後編
誰もいない講堂で、彼は一人で机に腰掛けていた。
「泣いてるの?」
顔を上げたサイルの頬には涙が伝っている。ハンカチを差し出すと、彼は「ありがとう」と微笑んだ。
「ミアは、部屋に戻ってないの?」
「一人にしてって追い出されたわ」
「そっか」
ハンカチで涙を拭いながら、ごめん、と彼は呟く。謝られるような覚えはなかったから、別に、とだけ返しておいた。
「どうしてあなたが泣くの」
尋ねてみると、サイルはまた謝罪の言葉を口にする。
「ごめん」
「責めてる訳じゃないわ」
サイルは困り顔で私を見て、少ししてから口を開く。
「顔を合わせても、もう普通に話せないのかなって思ってさ」
淡々と答える言葉はもっと深い理由があるようにも聞こえたけれど、わざわざ尋ねる気もしなかった。
「なら、恋人になればよかったじゃない」
どうせ半年かそこらのことでしょう、と付け足すと彼は苦笑して首を振った。
「さすがにできないよ。ミアに失礼だし」
半ば予想していた答えに「そう」とだけ返す。
「それに、ミアにはネイシャがいるし」
思わず眉をしかめる。サイルは「洗って返すね」とハンカチをしまって、ついでのように言葉を続けた。
「ネイシャが支えになってるから、俺が恋人にならなくても平気だと思う」
「あなたが決めることじゃないわ」
「まったくだ」
ごめん、とまた謝る。謝って欲しい訳じゃない、と思いながら言葉にはしなかった。何を言っても結局は謝られそうで、小さく溜め息をつく。
「そろそろ戻るわ」
「ああ、うん」
ハンカチありがとう、と言うサイルに背を向ける。歩き出す前に、後ろから声がかけられた。
「あ、ネイシャ」
「何?」
振り返ると、彼は感情の読めない瞳で私を見つめていた。
「人を殺すのって、怖い?」
唐突な質問。そういえばミアもそんなことを言っていたな、と思い出す。確かその時は、そんなことを考えるだけ無駄だと言ったはずだ。
怖くない、と答えようとして、少しだけ言葉を付け足す。
「怖くないと、思うようにしてる」
微笑んだ彼の顔には、安堵も浮かんでいるように見えた。
*
砦の外では兵士達が斬り合っている。ネイシャと俺は少し距離を置いて、砦を囲む石壁の上からそれを見下ろしていた。無言で彼らを殺すための力を組み上げていく。ネイシャは力を組み上げるのが早くて、しかも綺麗だ。少し羨ましく思いながら、俺も急いで、けれど慎重に細部まで整える。
俺達に気付いたらしい兵士が弓をつがえた。その矢先は俺に向いている。ネイシャがちらりとこちらを見て、目を丸くした。
「何を……」
彼女が言い終わるより早く、力を地面に向けて放った。殺すための力ではなく、気絶させるだけの力を。
派手に土埃が舞い上がる。けれど石壁の上から見ている限り、死人は出てなさそうだ。吹き飛ばされて怪我をした人はいくらかいそうだけど、そこは誤差の範囲ということにしておこう。
「……サイル?」
訝しげなネイシャの声。俺は微笑んで、その声に応えた。
「大丈夫だよ、バゼル少佐は砦の中に引っ込んでるし」
「そうじゃないわ」
彼女は首を振って、また俺を見る。
「何故、こんなことをしたの?」
真っ直ぐに声が響く。答は多分、ネイシャも分かっているだろう。ただ分からないふりをしているだけだ。
「殺したくないから」
「馬鹿なこと言わないで」
冷たい漆黒の瞳が俺を見据えた。
「死ぬわよ」
その言葉には、微笑みで答えた。ネイシャはまた首を振ると、気絶した人間ばかりが転がる地面に目をやる。
「馬鹿ね」
卑下か、憐憫か、はっきりしない感情が言葉に滲んでいた。
「そうかも」
適当に頷いておく。ネイシャがまた力を組み立てた。相変わらず綺麗な、殺すための力だ。剣で死ぬよりこういうので死ぬ方が幸せだろうな、とどうしようもないことを考えてみる。
そんなことを考えていたせいだろうか。気絶していたはずの兵士が起き上がり再び弓をつがえたことに、俺は撃たれるその時まで気付かなかった。
*
矢が、彼の身体を貫いた。
「サイル!」
崩れ落ちる彼に駆け寄る。抱き上げようとした時には既に血溜まりができ始めていた。彼は私を見て、不格好な笑みを浮かべる。
「……うたれた」
「何言って――」
言葉の半ばで、いきなり頭を引き寄せられる。そのすぐ上を矢が通った。
――邪魔だ。
一瞬、思考が黒く染まる。形になりきっていない力を、感情だけで下へ叩き付けた。爆風がここまで届いたけれど、それを気にしている暇も余裕もなかった。上着を脱いで、彼の傷口へ押し当てる。矢は脇腹に刺さって、彼が倒れた時に外れたようだ。押し当てた上着はどんどん血に染まっていく。
きっと、助からない。
思わず唇を噛む。サイルが微かに呻いて身じろぎした。
「い……たい」
「当たり前でしょ、矢が刺さったんだから」
強がる自分の声が震えていた。恐怖しているのだろうか、彼が死ぬことに。
人の死だ、今まで数え切れないほど見てきたはずの。あれだけ殺してきて何の感慨も持たなかったくせに、今さら何を怖がるというのだろう。
「ネイ、シャ」
掠れた声が私を呼ぶ。
「何?」
「ころして」
すぐには、言葉を返せなかった。何も考えられなくなって、サイルの顔をまじまじと見てしまう。
「な、に?」
深緑の瞳が真っ直ぐに私を捉えた。彼は小さく息を吸う。手が、痛いくらいの力で私の腕を掴んだ。
「痛い、から。殺して」
その言葉で理解できないほど馬鹿だったら、むしろ楽だったかもしれない。だけど、このまま苦しむより今すぐに死んだ方が楽なのだと、私にはそれをできる力があるのだと、分かっている。躊躇する理由なんて無いはずだ
「……いや」
囁くようにこぼれた言葉は、まるで子供のわがままだった。伸ばされた彼の手が、頬に触れる。ひやりと、死人のような冷たさが頬を撫でた。
「俺も、そう、言ったよ」
「……え?」
「ミアを、殺した、ときに」
うそ、と気付けば呟いていた。どんな場面であれ、彼が友人を殺すなんて想像が付かない。
「殺して、って、苦しんでたから」
頬に触れていた手が髪を掴む。するりと離して、彼の手は硬い石の上に落ちた。
「そしたら、ミアが、さ」
一度言葉を切って、息を吸う。
「私を殺したら、サイルくんは、私のこと、ずっと、思い出すね、って」
傷口を押さえる手に、力がこもる。馬鹿な子だ、と声には出さずに呟いた。
サイルは長く息を吐いて、それから少し笑った。
「何か、あんま、痛くなくなった。そろそろ、死ぬ、かな?」
「……そうかもね」
それが強がりで、私への優しさだと分かったから、私もいびつな笑みを浮かべてみせる。力を、細く、強く、繊細に組み立てていく。少しも隙の無いように、彼の身体を壊しすぎないように。
「綺麗だ」
ぽつりと、消え入りそうな声で彼が呟いた。
「ありがとう」
手を、そっと彼の胸に乗せる。目を閉じて、息を吐く。
力が、サイルの身体を貫いた。
兵器の記憶 時雨ハル @sigurehal
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