恋のごほうび

時雨ハル

前編

 自慢じゃないけど、頭は良い方だと思う。これでも県内で有数の進学校に通っているし、模試や定期テストじゃ学年で三十位以内をキープしている。化学と数学は嫌いだけど、赤点を取るほどじゃない。そして今回の模試では、学年十七位。どう見ても自慢できる順位なのに。

「俺は十一位だったけど」

「二年と一緒にしないでよ!」

 ご近所さんであり、一つ年上の赤穂祐人に順位でも、偏差値でも勝てた試しがない。

「もー、なんで私が調子いいときに限ってそんな順位なのよ!」

「いい点取ったのに怒られてもなあ」

 祐人は困り顔でクッキーをつまんでいる。ちなみに私はこの困り顔をしながら全く困ってなさそうな男に絶賛片思い中だ。

「いいじゃん別に。すごいよ秋奈、十七位でしょ」

「十一位に褒められても嬉しくない!」

「とりあえず上がったら? クッキーあるよ」

 なんだか釈然としないまま、クッキーの匂いにつられて靴を脱ぐ。

「お邪魔します……」

「どうぞ」

 何となく悔しい。祐人に負けたんじゃない。祐人のお母さんが焼いたクッキーに負けたんだ、多分。お皿を覗き込んでみると、クッキーが山盛りになっている。

「一、二、三……五種類も」

「ココアとジンジャーマンとスノーボールと紅茶とラングドシャだよ」

「あー、うん」

 美味しければ何でもいい、という言葉をそっと飲み込んでクッキーに手を伸ばす。

「食べきれないからいくらか持ってってくれる?」

「お安い御用」

 うん、美味しい。きっと今日は祐人の順位を聞きに来たんじゃなくて、この美味しいクッキーを食べに来たんだろうな。きっとそうだ。そういうことにしておこう。

「はい、これ」

 祐人は紙袋を私に差し出す。音速で詰めた訳ではなく、既に用意してあったらしい。

「ありがと」

「紅茶淹れるから少し食べてって。俺もう限界」

 袋はずっしりと重く、大量のクッキーが入っているらしい。心の中でガッツポーズ。甘い物ならいくらでも食えます。とりあえず戦利品を鞄に入れる。

 あれ、私なんで鞄持ってきたんだっけ。数秒考えて、ようやく思い出す。

「そういえば、分かんない問題があったから祐人に聞こうと思ってたんだった」

「どれ?」

 紅茶の入ったポットを持った祐人が隣に立ち、模試の問題を覗き込む。

「これこれ。問い四のカッコ三」

「図形の証明か。面倒くさそうだね」

「そう言わずにお願いしますよ、祐人さん」

「はいはい。シャーペンある?」

 コップに紅茶を注いでから、私の手からシャーペンを受け取る。邪魔になりそうな書き込みを消している間、祐人はシャーペンを回しながら考え込んでいた。真面目な顔をしているんだろうけど、いつも無表情だからあまり違いが分からない。書き込みを消し終えた問題を祐人の前へ押しやる。

「ちょっと書き込んじゃうよ」

「どうぞどうぞ」

 私に断りを入れ、祐人は図形に色々と書き込んでいく。

「あ、意外と解けそう」

「マジすか」

「秋奈が解けないって言うからもっと難しいかと思ったのに」

 そう言いながら、祐人は直線を一本書き込んだ。フリーハンドのくせに真っ直ぐな線だ。

「ここに線引くと、三角形が二つできるでしょ」

「うん」

「で、この二つが合同になるでしょ」

「あ、うん。確かに」

 説明を加えながら、余白に証明を書いていく。相変わらず大人っぽくて綺麗な字だし、証明は分かりやすいし、教えてもらってる立場だけど悔しくなってくる。

「こんなもんかな」

「すご……」

 祐人の証明は模範解答より詳しくて、その上分かりやすい。ついさっき問題を見せたばかりなのに。

「他に分からない問題は?」

「あとは平気。ありがと」

 本当は古文でも分からない問題があったけど、もう少し自分で考えてみるつもりだ。一応得意科目だし、自分が苦戦した問題を祐人があっさり解いてしまうのは悔しい。一歳上だから当然だって分かってはいるけど。

「じゃあそろそろ帰るね。クッキーありがと」

「また分からない問題があったら来なよ」

「うん」

 できるだけ来ないで済むようになりたいけど、と心の中で呟く。

「気を付けて」

「ありがと。お邪魔しましたー」

 小さく手を振って、祐人の家を出る。日が落ちかけているせいか、少し寒い。

「もー、どうしよっかな」

 ぽつりと呟いてみる。少しずつ成績は良くなって、順位も上がって、追い付けたかもしれない、と思うことは何度もあった。なのに、その度に彼は少し先にいる。それはもう、わざとやってるのかってくらいほんの少し先に。これを繰り返していたら学年一位とか目指すことになりそうだ。

