後編

 魔法の使えない俺にも、見えない壁が壊れる気配は何となく分かった。エレナが小さくガッツポーズを取る。

「よっし。なかなかできるじゃん、あたし」

「もう入れる?」

「入れるわよ」

 古びた門から、一歩を踏み出す。今度は何の障害もない。緊張する身体とは裏腹に、心ばかりが逸り立っていた。

 いよいよ、魔王の城に入るんだ。ずっと、このために旅をしてきた。もうすぐ全てが終わるんだ。

 歩き出そうとした俺の肩を、いきなりエレナが掴んだ。つんのめりかけて、後ろを振り返る。

「な、何?」

「――ちょっと待って」

 その表情は、今まで見たことのない緊迫に満ちていた。フォグとミーナも眉をしかめる。俺は首をかしげようとして――ようやく、強大すぎる気配に気付いた。

「何だ、これ……」

「これは……」

 開かれたエレナの唇は、微かに震えている。

「魔王の、魔力――」

「おいおい、いきなり魔王のお出ましかよ」

 フォグが呻いて、緊張した笑みを浮かべた。気配が近づいてくるのを感じ取って、それぞれが戦闘の態勢を取る。息すら潜めて、魔王が現れる瞬間を、じっと待った。

 永遠にも近い数秒。不意に地面が光り、一瞬で人影が現れる。

「ようこそ、人間達」

 ゆがんだ笑みを口元に浮かべて、紅い瞳で俺たちを見つめる魔王――その人から、目を離すことはできなかった。

「あなた、は……」

 横でミーナが、悲鳴にも似た声を上げる。フォグやエレナも、同じ気持ちだっただろう。黒くて長い髪は今は無造作に風に揺れていて、人の良さそうな笑みは人間を見下す笑みへと変わっていたけど、忘れるはずがない。

 俺たちを助けてくれて、一緒にご飯を食べて、結構気が合って、でも結局名前は教えてくれなくて――その、彼が。魔王として俺たちの前に立っている。

「どうして……っ!」

 理解、できなかった。いや、したくなかった。だって、あんなに優しくて、ちょっと気が弱くて、そんな彼が、どうして魔王、なんだ。

「どうして?」

 ゆがんだ唇を薄く開いて、彼は笑う。

「決まっているだろう、そんなこと」

 細められた紅い瞳は、鋭く暗い光をたたえている。

「全て嘘だった。それだけのことだ」

 どうして、こんなことに。

 覚悟はしていた。魔王はあまりに強大な力を持つ。その場にいるだけで人を屈服させるような存在なのだと。だけど、こんな。こんなの、予想できるはずがなかった。どうして彼が、どうして。

