番外編「はじめての約束」

1 であい


 きれいな人だ、と思った。

 細い髪は日の光を浴びて蜂蜜のような金に輝き、くるくると計算され尽くしたかのように肩や腰へ落ちる。上目にこちらを伺う瞳は森のような深緑で、長い睫毛にふち取られていた。光の透けるような白い指の先には、飾る必要のない桜色の光を乗せている。

 幾度か連れられた社交界には宝石やドレスで着飾った女性が溢れていた。彼女たちももちろん美しかったが、目の前にいる少女の美しさは種類が違う。

 その違いは何だろうかと思いながら、まだ九歳だった僕は彼女から目が離せないでいた。

「ジル?」

 父が訝しげな声をかける。それが耳に届いてようやく、彼女が得意先の娘だったことを思い出した。あわてて頭を下げる。

「ジルヴェスター・カオフマンといいます」

 名乗って、礼をする。それだけのことなのに、声は上ずっていないか、何か失礼をしているのではないかと頭の中でぐるぐると考え続けていた。そんなことを知る由もない少女は、伯爵に促されてようやく、おずおずと前へ歩み出た。

「フィアス・ファウ・アイゲンズィンです」

 か細い声で告げ、僅かに腰を折るとすぐにまた父親の陰に隠れてしまった。自分の挨拶が悪かったのだろうか、怖い顔をしていただろうかと心配になったが、伯爵は困ったような、嬉しいような笑顔を見せる。

「いや、申し訳ないな。どうも人見知りをするもので」

 娘の頭を撫で、「失礼だぞ」などと言葉の上ではいさめているがその表情には締まりがない。それでも彼女は叱られたと思ったらしく、眉尻を下げて「ごめんなさい」と呟いた。自分が何か失敗した訳ではないらしいことに、ひとまず僕は胸をなで下ろした。


 それが、彼女との初めての出会い。


 *


2 なまえ


「ジルは、なんでお嬢様ってよぶの?」

「え?」

 絵本を閉じた途端に妙な質問をぶつけられた。答えられずにいると、彼女は頬をふくらませる。

「フィアスってよばなきゃやだ」

「……理由をお聞きしてもよろしいでしょうか」

 そんなことをすれば自分が伯爵に殺されかねないだとか、父が卒倒しそうだとか、そもそも呼び捨てにされればあなたは怒るべきだとか、言いたいことはいくらでもあったがひとまずは理由を尋ねると、目の前の少女は不機嫌な表情を崩さずに口を開く。

「お兄様がね、ともだちはお嬢様ってよばないって言ったの」

「……なるほど」

 自分はいつの間に友人と呼べるような関係にまでなったのだろう。浮かんだ疑問を口にすれば彼女の機嫌を損ねる気がして、ひとまずは控えめな反論を返した。

「しかしフィアスお嬢様は伯爵令嬢ですし、僕が呼び捨てにする訳にはいきません」

「なんで?」

 率直に聞き返されて、思わず言葉に詰まる。

「じゃあ、フィーがはくしゃくれいじょうじゃなくなったらフィアスってよんでくれる?」

「そのようなことは起こらないかと……」

 あくまで控えめに否定したつもりなのだが、彼女は泣きそうな表情でうつむいてしまう。そのまま沈黙が続くと、まさか泣き出すのかと内心で冷や汗をかく。かといって伯爵令嬢を呼び捨てにしてはならないことくらいはわかっている。それを彼女が理解してくれるのが最善の方法だが、どう説得しても無駄のような予感もする。僕は半ば混乱した頭で、苦肉の策を提示した。

「では、二人きりの時だけ……というのはどうでしょう」

 彼女は勢いよく顔を上げた。先ほどまであったはずの泣き出しそうな気配は、どこかへかき消えてしまっている。その様子に、僕は安堵のため息をつこうとして、

「やったー!」

 勢いよく抱きついてきた彼女に、鼻と口を塞がれた。


 *


3-1 はじめてのやくそく


「お兄様はね、学校で一番頭がいいのよ!」

「ヘクト様ですか。確か、カーリベルク校に通っていらっしゃるんですよね」

「そうなの。そこでね、この間の試験で二年生の一番だったんだって!」

 自慢のお兄様なのよ、とフィアスが笑う。自分以外の人間が彼女を喜ばせているという事実にすら嫉妬していることに気づいて、僕は心中でため息をついた。彼女に恋心を抱いたこと自体は後悔していないが、ここまで露骨な感情を持ってしまうと自己嫌悪の一つもしたくなる。全く気づかれていないのが不幸中の幸いだろうか。

