第5話 雨の日の宣誓

「英」


 一條英は、父親の元にいた。

 血法師にして、自らの父の元に。


「――彼奴は、人としての常軌を逸し、殺人を働いた」


 ユラユラと、松明が揺らめく広大な大広間。その、中心。

 英の眼前には、仁王立ちする金剛力士像がいる。


「で、あるばかりか、彼奴は、処分を受けたその後、さらに血法師としての理すら破った」


 それまで金剛力士を見上げていた父が、始めて英の方を向いた。


「……これが、許されていいと思うか?」

「いいえ。……思いませぬ。父上」


 間髪入れず答えた英に、父は満足そうに髭を撫でる。


「そうであろうよ」


 しかし、そこでその表情は怒りに満ちる。

 ……その顔が、金剛力士とシンクロする。


「だが、貴様はみすみす彼奴を見逃した……っっ!」


 父が、大きく手を上げた。

 その様子を見て、英が体をピクリと動かし目をつぶる。


 ……しかし、父は英に何をするでもなく、その様子に満足げに手を下ろした。


「……必ず、彼奴を始末するのだぞ、英」


 そして、それだけ言って、その場に背を向ける。


 そして、言い含めるように英に言葉を残していった。

 憎き敵の、その名前を。


「彼奴——近衛継莉を」


 トットット……。

 父の足音が、遠ざかる。


 他の人間が消えた、広間。残っていたのは、一條英、ただ一人だった。

 夏だというのに、冷気を感じるその空間。そこに、彼は座ったままいた。


「……俺は、結局、こういう人間でしかないんだよ」


 ギュッと、握った手に、力は篭っていなかった。

 けれど、そんなことは関係ない。

 ——近衛継莉を殺す。

 それで、自分のアイデンティティは満たされるのだから。


———————————


 その日は、雨だった。

 梅雨の残り香のような、シトシトと降る、陰気な雨だった。


 今週は期末試験も終わって、授業期間ではあるけれど、夏休みでもない。

 そんな、中途半端な、宙ぶらりんな一週間。


 教師も生徒もどこかふわふわとしていて、気づけば放課後になっていた。


 (……図書室、いこ)


 六は、図書室に行くのが好きだった。

 別に、特段本を読むのが好きというわけでもなかったが、静謐な空気を得られるそこは、六にとって、確かに安らぎの場所だった。


 宿題を少しして、雨に沈む校庭を眺めていると、気づけば六は思考の海に落ちていた。


 ……近衛、継莉。


 ……まただ。

 努めて考えようと思っているわけではない。

 そうだっていうのに、なぜか彼女のことが頭に浮かんでくる。


 ……けれど、その理由が、少し六にはわかるような気がしていた。

 彼女は、高潔で、彼女という存在において、限りなく自由であるように、きっと自分は感じているのだ。


 ……この、どこにも行けない自分とは、違って。


「…………」


 ブルブル!


 ダメだ。 

 また、彼女のことを考えていた。


 頭を振って、現実に帰ってくる。

 窓の外を見ると、灰色の雲が一段と暗くなってきていた。もしやと思って時計を見ると、下校時刻も迫っている。


(帰ろう……)


 制鞄を掴み、席を立つ。そのまま、下足室に向かう。

 リノリウムの廊下には、ポツポツと雨音だけが聞こえる。

 鞄から折り畳み傘を出して差し、外に出る。


(……今日は、歩いて帰ろうかな)


 六は電車通学だ。

 普段なら、この後、陽が暮れる頃までどこかで時間を潰して、家に帰る。

 ……家に、あまり早く帰りたくはなかったから。


 けれど、今日はあいにくの雨だ。


 どこに行っても、特に何かができるわけではない。

 だから、その代わりというわけではないけれど、歩いて帰ろうと思った。


 そうして、しばらく歩いていた時だった。

 横断歩道の向かいに、見知った顔がいた。


(あれは……)


 六は、それほど記憶力が悪い方ではない。

 だから、覚えていた。

 その人物を。


(近衛……さんに、一條って呼ばれていた、人……)