「塾とか行こっかなー……」

 祐人は自力で勉強しているし、それはそれで悔しい気もする。でも祐人に教わってるだけじゃ、追い付けるわけがない。でも、祐人に教わる時間は好きだ。傍にいられるし、ずっと声を聞けるし。

「ああもう、どうにもならん!」

 熱くなってしまった頬をぺちぺち叩いて、自分の家の扉を開けた。


 *


 確かに、塾に行きたいと親に言ってみました。

 「お金がもったいない」とか、「まだ一年生だからいいでしょ」とか言われました。「赤穂さんちの祐人くんに教わればいいじゃない」とも言われました。だからすっかり諦めて、ときどき祐人に聞きつつ自力で頑張ろうと思ったのに。

 何故、休日の昼間からわざわざ祐人が私の家に、というか部屋に来て勉強を教えてくれることになったのか。年頃の男女が部屋に二人きりとか心配してよお母さん!

「何で祐人も馬鹿正直に来ちゃうのよお……」

 勉強机で頭を抱える私。いまいち状況が飲み込めていない祐人。

「俺は余ったババロアを食べて欲しいだけなんだけど」

 そう言う祐人の両手にはババロアの乗った皿が乗せられている。どうやら私のお母さんが祐人のお母さんに頼んで、祐人のお母さんがババロアという口実を作って祐人をこの家に来させ、来てみれば「家庭教師お願いね」ということらしい。なんでそこまでするかな。

「ああ、もう……」

「ババロア要らない?」

「食べる」

 座ったまま手を伸ばすと、ババロアが突然遠ざかった。もう一つに手を伸ばしてみると、そっちも逃げていく。

「勉強したら食べさせてあげよう」

「は?」

 あくまで平坦な祐人の声。うっかりドスのきいてしまった私の声。

「せっかくだから教えるよ。今日は何やるの?」

 そんなことを言いながら、ババロアを棚の上に置いてしまう。仕方ないのでルーズリーフと筆箱を机の上に出す。

「どうしようかな。今日は英語の予習やるつもりだったけど、それじゃ教わることないし」

「理系科目だと嬉しいかな」

「じゃあ、化学」

「了解」

 祐人は私の隣に椅子を引き寄せて座る。その椅子は元々私の部屋にあった物ではなく、今日の朝お母さんが「置く場所がないからちょっと置かせて」とか言って持ち込んだ物だ。準備が良すぎやしないか。

「化学の何やるの?」

「えーっと」

 学校のワークをめくる。テストはまだ先だけど、どうせ課題でワークが出るから今の内にやっておくつもりだ。

「この間のテストが八十五ページまでだったから、八十六ページかな。ここ」

「酸化還元か。ここ苦手な人多いよね」

 しまった、ただでさえ苦手な化学の一番苦手な単元だ。

「や、やっぱり違うところやろうかな」

「苦手ならやらなきゃ駄目でしょ」

「うっ」

「ババロアのために頑張れ」

 何とも気合いの入ってない応援だ。まあ、祐人が教えてくれるなら何とかなりそうだけど。


 *


 何とかなりそう、なんて思っていたのが遙か昔のことに思えてきました。

「えーっと、酸素の酸化数がマイナス二で、エムエヌの酸化数を知りたいから……」

「エムエヌじゃなくてマンガンね。覚えて」

 マンガン、とノートにメモしておく。まだ五問目なのに、覚えるべきことは山積みになっていく。

「カリウムの酸化数はいくつ?」

「え、分かるの?」

「周期表」

「カリウム、カリウム……あった。この列だから、プラス一」

「そう。周期表は二十番まで覚えてね」

「はーい……」

 周期表、二十、とミミズのような字で書いておく。こんなアルファベットの羅列なんて覚えられないっつの。

「じゃあこのマンガンの酸化数はいくつになる?」

「八ひく一、でプラス七」

「正解。答えは?」

「これは酸化還元反応ではない!」

「よくできました」

 ぱちぱちぱち、と乾いた拍手の音が響く。なんか化学やりすぎて頭痛くなってきた。答えを開いて確認して、丸を付ける。

「あー、疲れた」

「お疲れ様」

「ババロア食べたい」

「まだ二時だよ。おやつは三時にね」

 もうくじけそう。子供か私は。

「褒められて伸びる子なので、ご褒美のババロアが無いともうやる気が出ません」

「そう?」

 だからババロアをよこせ。いっそもう化学やめようかな。生物ならまだ分かるし、その方が祐人も教えるの楽だろうし。でもせっかく付きっきりで教えてくれて心臓が危ない、じゃなくて。付きっきりなんだから一番苦手な所をやっておきたいなあ。それにしてもババロアが美味しそうだ。

「じゃあ、次の問題が一人で解けたらご褒美をあげよう」

「ほんと?」

「ご褒美で、キスしてあげる」

 びっくりしすぎて、頭の中からババロアが消え去った。

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