12
湖西先生は何も言わない。代わりに海野先生が状況を改めて尋ねた。
「湖西先生。子供達にとって、頑張った事をなかった事にするのは一番辛い事です。そんな事をしたら子供達は頑張る事を無駄と思うし、大人を信じなくなります」
これは本当に海野先生の言葉なのかというくらいに落ち着いた口調だった。ふだんうるさい人の小さな声には音量のわりに迫力がある。海野先生も怒っているのだろう。
そこまでさせた湖西先生は、やがて口を開いた
「健士郎君を、どうしても大会に出したくなかったんだ」
「え?」
全員が聞き返す。陸上の大会なら担任は喜んで生徒を送り出しそうなものなのに。
「うちの息子も陸上をやってるんだ。別の学校のクラブで、健士郎君と同じ大会にもでる。ただ、タイムは健士郎君より遅い。きっと予選落ちするだろう。でも、健士郎君が大会に出なければ……」
「そんな、事で……!」
海野先生は湖西先生に掴みかかりそうだった。しかしぎりぎりでそれをなんとか抑える。
湖西先生の動機は息子が少しでも陸上で活躍できるように。
陸上は事前にタイムがある程度わかってしまうから、ある程度の結果がわかってしまう。しかし好成績の選手が大会に出なければ、予選突破など奇跡が起きるかもしれない。
ただそれだけのために、この先生は一人の生徒にプリント提出しなかったというぬれぎぬを着せたのだ。
「そんな事かもしれない。けど息子にとっては一大事なんだ。うちの子は毎日勉強して宿題もやっている。なのに勉強もせず宿題もしない健士郎君には陸上で勝てない!真面目にやってきたのに負けて落ち込む息子を見るのは辛いんだ!」
湖西先生がそう切実な様子で叫ぶと、少しは同情してしまう。前に来人君も言っていた事だ。やるべき事はしないでおきながら走るのが速いのはずるい。
健君がちゃんと勉強や宿題をしたらタイムが遅くなる。もしくは湖西先生の息子が陸上に専念したらタイムが縮む。当たり前の話だ。
なのに健君が好き勝手に陸上してタイムがよくて大きな顔していれば、いらっともするだろう。これはよくないと『プリントしないとゼロ組行き』と言いたくなるだろう。
ただ、健君は予想外にプリントをやってきた。それはゼロ組に行きたくないというよりは陸上クラブに出るためだろう。
だから湖西先生はプリントを隠す事にした。本当はそんなつもりなんてなかったのかもしれない。けど日々プレッシャーと戦う息子さんを見て、つい隠してしまった。そうしたら健君の普段の行いから誰もが湖西先生を信じるから。
「いいよ、もう……」
そんな弱々しい声を出したのは健君だった。いいって、それは許すという事なのか、もう先生の動機を聞きたくないという事なのか。
「本当の事なんだ。俺が宿題とかやらなかったのは事実で、先生の子供が頑張ってるなら、そっちがえらいのは当然だよ。だからもう、大会なんていい」
来人君からも湖西先生からも同じことを言われて、健君はすっかり自信を失っていた。それどころか、自己評価が低くなっている様子だ。そんな彼の背中を、リーチ君が強く叩いた。
「ばかっ。これは大会だけの問題じゃないんだ。お前の信用の問題なんだよ。お前はちゃんとプリントをやったし夏休みの宿題もやってる。そこを主張しなくてどうする!」
「そんなの主張したって……」
「主張したって、一番えらいのはいままでずっと宿題やってたやつだよ。でもお前が評価されないわけじゃない。お前がやった分は俺達が評価する!」
これは前にも言っていたこと。リーチ君は頑張った事は例え陸上であっても、途中の宿題であっても評価する。
確かに宿題をいつもちゃんとやれる子が一番えらいけど、健君はこれからがんばる。そのがんばりは評価していい。
「そういう訳だから湖西先生。先生がした事、今から陸上クラブの顧問だけには話しておいてくれ」
「あ、あぁ……それはもちろん。健士郎君には申し訳ない事をしたとは思っているんだ。今は反省している」
まずやることは健君が陸上クラブに戻ること。それには湖西先生が罪を認めなくてはいけない。湖西先生も反省しているし、海野先生の証言もあるから、すぐ顧問に伝えてくれるだろう。
でも今となって『反省している』なんて都合がいい。バレなきゃいいと隠し持ってるつもりだったみたいなのに。
けれどリーチ君は私みたいに不満を感じていないようで、小さく笑っていた。
「……だろうな。湖西先生は、プリントを捨てる事もできたはずなのに捨てなかったんだ。捨てた方がザイアクカンないしショーコインメツできるのにさ」
あっ、と私はようやく気付いた。出したはずのプリントをなかった事にするのはかなり悪いことだけど、それでも湖西先生はプリントを処分せず保管していた。捨てちゃえばこんな事にはならなかったのに。
「さすがに、教え子が初めてがんばったプリントを捨てる事はできなかったんだ。こんな事を言ったってそれをなかった事にしたのだから罪は変わらないけど……」
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