chapter 4

 人事異動の季節は社員全員がどこか上の空だ。

 内示は来週らしい、いや新年度からの切り替えをするのならば今週末には内示をしないと間に合わないだろう。今回の異動は管理職だけだと聞いた、そんなことはない現場だってそれなりに動かさないと。そんな怪情報が選挙の開票速報さながらのスピードで社内中を飛び回る。

 今年の四月の人事異動は会社が同業他社と提携を結び合併を行う前の最後の人事ということもあり、かなり大掛かりなものになると下馬評では噂されていた。所属本部の本部長から午前中に肩叩きが無ければ今回のタイミングでの異動は無い。それはひとつの目安だったから、正午を過ぎても何の音沙汰も無かった自分は今回のタイミングでは何もないとわかった時に社内メールで回ってきた同期のワカシマの言葉が余計に気がかりだった。

「ホリちゃん、イシダくんの部に異動だって。もー何か頭がぐるぐるしてる。語りたい」

 ホリちゃんも同期の女の子だ。彼女の異動もかなりの事件だったが、ワカシマも文面から察するにだいぶ堪えているに違いない。宛先は僕ともう一人、同期のウミノの名前が入っていた。

 すぐに返信を打つ。

「どうした。とりあえずお昼ごはんでも食べながら語ろう」

 一分も立たずにウミノからの返信が入った。

「うん、語ろう!肩ロース!食べたーい!」

 何度か読んで、それが「語ろう」と「肩ロース」をかけた彼の駄洒落なのだと気がついたが、気がついたところで僕もワカシマも返事をするつもりはなかった。


  十二時過ぎに行くと行列が出来てとても入れない安くて美味しい定食屋に、少し早めに着いた僕らはいつものように日替わりを頼むのももどかしく本題を切り出した。日替わりが豚肩ロースの生姜焼きだったら面白かったのだけれど、残念ながら若鶏の香味ソースがけだった。

「ホリちゃん、営業行くんだって?」

「うん、内示が終わって本部長と会議室から出てきた時泣いてた」

「よっぽど嫌だったんだね」

ホリちゃんは入社した時からマイペースで有名だった。研修の時は講師の目の前の席で居眠りしていたし、配属されたあとも各所で彼女が派手なミスをやらかして誰それがぶち切れた、という話を聞いたのは一度や二度ではない。 そんなホリちゃんがまだまだ男が幅を利かせる営業部門に異動するというのは正直に言って驚きだった。

「でも女の子が欲しいって言ってたみたいだよ、ウザワさん」

 ウミノが営業部門のトップの名前を口にした。経理の彼は業務の関係上各部の本部長クラスや役員とも面識があり、時折こうした社内裏事情も隠し持っていることがある。

「今みんな結婚、出産の過渡期だからフルで仕事出来る若手女子は貴重なんだろうね」

 ワカシマが左手の指輪を無意識に右手でさすりながら言った。彼女がグループ合同の研修旅行で知り合った同い年の男と結婚したのは半年前のことだ。籍はその半年前には入れていたから結婚してそろそろ一年になる。実際のところ二十代後半から三十代にかけて社内の女性社員がここ数年でローテーションを組んでいるかのごとく結婚と出産を繰り返し、育休明けで戻って一年もすると第二子の産休へ、というのもここ最近は珍しくなくなってきていた。

「いい会社だからね」

 僕が言う。

「お客様には厳しく、社員には甘く」

 ワカシマが自嘲気味に続ける。

「ほんとそう」

 ウミノが同調した。

 

 ワカシマが結婚し、僕の同期で独身の女性はホリちゃんだけとなった。彼女の私生活は謎に包まれており、学生時代からずっと付き合っている彼氏がいるとも、かなり年上の男らしいとも、都市伝説のような話が時折聞かれるくらいで、真相は闇の中だった。

  日替わりの若鶏の香味ソースがけが運ばれてきて、僕らはしばらく内容量に比してやたらと大きい皿に盛られた料理に視線と興味を九割方奪われてしまった。

同期八人のうち、今でも昼にこうして集まって食事をするのは決まってこのメンバーくらいだ。それはただ単に三人の空気感、それ以前に「空気を作るための呼吸の仕方が近い」からだったように思う。

 僕らは六人の中では比較的静かで、真面目なグループだった。互いに干渉しすぎず、温度を低い位置で安定させ、自分自身と他者との距離感を慎重に測って生きてきた人間たちだ。会社の昼休みに食事を共にするのは、そうした人間同士であることが望ましい。社会人生活も七年目を迎える僕らにとって、無駄な体力を使わず、緊張感を持つこともなく、温水プールで漂うようにゆるく言葉のラリーを続けることが、気持ちを高ぶらせずに午後への活力を充足させるのに必要な行為となりつつあった。 ワカシマが異動で先輩がいなくなることで自分の仕事が当面二人分になったということについての愚痴を一通り話し終えたタイミングで

「イシダさんは?」

 ウミノが右頬をシマリスのように膨らませながら尋ねる。ウミノがイシダをさん付けで呼ぶのはもう何年も前から定着したあだ名となっている。

「変わらないらしいよ。変えられないでしょう、今やうちの会社のエースだもんね」ワカシマが答える。

「でしょう」僕は同意する。

 独立の話を彼からされたのは三日前のことだった。僕が聞いたタイミングではもう今月末には本部長に報告すると聞いていた。このタイミングでは彼らに話すべきか判断がつきかねたが、結局知らないふりをすることにした。

「七年目ってもう中堅に入るからね」

「え、そうなの?若手じゃないの」

「若手は若手だけど、もうルーキーって感じでもないし」

「ベテランって感じでもないし」

「なんだろうね、中途半端な」

「だって今年の新人から見た俺たちって、俺たちが入社した頃のイケタニさんみたいなもんでしょ」

「そうか、そう考えるとヤバイね」

 入社時、採用を担当していた人事のイケタニさんは噂では四十代半ばらしいということだったが、蓋を開けてみればなんと入社七年目、二十九歳だった。今では三十半ばとなったが、逆に七年前とまったく見た目は変わらないため、あと十年もすれば見た目と年齢が逆転して若く見られるのではないかとも言われている。その頃の記憶が僕にも蘇ってきて、確かにそれはヤバイなあ、と他人事のように考えてしまう。

 

 あと数ヶ月もすれば、僕は二十九になる。それがどんな年齢なのか、この段階になってもはっきりとわからない。十年前、十九歳の頃の僕の方が今の僕より明確な二十九歳のイメージを持っていたのではないかと思うほどだ。

 通りに面したガラス窓越しに昼下がりの街が見える。今ここを歩いている人たちの中で二十九歳の人はどれくらいいるのだろうか。その人たちに聞いてみたい。

あなたはどんな二十九歳になると思っていたのか。

 今の自分と思っていた自分は同じだろうか。思った通りの二十九歳になっているだろうか、と。

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