「さすがはアイゲンズィン家の跡継ぎとなる方ですね」

「もう、すぐそういうこと言うんだから」

 ありきたりな賛辞を口にすると、フィアスは頬をふくらませた。

「アイゲンズィンだから頭がいいんじゃないのよ。お兄様はお兄様だから頭がいいの」

「……そうですね、ヘクト様ご自身が努力しているからこそ良い成績を収めていらっしゃる」

「わかればいいのよ」

 自慢げなフィアスに思わず苦笑を浮かべた。そこらの貴族連中がこの会話を聞いても子供の戯れ言だと流されるだけだろう。伯爵令嬢らしからぬ言動は、彼女が伯爵家に生まれた娘としてでなく、フィアス個人として愛された結果だろうか。

「みーんなお兄様のことを話すときは『アイゲンズィン家の』とか『伯爵家の』とか付けるんだもの。まるでヘクトお兄様じゃない人の話みたい」

「まあ、ある程度は仕方のないことでしょうね」

「もういやになっちゃう。私だって、アイゲンズィン伯爵家令嬢なんてものじゃなければもっと堂々とジルに会えるのに」

 思いがけない言葉。僕は一瞬動きを止めて、それから何とか苦笑を作った。何の他意もない彼女の言葉に、意味がないと分かっている期待を抱いて口を開く。

「そうですね。あるいは、僕が伯爵家の長男だとか」

「そうよね……」

 何かを考え込むそぶりを見せてから、フィアスはいかにも名案を思いついたと手を打った。

「じゃあジルがうちに来たらいいのよ!」

「……は?」

「うちに来たら伯爵家の子供になるじゃない?」

 フィアスがどういう意味で言ったか全く予想できないが、場合によってはプロポーズにも聞こえかねない台詞だ。そういった意味合いは全くないと確信している上で、そっと異論を述べてみた。

「そういうのは、一般に婿養子といいますよね」

「そうなの?」

「少なくとも僕にはそう聞こえました」

 何故かフィアスはまた何かを考え込む。話が予想外の方向に進み始めているが、どうしたらそれが止まってくれるのか考えもつかない。

「婿養子ならジルと毎日遊べるけど……お父様がだめっていうかしら」

「フィアス」

 思わず声をかけると、フィアスは顔を上げてこちらへ視線を向ける。自分が検討していた事項に対する疑問は全く無いらしい。

「とりあえず婿養子は諦めてください」

 もっとも重要なことから告げると、フィアスは唇を尖らせる。

「でも、そうしたらジルともっと遊べるのに」

 彼女にとって僕はあくまで遊び相手でしかないらしい。今のところ恋愛感情になりえないであろうことは残念としか言いようがないが、会いたいと言われて悪い気がしないのも事実だ。

「今のままでは不満ですか?」

「不満よ」

 初めて会った日から言葉遣いや動作は大人のものになりつつあるが、思考はまだまだ子供のままだ。そっと手を伸ばして、彼女の兄や父がするように髪を撫でてみる。フィアスは僅かな間だけ目を丸くして、それから心地よさそうに目を閉じてそれを受け入れた。

 子供だましでしか彼女を喜ばせられないのでは意味がない、と思う。けれど他に彼女を喜ばせる術も持っていないのは事実だ。

「ではいつか、あなたが好きなだけ僕のところへ来られるようにしましょう」

「ほんとう?」

「ええ」

「いつまで?」

 わざと曖昧にしていた時期を問われて、一瞬言葉に詰まる。百年以内、と返したらさすがに怒るだろうか、と思うだけで口には出さない。

「では、あなたが成人するまでには」

 それまでには忘れているか、この言葉が到底叶わないものだと気付いているだろう。そう考えた上での返事に、フィアスは不機嫌な表情を返した。

「そんなに待てない。あと七年もあるじゃない」

「……では、僕が成人する頃には」

 フィアスは少し考えて、「仕方ないわね」と頷いてみせる。思わず苦笑すると、フィアスが細い小指を差し出した。

「やくそく」

「はい」

 果たせない約束のために小指を絡めて、すぐに離した。


 *


4-1 今日の約束


 昔交わした約束を忘れていたわけではない。婚約した時にも思い出してはいたし、偶然にも約束を果たすことになったのだとは思っていた。けれどそれは自分だけのことで、彼女はとうの昔に忘れてしまったと思っていたのに。

