後編

 祐人が発した言葉の意味を理解するのにたっぷり十秒はかかった。

「ごめん、何か化学に頭か耳をやられたみたい。もう一回言ってくれる?」

「次の問題が一人で解けたら、ご褒美にキスしてあげる」

 どうやら聞き間違いじゃなかったらしい。祐人はいつも通りの呑気な無表情で、とても乱心しているようには見えない。

「何だろう……耳から脳に行く途中の神経とかがおかしくなったのかな。キスがご褒美だって聞こえた」

「そう言ったよ」

「いや、え、言ったの? 何それ?」

 何だ、何事だ。どうしよう。いくら何でもそれは心臓に悪いよ。寿命縮むよ。

「大丈夫、どうせ解けないから」

「あ?」

 一気に頭が冷める。何だ、今の聞き捨てならない台詞は。

「俺は一言もヒントあげないけど、教科書見ていいよ」

 それでも解けないだろうね、と言われた気がした。ここまで馬鹿にされて引き下がるなんてことがあるだろうか、いやない。解いてやろうじゃないか、このにわか教師め。

「ちなみに去年の俺でもこれは解けたと思う」

「祐人に解けるなら、私にも解ける」

 我ながら無謀な宣言をして、ワークと向かい合う。問い六、次の化学反応式を作りなさい、カッコ一。

「りゅうさんさんせいのかまんがんさんかりうむに……」

 あれ、さっきと全然違う種類の問題のような。

「その問題は酸化数とか使わないから、さっきまでやってたことはあまり役に立たないよ」

「え?」

 だ、騙された。いや、嘘は一つもつかれてないけど、でも。

「解けないよってちゃんと言ったよ」

「言った、けど」

 これじゃ絶望的じゃないか。

「教えようか?」

「……解く」

「頑張って」

 応援されてるのかいじめられてるのかよく分からないけど、とにかくワークと向かい合う。大丈夫、問題は日本語だから理解できるはず。理解できれば解ける、多分。化学反応式を作りなさい、という言葉の意味は分かるけど作り方が分からない。ええい、困ったときの教科書頼みだ。

「えーと、酸化還元……あった」

 ぺらぺらめくって、今やっている問題の単元を見つける。元素記号が並んでいるのを見るだけで頭が痛くなりそうだけど、そうも言っていられない。文字を目で追っていく。大丈夫、まだ理解できる範囲だ。さらに進んでいくと、今やっているのと同じような例題があった。

「お?」

 同じような、というかほぼ同じだ。解き方も詳しく書いてある。いいのか、これ。ちらりを祐人を見る。私の漫画を勝手に読んでいた。まあいいけどさ。私の視線に気付いて祐人は顔を上げる。

「解けそう?」

 簡単に解けそうだけど、いいのかな。いいか、馬鹿にされたし、解いてしまえ。悪いのは教科書を見ていいなんて言った祐人だ。

「も、もう少しで解ける、かも」

 私の言葉に祐人は驚いたようだったけど、「それはよかった」とだけ言って視線を漫画に戻した。私は前に向き直り、教科書とワークを見比べながら問題を解き進めていく。祐人め、私を馬鹿にしたことを後悔するがいい。そして悔しがる奴の目の前でババロアを食べてやる。

 そこまで考えて私は、重大なことを忘れていたことに気付いた。シャーペンを持つ手が止まる。

 ――ご褒美にキス、とか言ってなかったっけ?

 もしかして、解いても解かなくてもよろしくない結果が待っているのではないだろうか。解くと解かないの間を取ればいいのか。理解はできてるのにちょっとミスしちゃった、とか?

「ほんとにできてるね」

 いきなり祐人に手元を覗き込まれて、反射的に教科書を閉じる。

「あとは数を合わせるだけだね」

「う、うん」

 私が返事をしても祐人は離れようとしない。どうしようもないので、仕方なく問題を解いていく。どうしよう、どうしようもないけどどうしよう。キスは嬉しいけど、いや嬉しいとかそういう問題じゃない。なんでこんなことになってるんだよ。どう考えてもおかしい。祐人の馬鹿。

