番外編『名前を呼んでもいいのかしら』

 夜の学校はなんとも静かで、落ち着く。

 昼間は蒸すように熱い真夏の日でも、夜になると風が冷たくなって過ごしやすい。

 私は夏の事は嫌いだが、夏の夜は結構好きだったりする。

 校庭にそびえ立つ木々の葉を揺らすように、一際強く吹いた風に、長く伸ばしている髪をなびかせる。


 周りから艶があって綺麗だねと褒められる黒髪は、幼い頃に彼を好きになってからずっと伸ばしている。

 そう、私の大好きな人。


「ぶっきー!」


 風を浴びながら感傷に浸っていると、後ろから大きな声で変なあだ名で呼ばれる。

 私の事を、こんな変なあだ名で呼ぶのなんて『あの子』くらいだ。


「なにかしら」


 振り返ると、そこには『私の大好きな人』を横から奪い取っていった女の子がいた。

 桜野桃香。

 とても可愛らしい、女の子らしい、そんな名前に負けないくらい可憐な少女。

 それが、私の好きな人の好きな人だ。


「なにかあった?」


 尋ねると、彼女は「えっと」と少しだけ言い淀んで私の顔を何度か見ていた。


「あのね、りょーくんから聞いたんだけどね」


 あの男から? 何だろうか。

 と私が思考を巡らせている内に、彼女は百面相をしていて、ようやく意を決したように言ったのだった。


「私の事、『桜野さん』って呼んでくれたって」


 言われて、私はかあぁっと顔が熱くなる感覚がした。

 あの男は、言わなくてもいいことを、わざわざ本人に言ったのか――!

 きっと桜野さんも不快だろう。

 勝手に自分の事を敵視していた女から、親し気に呼ばれたなんて知ったら。

 慌てて弁解をしようとした私の手を取って、彼女は顔を綻ばせて言った。


「私とっても嬉しかったの!」

「え……」


 そして緩んだ顔のまま、握った手を上下に振っている。


「あなた、嫌じゃないの?」

「なんで? 嫌なわけないよ!」


 桜野桃香は本当に、何の屈託もなく嬉しそうに目を細めて。


「綺麗で素敵で大好きな女の子に、名前を読んでもらえて嬉しいよ」


 と、言った。

 私はその言葉に無性に泣きそうになって、とっさに目を逸らした。


「ずっと、吹雪ちゃんには嫌われてると思ってたから」


 寂しげに桜野さんは目を伏せた。そうか、彼女はきちんと冷たさに敏感な人だったんだ。

 優しくて朗らかな人柄から、つい見落としがちだった。


「嫌いじゃないわ」


 怖いの。と、続けることはもっと怖かった。

 ここまでの事をして、私に好意を寄せてくれたこの子を傷つけるのも、自分の醜さを認めるのも。

 そんな私の気もちを知ってか知らずか、桜野さんは私を見つめて再び口を開いた。


「あのね、もし良かったら私の事『桃香』って呼んで欲しいなぁ……なんて、もし気が向いたらでいいから!」


 目の前の女の子は、怖いだろうにそれでも私にそう言ってくれた。

 だから私は私にできる精一杯で彼女に返すのだった。


「呼び捨ては気が引けるわ。……桃香さん、って時々呼ぶくらいなら」


 目を逸らしつつもそう言うと、彼女は顔を見なくても分かる、嬉しそうな声で「ありがとう!」と笑ったのだった。


---To be continued.

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