「……という夢を見たわ」

「そうですか」

 何故今になって、しかも夢に見るという形で思い出すのだろうか。いや、思い出すこと自体に問題はない。当時の僕が予想していなかったとはいえ、数ヶ月遅れになっても約束は果たしたという形になったはずだ。問題は、目の前にいる少女が僕の服をがっしりと掴み、いかにも不機嫌そうな顔をしていることにある。ついでに言えば、そろそろ朝食が始まるはずだった時刻から一時間が経過しようとしているのに、着替えはおろかベッドから出てすらいない。

「もしかして、怒っていますか?」

「怒っていないわ」

 訪ねてみると、即座に答えが返ってきた。その早さに違和感を感じなくもないが、彼女が怒っていないというのだから怒ってはいないのだろう。

「なら眉間にしわを作らないでください」

「ジルが悪いのよ」

「……申し訳ありません」

 悪いことをしたというから謝ってみれば、彼女はますます不機嫌な顔になる。

「そういうことじゃないのよ」

 表情は変わらないまま押し黙る。こうなってしまうと彼女が話し始めるのを待つ他に手はない。そっと髪を撫でると、彼女は自信のなさそうな声で呟いた。

「ただ……ジルは、私のことが、もしかして」

 言葉を途中で途切れさせて、また沈黙してしまう。

「好きでしたよ、あの頃から」

 言葉を引き継ぐと、フィアスは弾かれたように顔を上げた。困ったような表情で僕を見つめる。

「ずっと好きでした。あなたには悟られないようにしていましたが」

 僕の服を掴む手に力がこもる。

「どうして……だって、私、わがままばかり言っていたわ」

「理由が必要ですか?」

 尋ねてみると、彼女は迷ってからこくりと頷く。寝起きでも絡まることのない髪が、指から逃げてさらりと落ちた。

「あなたがあなただからですよ、フィアス」

 額に口付けると、彼女は大きな瞳を丸くして、僕を凝視した。言葉のせいか行動のせいか、頬がみるみる赤く染まる。そういう顔がたまらなく可愛いのだと、彼女はいつになったら気付くのだろう。

「ジル……」

 空気を求めるかのように開かれた唇に、そっと唇を押し当てた。

「な、ん」

 すぐに離れた後も、彼女は頬を真っ赤にさせたまま口をぱくぱく開閉している。可愛いなあと微笑んだら、

「じ、ジルの変態!」

 頬を殴られた。

「……すみません、つい」

「馬鹿! 変態! ばか、ばか!」

 ぺしぺしと肩や胸を叩かれる。ひとまずは叩かれるままにしておいて、彼女に気付かれないようにため息をついた。キスが駄目なら、同じベッドで寝ないで欲しい。あまつさえ、起きてからずっとしがみつくなんて。

「すみません。もうしないように気をつけるので」

 断言できない言い回しが不満のようで、フィアスは上目に僕を睨む。それから小指を差し出した。

「約束しなさい」

「できません」

 断言すると、彼女は目を丸くした。子供に餌を投げつけられた鳥のようで、これはこれで可愛くはある。

「果たせない約束はしないことにしました」

「は、果たせないって……」

 小指を差し出したままでフィアスは固まっている。まさかその言葉の意味まで説明が必要だろうか。それはさすがに僕が恥ずかしいのだけれど。

 やり場のなくなってしまったらしい指に、自分のものを絡めてみる。

「では、次からはあなたの許可を取りますよ」

「えっ?」

 素っ頓狂な声を上げて、フィアスは絡まった小指を見つめる。指を離して、彼女の髪を優しく撫でた。

「フィアス」

 名前を呼ぶと、顔を真っ赤にさせて僕を見返す。僕が次の言葉を紡ぐまでの時間が、彼女にはきっと途方もなく長いのだろう。

 髪を撫でていた手を、頬へと移動させる。耳元へ唇を近付けて、全身を緊張させる彼女へ、そっと囁きかけた。

「――そろそろ起きましょうか」

 朝食の時間ですよ、と。ようやく起き上がって、呆然としている彼女を置いてベッドから降りる。

「今頃、料理長が途方に暮れていますよ。早く食堂へ」

 振り向いた顔に、勢いよく枕が飛んできた。

「ジルの馬鹿!」

 ちょうど振り向こうとして不安定な体勢を取っていたこともあって、よろけて見事に倒れてしまう。痛々しい音に、フィアスの悲鳴が重なった。

 まあ、これはこれで愛しい日常の一場面なのだけれど。

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誕生日の約束 時雨ハル @sigurehal

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