 そんなことを考えている間にも正解へ近付いていく。二と書くべきところに三と書いてみたら不思議そうな顔をされたので、うっかり直してしまった。

「でき、た」

「おお、すごい」

 祐人は拍手して、頭を優しく撫でてくれる。だから子供か、私は。

「本当にできるとは思わなかったよ」

 けなされてる気もするけど、そんなことを気にしてる場合じゃない。とにかくこの場を何とか切り抜けなければ。

「じゃ、じゃあババロア食べよっか!」

「だからまだ二時だってば」

 あっという間に却下された。不自然に横を向いていた私の眼に祐人の顔が見えて、しまった、と思ったときには手遅れだった。

 キスされた。唇、に。一瞬だったけど、触れた唇の熱が残っている。

 ファーストキスの味はレモンとか苺とかよく言うけど味はしなかったな、なんてどうでもいいことを考える。頭はぼうっとしてるのに、心臓は今にも破裂しそうだ。

「大丈夫?」

「だめ、かも」

 反射的に返事をして、祐人を見上げる。細い指が、ひやりと頬を撫でた。

「嫌だった?」

そう尋ねる表情が寂しそうで、私は何度か首を横に振った。

「嫌じゃない、けど」

 なんて言えばいいのか分からない。相変わらず心臓はうるさくて、上手く考えがまとまらない。どうすればいいのか分からなくて、ただ祐人を見上げる。

「ごめんね、変なことして」

 祐人は困ったような、寂しそうな表情で私の髪を少し撫でて、すぐに離れていく。それだけのことに、妙に不安を煽られる。

「へ、変なことじゃない、と思う」

 私の言葉に、祐人は眼を瞠る。

「変かもしれないけど、でも嫌じゃなかったし、だから……」

 頭が働かなくて、ちゃんと文章が作れなくて、でも何も言わなかったら祐人がずっと離れたままのような気がして、とにかく言葉を続ける。

「こ、恋人がすることだからやっぱり変かもしれない、けど、むしろしたいっていうか、だから、恋人になりたいから、やっぱり変じゃなくて、ええと、」

 思いつく言葉を次から次へと口にする。あれ、今、うっかり告白しなかったか?

「わ、私いま何て言った?」

 私を見つめたまま固まっていた祐人は、ゆっくりと口を開く。

「恋人に、なりたい?」

「うああ!」

 うっかりしてた、どう考えてもうっかりしてた! 何を口走ってるんだ私は。もう少し言いようというか、ムードというか文脈というかそういうものが足りないよ!

「ち、違う今のなし! 間違えた!」

「なし、と言われても聞いちゃったし」

 祐人は相変わらずの無表情で冷静に突っ込んでくる。お願いだからもう少しリアクションしてくれ。いや、あんまり反応されても困るけど、でも。

「聞かなかったことにして……」

 思わず頭を抱える。祐人は首を傾げて、少し考えてから頷いた。

「分かった。聞かなかったことにしとく」

「だ、大丈夫?」

 何が大丈夫なんだろう、と自分に突っ込みたくなる。

「大丈夫だよ」

 祐人の手が、私の手をとる。

「え。え、何?」

 耳に、祐人の唇が近付く。息がくすぐったくて、思わず目を閉じた。視界が塞がって、音だけの世界に響く声。

「好きだよ、秋奈」

 耳元で言われなければ聞き取れないような、小さな声。だけどその言葉はしっかり届いて、私は開いた目を何度も瞬かせた。

「ゆう、と?」

 祐人の表情を見ようとして振り向く前に、背中に手が回って、抱きしめられる。耳元でまた、彼の声が囁く。

「聞かせて」

 何を、なんて問うほど馬鹿じゃない。言うべき言葉は分かっていたけど、喉が上手く動かない。

「は、恥ずかしくて、無理」

 おそるおそる手を伸ばして、祐人の身体を抱き返す。

「やだ。聞きたい」

 子供のような祐人の声。既に恥ずかしくて死にそうなのに、これ以上は無理な気がする。そう考えてるのに、言いたい、と頭のどこかで思っている。もうちょっとで言えそうなのに、そのもうちょっとが難しい。うう、恥ずかしい。

「秋奈、言って?」

 祐人の服を強く握る。口を開いて、一度閉じて、また開く。

「――好き」

 強く強く、抱きしめられる。たった二文字の、こんな簡単な言葉を口にすることがどうしてこんなに難しいんだろう。

「は、恥ずかしいから、そろそろ離れて」

「ん」

 ようやく離れた祐人の顔は少し赤くなっている。

「祐人、顔赤いよ」

「秋奈だって」

 頬をぺちぺち叩いて、少しだけ笑い合う。

「ね、祐人」

「なに?」

「やり直し」

 祐人は何度か瞬きして、それから微笑んだ。細い指が頬に触れる。私は上を向いて、目を閉じる。

 さっきより少しだけ長く、私たちは唇を触れ合わせた。

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恋のごほうび 時雨ハル @sigurehal

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