 見ると、彼は六と同じ高校の男子制服を着ている。

 同じ学年では見たことがない気がするから、おそらく、先輩なのだろう。


 ぼーっと、向こうを見ていると、あちらもこっちに気づいたようだった。

 無視するのもどうかと思い、こちらに渡ってくる一條を、六は傘を差したまま待つ。


「……三日ぶり、かな」

「…………四日前だから、そうですね」


 チラリとタイの色を確認すると、やはり先輩だったらしい。

 二言だけ話して、すぐに手持ち無沙汰になって、お互い中空を見つめながら何を話したものか考える。


 しかし、その気まずい時間に無遠慮に押し入ってくる存在がいた。


「あー六ちゃんじゃーん」

「え、なになに!? 彼氏〜? 受っける〜」


 ……。


 その声を聞いた瞬間、六は前に歩き出そうとしていた。

 条件反射だった。


「なに逃げようとしてんだよ」


 けれど、無情にも目の前の横断歩道は赤を示していて。

 一瞬止まった六の肩が、ガッと掴まれる。


「……なんですか?」


 だから、仕方なく尋ねる。


「……フーン。……ア〜そーだなー……私ィ〜、今、金に困ってんだよね〜。……貸してくんない?」

「…………」


 そんな六の態度が気に食わなかったのか、向こうは金をせびってくる。


 そして、そんな彼女たちに対して、六は無言で、財布から1000円札を出した。


 ……結局、私はこういう人間なのだ。

 無駄な争いは避けて、大きな何かに流される。


 よく言えば、温厚なのかもしれないけれど、結局のところ、多分ただの意志薄弱。


 六は、そんな自分が、好きではなかった。

 ……でも、治すことも、できなかった。


「彼氏、助けてくれないなんて、お似合いなんじゃない?」


 ギャハハw

 三人は、それで満足したのか、嗚咽のような笑い声だけを残して、消えていく。

 それを冷めた目で眺めて、消えたのを確認してから、口を開く。


「……先輩、今日は、見てるだけなんですね」


 この前は、助けようとしてくれたのに。

 そう、言外に込めて、尋ねる。


「……ごめん」

「……謝らないでくださいよ」

「……俺は、強い人間じゃないから」


 一條は、六に顔を向けず、俯いて、ボソリと言った。

 詰る人がいれば、きっと一條をひどく詰っただろう。

 ……けれど、六は、そんな彼のことが、嫌いになれなかった。

 そして、嫌いになれなかった自分のことが、やっぱり嫌いだった。


「……俺は、自分に出来ることしか、出来ない。そういう、人間だから」

「……じゃあ、何ができるっていうんですか」

「……今、できることは、忠告だけ」


 二人で、ボソボソと、会話する。

 ともすれば、雨音にかき消えてしまいそうな、そんな声音。


「近衛継莉には、これ以上近づかない方がいい」


 けれど、その言葉だけは違った。

 彼のその言葉だけは、いやに力強かった。


「彼女は、血も涙もない存在だから」


 ……近衛、継莉。

 また、彼女。


 ……彼女が、一体、なんだというのだろう。


 彼女は、一体——。


「……じゃあ、俺は、行くよ。やることが、あるんだ」


 そう言って、一條は、六が向いている方とは違う方向に向かって歩いていこうとする。


 ——何か、言わなくてはいけない。


 そんな思いが、六を支配した。

 ——彼女は、血も涙もない存在だから。

 その言葉を、そのままにして、別れたく、なかったのかもしれない。


 だから。


「……私が!」


 気づいたら、口を開いていた。

 大きな、声で。


「……彼女と、どう接するかは…………私が、自分で見て、決めます」


 立ち止まって、それを聞いた一條の顔は、傘で見えなかった。

 代わりに、一言、こちらに返事をした。


「……そうか。それも、いいと思うよ。……じゃあ、またね」


 一條は、そう言って、地下への階段を降りて、消えていった。


 雨の京都の空気は、ジメッとして、重かった。



 ——けれど、この後、六は、思い知ることになる。


 近衛継莉という人間が、一体どんな人間なのかを。

 彼女を、血も涙もないといった、一條の真意を。

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