私のやりたいこと

 家の、玄関の扉の前に立つ。息を吸って、吐いて、鼓動を落ち着かせてから扉を叩いた。少しの間があって、扉が開く。

「いらっしゃい、クレス」

「お久しぶりです。ごめんなさい、しばらく来れなくて」

「気にしなくていいよ。色々忙しいでしょ?」

 出迎えたライアさんは今まで通りの笑顔に見えるけど、少し元気がないような気もする。家に上がって玄関の戸を閉めると、ライアさんは小さく息を吐いた。

「あのさ、クレス」

「はい」

 彼は居心地悪そうに視線を逸らし、ためらいがちに口を開く。

「その、話があるんだ。大事な」

「大事なお話……ですか」

 つい一週間前に司長様から大事な話をされたばかりなのに、今度は何の話だろう。悪い話でなければいい、と思いながら「お聞きします」と返す。

「えーっと、とりあえず座ろっか」

 やけに慌てながら、ライアさんは「どうぞ」と椅子を指し示す。その椅子に座ると、彼は机を挟んだ向かい側の椅子に腰掛けた。手で髪を乱してみたり、あちこちに視線を移してみたり、ライアさんは分かりやすいくらいに落ち着いていない。私が無言で待っていると、ようやく決心が付いたのか机の上で指を組み、真っ直ぐに私を見た。

「俺、さ。ここを出ることになるかもしれないんだ」

 ――どうして、こんなに急な話が続くのだろう。

「西の方の、結構遠いところに街があるんだ。リウって街なんだけど、そこは魔法使いが多いところでさ、それで、その街で一緒に働かないかって誘われてて」

 彼にとっては、魔法使いの多い街の方がこの街よりずっと暮らしやすいだろう。しかも既に仕事が用意されているというなら、ライアさんにとってはこの上ない誘いだ。断る理由なんて無いって、私にも分かる。

 喜ばしいことだって、分かっているのに。

「遠いところってことは、お引っ越しされるんですか」

 悲しいと感じてしまう心を抑えて尋ねる。ライアさんは当然のように頷いた。

「ここから通うのは無理だから。それでね、クレス」

 彼の手が、私の手の上に乗せられた。いつの間にか耳まで真っ赤にしているのを見ると、私まで恥ずかしくなってしまう。

「な、何ですか?」

 尋ねてみても答えはない。もう一度声をかけてみようかと思い始めた頃、ようやく彼は顔を上げた。

「俺と一緒に暮らさないか?」

 ライアさんの瞳に見惚れてしまったのがほんの少しの間。綺麗だな、と思ってしまって、彼の言葉を理解するまでにはもう少し時間がかかった。だって、一緒に暮らす、って。

「リウに行くことになったら、家を借りるつもりなんだ。もちろん本も持ってくからいつでも読めるし、俺も教えられるし」

 私の手を握る手に力がこもる。ライアさんは真っ赤な顔で「だから」と続けた。

「俺、クレスのこと好きなんだ。だから、一緒に来て欲しい」

 はい、と。ついていきます、と言えばいいはずなのに。何故か私は返事ができなかった。不満なんて無いはずなのに、どうして答えられないのだろう。

「ごめんなさい、私、あんまりいきなりだから……どうしたらいいか分からなくて」

 とりあえずの答を絞り出す。ライアさんは首を傾げようとして、その前に慌てて手を離した。

「あー、そう、だよね。引っ越すとか、急すぎるよね。ごめん」

「いえ、すみません、私の方こそ、色々あって、何から考えたらいいのか分からなくて」

 椅子の背もたれに体重を預けて、ライアさんは首を傾げた。

「何かあったの?」

「何か、というほどでも……」

 私の問題は私が考えるべきで、彼に話すようなことじゃない。でも、初めてこの家へ来たときのように、少し話すくらいは良いだろうか。悩むより先に口が動いて、衝動に負けてしまう。

「実は、私もお誘いを受けているんです」

 ライアさんは何も言わず、私を真っ直ぐに見ている。何となく目を合わせづらくなって、私は顔を伏せた。

「カイスという街に教会があって、ご夫婦で管理しているそうです。ご夫婦には息子さんがいて、後継ぎであるその方の妻に……と」

「ふうん?」

 でも、と続けようとした言葉は、ライアさんの相槌で遮られた。顔を上げると、彼はテーブルに肘をついてこちらを見ている。

「まあ、教会の後継ぎなら良い嫁ぎ先かもね」

 言葉の端には、隠しきれない感情が滲んでいる。馬鹿なことをしたと、彼を傷付けたと今さら気付いた。

 もっと違う言い方をすればよかったのに。これじゃあ、これじゃまるで、ライアさんと教会の後継ぎと、どちらと結婚するか迷っているみたいだ。

「ち、違います。ごめんなさい、ライアさん。私……」

 焦りばかりが募って、上手く言葉にならない。謝らなければ、説明しなければいけないのに。

「謝らなくていいよ。仕方ないことだし」

「そうじゃなくて、違います。私、そんなつもりで言ったんじゃなくて」

「じゃあ何だっていうの?」

 少しだけ棘のある言葉。正面から見据えるその瞳は、私から言葉を奪うには十分すぎる力があった。

鋭い視線はすぐに傷付いたような表情へ代わり、ライアさんは目を逸らす。悪いのは私の方だと分かっているのに、意志に反して涙が滲む。開いた口からは引きつったような嗚咽しか漏れなかった。思わず顔を伏せると、ライアさんが席を立つ音が耳に届いた。足音が近付いて、彼は私の隣に立った。

