ると、スマートフォンを片手に仏頂面のイシダが見えたので、軽く手を振る。近くまで来ると、イシダは

「これじゃ完全にゲイじゃねえか」

 とふてくされたように言った。確かに、そう見えなくもない。

「俺にめでたいことを一番に報告してくれた奴にはいつもプレゼントを贈ることにしている」

 伊勢丹に入るとそう言って彼はあれでもないこれでもない、とおもちゃ売り場を何度も行ったり来たりしていたが、最終的には「スタンダードが結局最後に残るんだよ」と何度も繰り返し、積み木のセットを買ってくれた。


「はい、これ渡しとくよ」

 イシダはそう言うと淡いブルーの地にクマの絵がプリントされた包装紙で包まれた箱の入った紙袋を差し出した。

「ああ、メッセージカードかなんか持ってくればよかったな」

 新宿駅の構内でイシダはそう悔しそうに言った。

「じゃあ、ここにサインしてよ」

 僕はプレゼントを差し出してみせる。小さな花柄の印刷された包装紙は青みがかっているがサインくらいならできそうだ。

「だって捨てるだろ、これ」

「捨てる前に嫁にちゃんと見せるよ。これイシダにもらったよって」

 なんだかなあ、と言いながらイシダは手帳からペンを引き抜いて包装紙へ名前を書いた。

 彼特有の、筆圧が強い割には丸みを帯びた中性的な字体だった。


 彼が山手線、僕が総武線に乗って帰る為にホームで電車を待つ間、手持ち無沙汰になったのか、彼がぽつぽつ話し始めた。

「ミナトが異動してから先輩たちとよく昼飯食いに行くんだけどさ、あの世代って子供の話ばっかりなんだよね。俺まだ独身だしさ、甥とか姪とかもまだいないからその辺がぴんと来なくて。かわいいんだよとか言われても、そうっすかとかしか言えないし」

「そりゃそうだ」

「でさ、子供の話ってさ、相手にも子供がいるかどうかで受け止め方違うんだから、話す相手とか考えて欲しいなって思う時あるよ。子供欲しくても出来ない人とか俺も知り合いにいるし。そういう人からしてみると他人の子供の話ほど、聞きたくない話題なんてないんだから」

 そこまで一息で言ったあと、イシダは僕の存在を不意に思い出したようにばつが悪そうな顔をして「ミナトのこと言ったんじゃないから。ごめん」と付け加えた。

 ちょうどその時電車の到着を告げる電子音が鳴り響き、ひび割れたスピーカーが山手線の到着をがなり始めた。

「これ、ありがとう」

 僕は手にした紙袋を少し上げて見せる。

「俺からのプレゼントだってちゃんと 奥さんと子供に言っといてよ」

イシダはそう言うと右手を軽く上げて、山手線に乗り込んで行った。

 彼がミカミと別れた直接の原因はわからない。

 ただ、僕は彼が電車に乗り込む直前に口にした言葉が忘れられなかった。

ミカミはイシダと五年近く付き合って、別れて半年でナカヤと結婚した。その頃には妊娠五ヶ月だったわけだ。

 何年も付き合った男と別れて、すぐに別の男と子供を作る。

それがどんな感情に基づくものであるのか、僕にはわからない。

 彼女にとっての必然が、僕にとってのそれと同じはずはない。それでも僕は考えてしまうのだ。

 山手線が見えなくなるとホームで包装紙に書かれた彼の文字を見て、なぜか彼が婚姻届にサインを書く様子を思い浮かべた。

 僕の想像の中で彼が名前を書き込んだ婚姻届が見える。「夫」の欄にだけ記入がされた婚姻届。

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