「助けてくれたのも、嘘だっていうんですか」

 今にも泣きそうに震えた声で、けれど凛と響く声でミーナが尋ねる。その瞳は、まっすぐに魔王を見つめていた。

「私を助けてくれたじゃないですか。あれも、嘘なんですか」

「いいや?」

 楽しそうな魔王の声が、やけにはっきりと響く。

「お前を助けたいと思った。だから助けたんだよ」

「だったら――!」

「お前、半分は魔物だろう?」

 ミーナの言葉は途切れて、薄紫の目が大きく見開かれた。

「どうしてそれを……」

「分かるさ、そのくらい」

 俺たちはミーナ本人から聞いて知っていた事実。それを、そう長い時間を過ごした訳でもないのに見抜かれるなんて。

「つまり、半分は『こちら側』だろう? だから助けてやった、それだけだ」

 言葉にならない声を呑み込んで、ミーナは唇を噛んだ。思わず腕を伸ばして、その手を握る。彼女はこちらを見ずに、けれどきつく手を握り返した。

 魔王を睨み付けたまま、震える声を抑えつけて、ミーナがはっきりと告げた。

「私は、人間です」

 それは、彼女が悩んで悩んで、何度も自分に言い聞かせてきた言葉だ。そんなことは知らないだろう魔王は肩をすくめて、それは残念、と笑った。

「さて、恨み言はそんなものか? 逃げるなら今の内だぞ」

人をからかうような魔王の声。人間なんて少し脅せば逃げ出してしまうと思っているんだろう。そう思えるだけの力が、きっと魔王にはある。それでも。

――答えなんてとっくに決まっている。

「お前に屈したりはしない」

 繋いでいた手をそっと離して、剣を構えた。この圧倒的な力に、もしかしたら勝てないかもしれない。それでも、逃げる訳にはいかなかった。

「結構。それでこそ勇者だ」

 魔王の周りに、魔力が集まり始める。後ろでエレナが詠唱を始めるのと同時に、俺は地面を蹴った。

「行くぞ、魔王!」

 楽しそうに笑う魔王が、右手を掲げた。


  *


 汚れた服を脱ぐのも面倒で、椅子に身体を投げ出した。ついさっきまでは気になっていた血の臭いも、いつの間にか嗅覚が麻痺してしまったらしい。

「……疲れた」

 小さく呟くと、シエニが無言でお茶の入ったカップを机に置いた。礼を言うのすら面倒で、一口飲んで乱暴に机へ戻す。そちらへは目もくれず、口を開いた。

「どうして、と聞かれたよ。だから嘘を吐いた」

 シエニは何も答えない。私も彼女を視界に入れずに、何も無い空間を見ながら言葉を続けた。

「これで、何回目だろうね」

「三十四回目かと」

 三十四。口の中で転がしてみても、その数に現実味を持たせることはできなかった。どうやって殺したか、どんな人間を殺したかすら、記憶が曖昧になってきている。

「あと何回、殺せばいいのだろう」

 その問いに答えられる者などいないことは分かっている。それでも自問せずにはいられない。

「十分すぎる程に圧倒的な力を示した。それなのに何故、人間達は諦めない? 無差別に狩るような真似はしていない、愚王の時代は終わった。なのに私は――いつまで、こんなことを繰り返すんだ」

 用を為さない言葉を紡ぎながら、前代の魔王を思い出す。食事のためですらなく、嗜好として人間を狩る彼はいつでも血の臭いに塗れていた。私はそれが誤りだと信じ、嫌悪感すら抱いていたというのに。

「何が違うんだ、あれと。臭いが分からなくなるほど血に塗れて、倒すべき魔王と恐れられて、私は――」

 そこから先を言葉にはできない。言葉にすれば、こんなことは続けられなくなってしまう。なんて弱い精神なのだろうと、自嘲の笑みすら浮かんできた。

 彼女の方が、シエニの方が私などより余程強い。彼女の方が魔王に向いているとすら思う。けれど彼女が血に塗れてしまう様を想像すれば、自分が血を被った方がいくらかましだと思えるのだ。

「魔王様」

 思考に沈んでいた意識が不意に呼び戻される。のろのろと視線を向けると、普段は無表情の彼女が、珍しく悲しげな表情を浮かべていた。

「辛いのならば、おやめになっても良いのですよ」

 彼女らしからぬ表情で彼女らしからぬ言葉を紡ぐものだから、なかなかその意味が理解できなかった。理解できても、間抜けな表情で間抜けな声を出すのが精一杯だった。

「……シエニ?」

「数多の同胞のために働くのは素晴らしいことだとは思いますが、そのためにあなたが身を、心を削る必要はありません」

 その表情は、いつの間にか普段通りの無表情に戻っている。

「あなたが望むのならば、何者にも害されずに生きていくことはできます」

 そう言って、シエニは目を伏せた。魔王の従者として忠実に仕事をこなしていた彼女が、こんなことを口にするとは。

 魔王であることをやめて、生きていく。きっとそれは簡単なことだろう。傷付くこともなく、傷付けることもなく。だがそれは、果たして生きていると言えるのだろうか? 何の変化も無い日々は、死と大きな違いがあるのだろうか。

「私は……一人きりで生きていく自信は無いな。寂しくて」

 冗談めかして言ってみた言葉。もちろんまともな返答なんて期待していなかったが、

「私でよろしければお供いたしましょう」

 全く予想していなかった言葉。多分、かなり間抜けな顔をしていたと思う。

この子は、私がここを飛び出したらついてくるというのか。冗談か本気かすら判別がつかない。何とか苦笑のようなものを浮かべて、口を開く。

「上司思いの部下を持って幸せだな、私は」

「勿体ないお言葉」

 ここではないどこかで、彼女と過ごす日々。それはあまりにも想像しづらい。そもそもシエニが城以外にいて、仕事以外のことをしている所が想像できないのだ。ついこみ上げてくる笑みを何とか押さえて、椅子を回し彼女へ向き直る。

「そうだね。じゃあ、もし本当に耐えられなくなったらどこかへ逃げてしまおうか。ついてきてくれるかい?」

「無論です。どこへなりとも」

 迷う時間も、考える隙すらなく彼女は答える。圧倒的な力で君臨する魔王ではなく、弱い私自身に忠誠を誓う言葉。それは妙に心地のよい響きを持っていた。

 しかし、少なくとも今の私にそれは必要無い。必要なのは、従順な部下。忠実な従者。私を助ける者ではなく、私の命に従い手足となる者。

「だがそれまでは、私は私の意志を曲げるつもりはないよ。私はここで、戦い続ける」

 立ち上がり、彼女の目を正面から見つめる。金色の瞳は、そこに宿る光までもが揺らがずに、私の言葉を待っている。

 ――それでいい。それでこそ、私はここに在ることができる。王として、全ての魔族を従える者として。彼女に、命を下す者として。

「私と共に戦え、シエニ」

 彼女は薄く笑みを浮かべると、膝をつき頭を垂れた。

「魔王様の御心のままに」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

途切れる道 時雨ハル @sigurehal

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る