# ナルキッソス

  # ナルキッソス


 当時、私の家の物干し台に出てみると彼女のお家の玄関が見えていた。今はもう無いあの豪邸だ。

 お嬢さんだった彼女は出窓のある部屋でヸヲロンの練習をしていて、出窓にはレェスがかかっていたが、彼女のシルエットが見えた。

 玄関の前には赤煉瓦畳みの庭があって、練習を終えると彼女は綺麗に光るエナメル靴を履いて出てきて休憩をする。何故エナメル靴なんてことを憶えているのかというと、彼女は玄関にもたれた恰好で、目の前に敷かれた赤煉瓦に靴の爪先を打ち付けてリズムを取っていたからだ。癖だったのだろうか。それとも音楽の練習の続きだったのかも知れない。タタタタタン、タタタタタン、と一定の調子はまったく乱れなかった。タップダンスの練習をしているかのように、上手に彼女は打ち鳴らした。

 私は物干し台から黙って見下ろしていた。彼女を見ているのが好きで、こっそり眺めていた。

 庭に咲く水仙に、彼女はそっと寄り添う。乱れ咲いた白い水仙のなかで、お嬢さんはよく似合っていた。彼女は花に頬を寄せる。そして……くちづけをした? そのときはそう思った。彼女は花に接吻をしている。それは見てはいけないものを見てしまったようで、射たれたように私は家のなかに隠れた。

 その家の水仙はひとつ残らず、花の部分だけが毟られてしまったのだという異常な話を、後日家人から聞いた。勿論私は何も云っていないが、理解した。彼女が口許を寄せていた水仙たち。あれは、接吻ではなく、齧りついていたのだ。

 このことは以後、誰にも話していないし、彼女はやがて界隈には居なくなった。あの家も今はもう無い。それが水仙のお嬢さんについて憶えていることだ。


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