「ごめん、クレス。酷いこと言った」

 温かな指が私の涙を拭う。何度も首を横に振って、言葉を絞り出した。

「ちが、います。私が、悪くて、なのに……」

「クレスは悪くないよ」

 違うのに、そんな顔はして欲しくないのに。ライアさんは優しく頭を撫でてくれて、その笑顔は無理をして作ったものだと分かっているのに、あとからあとから涙がこぼれて、何も言葉にできなかった。

 こんな、何も言えない私なんて、大嫌いだ。


 *


 逃げるようにライアさんの家を後にして教会へ戻った後、何もしたくなくて部屋の寝台に腰掛けていた。扉を叩く音がしてもすぐに返事をする気にはならず、ただ扉を見つめてみる。

「クレス、入るよー」

 呑気な声と共に、ノモが部屋へ入ってくる。

「食べられるか分かんないけど、夕ご飯持ってきたよ。まだ調子悪い?」

 ノモは夕食の乗ったお盆を寝台脇の机に置いて、いつものように私の顔を覗き込む。

「ありがとう。ごめんね」

「いいっていいって」

 明るく笑った後も、ノモは私の顔を見つめている。何だろう、と思うより先に、ノモの手が私の頬の、目に近い所に触れた。ひんやりと冷たい指はすぐに離れる。

「な、何?」

 思わず後ずさりすると、少し考えてからノモが口を開く。

「クレスさ、具合悪いとかじゃなくて、何か嫌なことあった?」

「そんな風に見える?」

 尋ね返してみると、ノモは控えめに頷いた。

「なんかね、泣いた後みたいに見える」

 鋭いノモの言葉にどきりとさせられる。一応顔は洗ったけれど、分かってしまうものなのだろうか。

「別に泣いてはいないけど。もしかして熱があるのかな」

 笑顔で返してみても、ノモはまだ納得のいかない表情で私を見ている。

「もしかして、この間の司長様のお話のせい?」

 何の話だったの、とノモは重ねて問う。間接的な原因ではあるけど、全てを話してしまうのもためらわれて、当たり障りのない話題だけ口にした。

「そういうわけじゃないけど……そういえば、この教会から大学に行った人がいるんだってね」

「あ、うん。それ、私のお姉ちゃんだよ」

「え?」

 ノモの表情を見る限り、嘘や冗談を言っている訳ではないらしい。

「そうだったの?」

 思わず確認すると、ノモは頷いてからにやりと笑った。

「クレス、大学に行きたいんだー」

「そういうわけじゃないけど、でも、少し興味はあるよ」

 当たり障りのない答を返すと、ノモは「うんうん」と頷いた。

「やっぱり。クレスは勉強好きだもんね」

 そうだね、と頷くとノモは私の隣に腰を下ろした。

「お姉ちゃんはね、大学に行くって決める前はすごく苦しそうだったよ。聖典を読むんじゃなくて、研究するってことは教えに反することかもしれないって悩んだりもしてたし。でもね」

 もうノモは私を見ていない。真っ直ぐ前を見て、芯の通った声で続きを語る。その表情からは子供っぽさが消えている。

「悩んで悩んで、それでもお姉ちゃんは大学に行くって決めたの。私はそうしないと生きてられないって。諦めちゃったら、いつか私じゃなくなっちゃうって」

 言い過ぎだよね、と笑うノモの顔は、いつもの明るい表情に戻っていた。

「でも今はすっごく楽しそうだよ。もうさ、本当に同じ本の話なのかってくらいマニアックなの」

 ノモは寝台から立ち上がって振り返る。

「だからね、私も、自分の一番やりたいことをよーく考えて、将来の私が一番満足するように生きたいって思ってるんだ」

 私と同じ年齢のはずのノモが、やけに大人びて見えた。悩んでいる私が愚かしく見えるくらい、彼女は真っ直ぐだ。

「ノモは、すごいね」

 思ったままを口にすると、ノモは途端に子供のような表情に戻り、首を振った。

「そんなことないよ。やりたいこととか全然見つかってないし」

「でも、そんな風に考えられるのはすごいと思うよ」

「そうかなあ……」

 ノモは納得しきれない表情で考え込んでから、何かに気付いたように私の顔を覗き込む。

「クレス、ちょっと元気になった?」

 言われて初めて、気持ちが軽くなっていることに気付く。

「うん、そうかも」

「よかったー」

「ありがとね、ノモ」

「どうってことないよ」

 ようやく寝台から立ち上がり、乱れていた髪を整える。

 私は何を悩んでいたんだろう。やりたいことなんて、とっくに決まっているのに。誰の傍にいたいかなんて、とっくに分かっていたのに。 

「あのね、ノモ」

「なに?」

「ちょっと出かけるから、上手く誤魔化しておいてくれる?」

「へっ?」

 ノモは目を丸くして、それから何度か瞬きした。

「行く、って、もうすぐ消灯だよ。どこ行くの?」

 何て答えようか、と少しだけ考えて、だいじなひとのところ、と囁いてみる。ノモは訳がわからないという顔のままだけど、それ以上説明はしなかった。

「じゃあ、よろしくね」

「が、頑張ってみるけど、ばれちゃったらごめんね」

「うん」

 そして私は、日が沈んだ森の中へ駆け出した。

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