第9話「雨降り月曜日は図書室でクッキーを」


 次の日も、その次の日も、私は図書室で天野さんと一緒に勉強をする日が続いた。

 ある時、勉強の合間に珍しく天野さんの方から話しかけてきた。


「佐藤さんは、進路とか決めてるの?」


 尋ねられ、一瞬言葉に詰まる。

 まだ、2年も始まったばかりだし、そういう事は考えるのをなんとなく先延ばしにしてしまっている。


「えっと……正直、あんまり」


 だから、苦笑いを浮かべながら、そういう事しかできなかった。

 そして、ふと霧島さんから最初に聞いた話を思い出す。


「天野さんは、どの学部を目指しているんですか?」


 事前に大学名などは赤本で知ってしまっているし、霧島さんからの助言もあったので、少しズルかな……と思ったが、知らないフリして尋ねてしまう。


「あー、僕は理学部を目指してるんだ」

「理学部、ですか……」


 いざ聞くと一体何を学ぶところなのか少し想像がしづらい。私が理数系の学問に疎いというのもあるだろうけれど。


「そう。その中でも気候とか天候に関する勉強がしたくて」


 言われて、たまに天野さんが息抜きをする際に図鑑のコーナーへ行って、見ている青色や赤色の空が表紙の本を思い浮かべる。


「もともと好きなんですか? 空とか天気とか」


 そういう本を見ている時の彼の表情はとても柔らかくて、見ていて胸がぎゅっと締め付けられてしまう。

 その横顔から、きっと好きで好きでたまらないのだろうと思っていた。

 彼は、はにかんだように笑ってみせる。


「うん、好きなんだ。昔からずっとね」


 その笑顔に、またしても胸をぎゅうっと締め付けられてしまう。

 それを表情に出さないように努めて、なんとか言葉を発する。


「だから……毎回、的確に傘を持ってこれるんですね」


 正面の天野さんは、一瞬キョトンとした表情を浮かべた。


「あぁ……そうだね。そうかも。あまり意識してなかったけど。……そうだね」


 驚いたような表情はすぐに崩れ、一気に緩んだ表情を浮かべた天野さん。しかし、その表情も次第に真剣な表情になっていき、最後に一つ頷いた。


「うん、確かに僕は好きなんだ。好きだから勉強したいんだ」


 そんな天野さんの百面相を、何事だろうと見つめていると、彼は私に向き直って「ありがとう」と礼を言った。


「最近、進路にちょっと迷ってたんだ。佐藤さんのおかげで少し、吹っ切れた感じがするよ」


 私は正直何もしていないけれど、真剣に勉強している天野さんはかっこいいし、好きなことに触れている天野さんは好きだ。

 だから、彼が何かを掴む手がかりになったのなら、それは素直に嬉しいと思った。

 今週ももう終わりで。天野さんに次に会えるのは3日後になってしまう。

 だから、今日は少しでも長く彼の隣にいたいと思った。


 いつの間にか、私は天野さんと並んで勉強をする事が恒例になりつつあった。

 週が明けた、とある月曜日。

 今日も授業が終わると、私はカバンにノートなどを急いで詰め込み、図書室へ向かう。


 私が行くと大体先に天野さんはついていて、席を取っていてくれる。

 そんなささやかな事がたまらなく嬉しくて、心の隅がもぞもぞとする。


「こんにちは」


「やぁ、今日も早いね」


 天野さんは既に机の上にノートを広げていて、勉強をできる準備が整っている。

 私もいつもならすぐに準備を始めて、宿題や小テストの勉強を始めるところだったが、今日はそれよりも先にバックと別に用意していた手提げ袋を漁った。

 もぞもぞとしばらく中を漁って、ラッピングをした袋を取り出すとそれを天野さんへ差し出す。


「あの、これ……どうぞ」


 彼はそれを受け取ってから、頭を軽くかしげてみせた。


「これは……?」


 尋ねられ、私は待ってました! と言わんばかりに胸を張りながらそれに答えた。


「クッキーです! 週末に作ってきました」


 自分で言うのもなんだが、結構な自信作だったりする。

 天野さんは「えっ」と驚いた顔をした。


「本当に作ってきてくれたんだね」


 言って嬉しそうにその顔を綻ばせる。

 どうやら喜んでもらえたようでよかった……。


 先週のうちに、こっそりクッキーのレシピ本を借りて、週末に材料を揃えて日曜の夕方から焼いたのだ。

 クッキーはもう何度も作っているお菓子だが、天野さんに食べてもらうのだ。失敗なんて許されない。

 ……それに、何より。彼に食べてもらえると思うと、材料を混ぜ合わせる手にも力がこもった。

 通りかかった姉に、盛大に鼻歌を聞かれてしまい「やけにご機嫌だね」とニヤニヤされたのはかなり恥ずかしかったけれど。


 天野さんが袋のリボンを開けようとした瞬間。

 あっ、というような顔をして視線を前方に向けた。

 つられて視線を同じ方向に向けると、そこには壁に貼られた『飲食禁止』の紙がある。


「あっ……」


 天野さんの手に持っているクッキーの入った袋を見つめる。

 気まずさに耐えきれず、袋を返してもらおうかと手を伸ばした瞬間。


――カサッ


 天野さんは手元のラッピング袋のリボンに手早く指をかけると、私が声をかける前にそれをさっさと解いた。

 そして、袋の中から昨夜焼いたばかりのマーブルクッキーを手に取ると……人差し指を唇に当て『シーッ』と悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 そして、そのままクッキーを口に運んだ。


 あっ、と口を開いたままの私の前で、天野さんはもぐもぐと口を動かす。

 咀嚼を繰り返すうちに、彼の目元はうっとりと細められ、口元はクッキーを噛みしめつつもその口角は見事に上がっていた。

 サクサク、もぐもぐ。

 クッキーを食べる天野さんの表情に見惚れているうちに、彼は一つ目のクッキーを食べ終わっていて、いつの間にか二枚目に手を伸ばしていた。


「こら! 図書室は飲食禁止ですよ!」


 そこで、すかさず図書司書の先生から注意の声が飛んできてしまう。


「すみません……!」

「ごめんなさい……!」


 私と天野さんはそろって肩をすくめて謝る。

 その態度に満足したのか、先生は「次からは気を付けてくださいね」と言葉を残すとその場から去っていった。


 肩をすくめた状態で固まっていた私と天野さんは、先生が去った後2人して顔を見合わせると、どちらからともなく笑いだした。


「怒られちゃったね」

「仕方ないですけどね」


 注意されたのに、不思議と心は軽かった。

 声を殺してしばらく二人で笑い合った後、彼はリボンを結び直したラッピング袋を顔の横まで軽く上げた。


「すごく美味しかったよ、ありがとう」


 リボンは少し曲がっていたが、その不格好さと彼の笑顔で私の頬も緩んでしまう。


「どういたしまして!」


 言った私は、どんな顔をしていただろうか。

 窓の外は小雨がぱらついていたが、私の気持ちは爽やかに晴れ渡っていた。

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