第10話「雨とあいあい傘と告白と」

 図書室を出て玄関口に向かうと、先ほどまでは小雨だったはずなのに、その勢いは酷く増していた。

 靴を履き替えながら、重く垂れこめる雨雲を見上げる。


「はぁ……」


 雨というのは、降っているだけでおっくうになってしまう。

 傘を持っていてもこんなに重い気分になるのだから、傘を忘れた日の絶望感は相当だ。


 天野さんに初めて出会ったあの日。

 そんなこの世の終わりのような絶望から、天野さんは私を救ってくれたのだ。

 いや、それはさすがに少し大げさかもしれないけれど。

 それでも、彼の存在に救われた私がいることは確かだ。


 明日も天野さんに会えたら何を話そうか。

 強く雨が降り注ぐ校庭を眺めながら、外に出る。

 雨よけのある軒先で、手持ちのバックを漁ってみる。

 指先に固い柄の感触があって、それを取り出した。

 小さく折りたたまれたその――折りたたみ傘に手をかける。

 するとその時、後ろから声が聞こえた。


「あー……降ってきちゃったか」


 振り返るとそこには、困ったように頭をかく天野さんの姿があった。

 珍しい彼の姿に驚いて、じっと見つめていた私と視線が合った彼は恥ずかしそうに笑う。


「傘忘れちゃったんだよね」


 まさか天野さんが傘を忘れるなんて、珍しいこともあるものだ。

 私はチラリと手持ちの折りたたみ傘に目をやる。

 小さい傘で、二人は入れるかどうか微秒だが、でも――


「あの、よかったら入っていきますか?」


 一人でも肩が少し濡れてしまうほど小ぶりな傘だが、それでも前身濡れて帰るよりはきっとマシだろう。

 何より、天野さんは受験生。

 今、体調を崩してしまってはいけない時期だ。

 傘を広げて、天野さんを覗き見る。


「いいの?」


 尋ねられて、コクンと頷く。

 天野さんは申し訳なさそうに頭を下げると、私の持ち上げた傘の中に身体を入れてきた。


「ありがとう」


 そうお礼を言うと「じゃあ傘は僕に持たせてよ」と柄の部分を持ってくれた。

 そして、二人で肩を寄せて小さな傘の中。雨の降りしきる校庭に足を踏み出した。




 予期せず、天野さんとあいあい傘をして帰ることになった私の心臓は、警報のように激しく鳴り響いているようだった。

 少しでも口を開けば心臓が口から出てしまいそうだ。

 小さな傘だから、右肩が少し濡れている。

 けれど、その濡れた肩の冷たさよりも、身体の中心からくる熱の方が激しく主張をしてくる。


「今日はいつにも増して急な雨でしたね」


 少しでも体内の熱を紛らわせようと、口を開く。

 口から入り込んだ空気は雨の味がにじんでいるような気がした。


「本当だよね。でも、佐藤さんがいてくれて助かったよ」


 天野さんからの言葉はいつも優しい。

 その温かい言葉に包まれるたび、私の胸はぎゅっと締め付けられるのだ。

 ふと、天野さんの方に目を向けると、彼の肩の半分以上が外に出ていることに気付く。


「あ、天野さん!」


 慌てて彼の持つ傘の柄を掴み、その激しく濡れた肩を覆うように倒す。


「風邪をひいてしまいます!」


 しかし、天野さんはやんわりとその手を押し返してきた。


「大丈夫だよ。それより佐藤さんが濡れる方が大変だ」


 いつもは大人しい天野さんの全く譲らない、その態度は今までに見たことのない姿で、驚いてしまう。

 そして、意図せず彼の手を握る形になってしまっていることに気付き、慌ててその手を離した。


「す、すみません……! ありがとう、ございます……」


 それからしばらく、私と天野さんの間には沈黙が下りたまま、静かに歩き続けた。

 そして遂に、私の乗るバス停で私たちの足は止まる。

 私たちの帰り道はここで別れ離れだ。


 このままで私は良いのだろうか。

 ずっとこうして、彼の傍にただ居るだけで。


『動かないと、恋は恋のままで終わっちゃうんだ』


 青海くんの言葉が頭の中に響く。


 私は、天野さんが好きだ。

 彼の柔らかい物腰。

 へにゃっと崩れる優しい笑顔。

 好きなことを語るときの生き生きとした表情。


 一緒に図書室で勉強をするようになる前では、知ることも出来なかったことばかりだ。

 それを知った今、改めて天野さんが好きだと思っている私がいる。

 このまま、ただの後輩で終わりたくない。


 バス停の屋根の下で私が傘をたたむ。

 隣でそれを待っていた天野さんが、手を上げバス停から出ていこうとした瞬間。


「天野さん」


 私は彼を呼び止めた。

 やっぱり心臓が口から出てきそうで。

 きっと声も震えていて。

 それでも、目だけは真っすぐに彼を見つめる。


「私は天野さんの事が好きです」


 それまで強く響いていた雨音が、私の世界から消えた。


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