chapter 2

「だからさ、独立しようと思って」


  強引な接続詞で、前後の会話と脈絡無く本題に入って行くのは、イシダがいつも使う「本当に話したい話題」への導入テクニックだったので、今ではさほど驚きはしない。

 来た来た、と思いながら表情には出さないように気をつけて僕はかぶりついた手羽先から顔を上げる。一重まぶたの目をほんの少し開いて見せながら。

 

 三月の最終週、金曜日の夜の居酒屋は人いきれでむせ返る様だった。異様な熱気の中、その熱に当てられたように話すイシダは、間違いなくこの店の室温と湿度を上昇させるのに一役買っている。

 彼も極力表情には出すまいとしているが、口の端から忙しなく呼吸が漏れており、それが彼の心中を外部へと示すサインとなっていることに、本人は自覚が無い。 手には彼にしては珍しい二杯目の生の中ジョッキが握られたままだったから、イシダにしてもそれなりにアルコールを入れておいてからでないと切り出しにくい部分があったのだろう。

 僕は小さく二度ほど頷き、言う。

 それがいいと思うよ。お前はだって、雇われてるのが似合わないっていうか、窮屈そうに見えるし、っていうか何か勿体無いよ。

 そんなようなことを、もごもごと言って見せた。

 もごもご言うのが大切なポイントだ。彼に断定的な言葉や、鋭い物言いを受容するという文化は無い。彼と話す時、伝えたい内容こそ聞き取りにくい言葉、わかりくい文脈で発信する必要がある。

 そのことを、彼をよく知らない第三者に説明する時、大概の人間は「面倒くさい奴なんだな」と呆れるか、怪訝な顔をする。僕だって当初こそ人並みに嫌な思いもしたが、五年間毎日職場で顔を付き合わせ、怒らせたり怒ったりを続けていると、その辺の会話の呼吸は夫婦生活のように馴染んで行くものだ。

  いつの頃からか、彼と話をするときは、どこまで本気でそう思っていたのか、自分でもわからないような言葉が脳味噌を一ミリも使わずともすらすら出てくるようになった。 僕の中では、それが彼がこれから話したい内容を引き出すのに最も最適なワードであると経験値で弾き出しているからだ。

  彼は僕の話を聞く間、新入社員の採用を任された面接官みたいな表情で僕の右手の辺りを見つめて聞いている。僕はまるで本当に面接を受けている学生のような気分になって彼の返答を待つ。これは正解だったか。あるいは、もう少し結論を出すのは待った方がいいと言うべきだったか。

 僕が脇の下あたりに冷たい汗をうっすら感じるようになる頃合いでイシダは持っていたジョッキを置くと、テーブルの端にまとめて置かれたメニューを指で弄りながら、言った。

「月十億稼いでも、もらえる額は変わらないんだもんな」

 僕の言葉に対する正確な返答では無かったが、現状への不満度を高めたという点では彼の決意に水を差した訳ではなさそうだ。


 僕は二年ほど前まで彼、イシダと同じ営業部門にいた。

 同期入社ではあったが彼は入社当初から営業一筋、僕は入社から三年近く業務を担当し、アルバイトスタッフの管理から庶務まで行うデスク仕事中心だった。それだけに営業部門への担務変更に僕は興奮した。この会社でも花形と呼ばれる部門で自分の力が試せる。その時はそんな風に考えたことがあったかもしれない。

 しかし、結局は適性というものがあったのだろう。半年が過ぎ、一年が経とうとしても僕と彼の成績の差はちっとも埋まらなかった。

 彼は営業としてはキャリアが上であることもあってか、僕を見兼ねて営業手法へのアドバイスをしてくれたり、ノウハウをまとめた資料を渡してくれたりしたが、当時の僕は彼との差がどんどん広がっていくことへの苛立ちから、彼の言う事を聞かず、むしろ避けるようになっていった。

 オフィスに入ると彼の姿が目に入る。後輩の女性社員数名に囲まれ、和かに話す彼の姿には自信と野心が満ちており、圧倒的な生命力が漲っているようだった。彼が話すと笑い声が生まれ、人が集まった。

 僕は一人でデスクに座り、パソコンを立ち上げる。帰宅は連日、日付を超えた。朝は起きることが出来ないので、朝食は抜き。出社途中に立ち寄ったコンビニで買った惣菜パンが入ったビニール袋をパソコンの脇に起き、こめかみを強く押してマッサージする。今日もこれからプレゼン資料を作らねばならない。あと三十分もすれば一本目の商談だ。午後は外出して新規の取引先を開拓する必要もある。メールチェックを始めた僕の背中に彼の話す声が降りかかってくる。

 こいつさあ、ヒラタはほんと、えげつないんだよ。え?いや、フットサルって普通そんな全力でみんなやんないんだけどさ、ヒラタ全力で攻めるんだもん。相手引いてたって。だからさ、今度お前らも見に来いよ。大体月一でザキさんが相手ブッキングしてくるから。遠くないって、駒沢とかだし。三十分?くらいだろ。一回来なって。絶対楽しいから…

 

 営業に回ってから一年半。

 体重は十二キロ落ちた。定期健康診断で医者が去年の履歴を見ながら「何か病気されました?」と聞きたくなる気持ちはよくわかる。眠れない日々が続き、ひどい歯ぎしりをするようになった。ある日の朝起きると顎に激痛を感じ、口が開かなくなった。歯医者に行くと、顎関節の軟骨が飛び出していると言われた。ストレスから来る歯ぎしりのしすぎが原因だった。

 それからしばらくして上司も人事も見兼ねたのか、管理部門に回された僕は仕事が肌にあったようで、少しづつ平静を取り戻して、彼とも平常心で話が出来るようになった。

 結局、今僕が彼とこうして話をすることが出来るのは、彼と同じ職場土俵から降りて、一段落低いところに自分のが立っているからなのだろう、と思う。一段低いところから彼を見上げて、始めて僕は彼と同等の立場になれたと思うことが出来た。もう同じフィールドで戦うことが無い人間だからこそ、僕の側に彼を受け入れて認める余裕が出来たのだ。何のことは無い。僕は、自分が彼に負けたんだということをずっと受け入れることが出来なかっただけなのだ。何やかんやと理由を付けて。


「要は自分に常に刺激を与えていたいってことなんだけどね。新しい環境に自分を置いておかないと、脳味噌が動かなくなる」

 何本目かの煙草に火をつけながら彼が言う。既に二箱目の中身も空間が目立つようになってきた。僕は煙草を吸わない。きっと髪や服にたっぷりと染み込んだこの匂いに、あとで辟易するのだろうなと少しだけ厄介な気分になる。この店に来てからそろそろ三時間が過ぎようとしていた。話は終盤に向かっている。話の内容と彼の表情からそれは見て取れた。

「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」

 僕は言う。古いフォークシンガーの歌の一節だ。今の彼に聞いて欲しいと思っていたら、口に出してしまっていた。

「すいふ?何それ」

「いや、何でも無い」

  案の定、知らなかった。灰皿の中で押しつぶされた煙草の吸殻たちが、僕らの過ごした時間を形に変えたように見えた。

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