第一章 血となり肉となる
第4話 疼いた傷は、気のせいじゃない
昨日のことは、夢だと思う。
だって、あまりにも現実味がない。頭の奥も、ズキリと痛い。
……あれが本当だったと示すものは、何もない。
「……もっかい寝よう」
無機質な天井に言葉を投げかける。
窓からはカーテン越しに高くなった太陽の日差しが差し込んでいるけれど、なんだか起きる気にもなれなくて、布団をまたバサリとかぶる。
ドン!
そんな折、階下から激しい物音が響く。
「……今日は寝てられる気がしたんだけどな」
きっと、母が荒れているのだろう。
……まぁ、いつものことだ。
こういう時、家にいてはいけない。
「……行ってきます」
だから、手早く身支度を整えて、小さく言葉を残して家を出た。
二度寝は、またいつの日か、すればいい。……それがいつかは、わからないけれど。
——————
「今日も張り切っていこー!」「「おー!」」
対岸から微かに響くのは、どこの大学生のサークルだろう。
六は、休日に鴨川沿いを歩くのは好きだった。
ここには、大勢の人間が自由気ままに行き交っていて、六も、その一人になれるから。
「よっと……」
適当な土手に腰掛けて、川に反射する陽光を見やる。
そして、カバンから教科書を取り出す。
……教養だけが、自分を救ってくれるんじゃないかと、六は思っていた。
七月末の期末テストも、案外近くに迫っている。
「何見てんの?」
「うわっ!?」
それは本当に突然だった。
教科書と、六の目の間に、ニュッと生首が現れた。
——生首!?
「な、な、なに!?」
「……ぷっ……ふふっ……なに、その反応」
慌てて、教科書をカバンに突っ込んで、背後を振り返る。
……もちろん、いつでも逃げられるよう、取っ手をひっつかんで。
そこには、一人の少女が六を覗き込むように立っていた。
「ちょ! ステイステイ!」
「……あなたは…………」
六は、その顔に、見覚えがあった。
……見覚え、なんて言うものではない。
だって、その顔は、今朝の夢で見た顔なのだから。
——いや、こうなっては、認めなくてはならない。あれは、決して夢などではなかったのだと。
「近衛、継莉、さん……」
六がその名を呼ぶと、継莉は「へぇ……覚えてたんだ」と言うように目を少し見開く。
「そんなあなたは、高原六」
「うん……」
陽光の下の彼女は、昨夜見た紅く黒い陰気を纏った彼女とは、なんだか少し違って見えた。
明るい金髪が光を反射して少し眩しい。サイドテールが、鴨川の風に揺れている。
その姿は、背格好相応の無邪気さを纏っていた。
そんな継莉の姿に、六は少し困惑してしまう。
六の訝しむ視線を感じたのだろうか。継莉は少し笑ってみせた。
「日曜の昼間ぐらい、ゆっくりしないとね」
そう言って、六の隣に腰かける。
「……いつまで立ってるの?」
「う、うん……」
戸惑いながら、六も再び土手に座る。
六はなにを喋ったものかわからなかったし、継莉は継莉で特に喋るつもりもないらしい。
周りの喧騒だけが、二人を包む。
「……ねぇ」
対岸の声が収まったのを見計らって、意を決して、声をかける。
「……ん?」
「昨日の、その……夜の、ことだけど」
「なに?」
「私が、あなたを、その……殺す、って……」
「ああ〜あれ」
「ありがと。……あたしのために言ってくれたんでしょ?」
「いや、まぁ……」
確かに、それはその通りだった。
「でも、殺す……なんて」
「……そんな六には、嘘も方便って言葉を教えてあげる」
「……でも、嘘じゃなくてもいいよ」
「………………え?」
それは、どういう意味なのか。
そう、六が問い返す前に、その答えは返ってきた。
「あなたになら、殺されてもいい」
その目は、真剣そのもので。
見つめていると、だんだんと継莉という存在に吸い込まれていくような。
そんな、気すらしてくる。
薄青がかった瞳の奥は、しかし、六には見透かせない。
「……なーんて」
それは、本当に冗談だったのだろうか。
……結局、六には、その言葉の真意はわからず終いのままだった。
「六って、からかうと面白いね」
唐突な言葉。
……脳の芯が熱いのは、初めて人に下の名前で呼ばれたからなどではないと、言い聞かせる。
「……まぁ、でも、これ以上は会わないほうがいいかもね」
「え?」
それは、どういう意味だろう。
「六には、この陽の光が似合うよ」
……そんなことは、ない。
そう、言おうとしたけれど、彼女の前でそれを言うのは、なぜだか躊躇われた。
……彼女の意味する陽の光は、六の思っているそれとは、また違う気がした。
「昨日の言葉は、忘れてくれていいよ」
じゃ。
そう言って、彼女はひらひらと手を振って歩いていく。
——あなたは、私のものだから
昨日の言葉が、フラッシュバックする。
たまらず、六は声をあげた。
「……ねぇ!」
けれど、気づけばすでに彼女の姿はどこにもなくて。
鴨川の土手を、一陣の風が吹いた。
……さす。
首筋を、撫でる。
「…………何よ、それ……」
……跡は残っていなかったけれど、昨日彼女に噛まれたそこが、疼いた気がした。
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