第8話「雨粒でできた水たまり」
天野さんと一緒に帰ることになった雨の放課後。
傘を差しながら、二人肩を並べてぬかるむ道を歩く。
隣を歩く天野さんを意識しすぎて、左肩が異様に熱く感じる。
なんて話せばいいんだろう。
変な話を振ってしまったら、次は無いかもしれない。
口を開いては、閉じる……そんな行動を繰り返してみるが、実際に声が出ることはなかった。
雨音が傘に当たって跳ねる音が、二人の間に響いている。
ぽつん、ぽつん。ぽっぽ。
その音が心地よく、このまま静かに歩いているのもいいかもしれない。
そう思った矢先、隣から声が飛んできた。
「佐藤さん、最近よく図書館にいるよね」
傘を反対側に傾けて彼の方を見ると、彼も同じように傘を反対側に傾けて私の方を見つめていた。
「は、はい!」
慌てて頷いて見せると、天野さんは傘の向こうで顔を優しく緩める。
「そんなに、かしこまらなくても良いよ」
笑った彼の顔を正面から見てしまい目を奪われてしまう。今日は私史上最高に幸せな一日だ。
「佐藤さんはいつも何してるの?」
問われ、それが図書室で何をしているのかを聞かれているのだということに気付くまでに数秒かかった。
ようやくそれを理解すると、ずっとこちらを見ていてくれていた天野さんに返事をする。
「私は、宿題とかしてます。あと、料理本を見たりとか……」
『料理本』という単語を聞いて、天野さんは「そうそう!」と大きく頷いた。
「図書館で料理の本見てる人がいるなぁ……って珍しくて佐藤さんの事覚えてたんだよね」
そんな事で記憶に残っていたなんて、思ってもみなくてびっくりする。
「あの、料理本って買うと意外に高くて……種類も多いですし。だから、つい見ちゃって」
恥ずかしくなって顔をそらす。
「本当はちゃんと勉強しなきゃって思うんですけど……」
受験勉強を頑張っている天野さんだ。こんな不真面目に図書室にいる私の事を嫌に思ったら……と不安に思うが、彼は気にした素振りもなく笑って見せた。
「いやぁ、実は僕もなんだよね……。勉強しなきゃって思うんだけど他の事にも意識が向いちゃうんだ」
それって……と、言いかけるが、「あっ」と彼の上げた声で遮られる。
「僕、帰りこっち方面なんだけど、佐藤さんは?」
言われて彼の指さす方を見ると、小さく雨よけのあるバス停と、その傍からのびる道が見えた。
天野さんが指していたのは伸びている道の方だったが、私はバス停の時刻表を慌てて確認する。
時刻表を見て、腕時計を見てほっと胸をなでおろす。そんなに待たずに次の便に乗れそうだ。
そこでハッとして天野さんの方を振り返る。
「あ、あの。私はここのバス停からいつも家に帰ってるんです……」
本数がそんなに出ていないバス停だから、慌ててダイヤを確認してしまったが。天野さんに返事もせずにいたことで申し訳なくなり顔を伏せてしまう。
「そうなんだ。次のバスはすぐ来そう?」
相変わらず柔らかい表情の彼に、私はコクコクと何度も頷くと天野さんは「よかった」と笑った。
そして彼の帰り道に足を向けると手を振って去っていった。
「また、図書館で! 次あったら声かけてよ!」
と、言葉を残して。
その姿に見とれながらも手を振っていると、彼の後姿に重なるように、バスがやってきた。
目の前で停まったバスの乗降扉が開いて、そのステップに足をかける。
傘をたたむとICカードをかざして、空いている席に座る。道の先に天野さんを探すが、彼の姿はもうなかった。
先ほどまで差していた傘が、足元で小さな水たまりを作っていく。
いつもなら不快に感じるそれさえも、今はどこか嬉しく感じてしまうほどに。私は幸せに浸っていたのだった。
翌日からも私は変わらず図書室に行くことにした。
しかしそれまでと違う事は、座る席が天野さんの正面の席ではなく、隣の席になったことだった。
「こん、にちは」
一緒に帰ったあの雨の日の翌日、天野さんを図書室で見かけた私は、恐る恐る声をかけた。
それに彼は手を挙げて「こんにちは」と応えてくれた。
そして、自分が座っている隣の席を引いて、私に勧めてくれた。
「ここに座りなよ」
思いがけない提案に驚きつつも、そこに座るといつものようにカバンから宿題道具一式を取り出す。
取り出し、改めて座ると思った以上に天野さんとの距離が近い。気を抜くと腕と腕とが当たってしまいそうだ。
緊張する。
恐る恐る隣を伺い見ると、天野さんとバッチリ目が合ってしまう。
「あ、僕は受験勉強しようと思っているんだけど、佐藤さんは?」
尋ねられ、慌てて答える。
「えっと、私は……数学の宿題をしようかな、って思ってます」
それは今日の3限目の時間に出された物だった。私が一番苦手な数学。
「あー、数学かぁ……。僕、あまり得意じゃないんだよね。ちゃんと頑張ってるのえらいなー」
天野さんの微笑みが痛い。
違うんです。私は貴方と一緒にいたいから頑張ってるんです……。
不純な動機に後ろめたさを感じてしまう。
しかし、天野さんはそんな事知る
私も、彼に負けないように……と宿題に取り掛かる。
視界の端に霧島さんと青海くんの姿がチラリと見えて、彼女たちも見守ってくれているんだ、と少し肩の力が抜ける。
一人だと思うよりも誰かに一緒にいてもらえると思える方が、私は頑張れる気がするのだ。
そして数学の宿題に向き合う。
最初の方は思ったよりも気楽に説くことができたが、後半に差し掛かるにつれその難易度が少しずつ上がっていく。
最初は難しい問題も一生懸命解いていたのだが、次第にそれもきつくなって頭が痛くなってきた。……こういう時、本当に私は勉強って苦手だなぁって思う。
そっと隣を伺い見ると、天野さんは真面目に勉強を続けている。
邪魔にならないようにそっと席を立つと、お気に入りの料理本のコーナーへと足を向ける。
料理は私の心の癒しだ。
小学生の頃に、初めて料理を作らせてもらってから。包丁を使って材料を切ったり、それを炒めたり煮たりして、そして出来上がった料理を誰かに食べてもらう事が、私の楽しみなのだ。
料理の中でも私は特に、お菓子作りが大好きで、最近は休日の度に新しいケーキを作るのがすっかり趣味になっている。
棚に並んだ沢山の本の中から『ケーキ』についての本を手に取った。
難しそうなデコレーションケーキが並んでいるが、こんなに美しい見た目のケーキをもし自分で作れたら絶対楽しい。
その場で本をパラパラとめくり、帰り際に借りる事を心に決めると、それを脇に抱え天野さんの隣の席へと戻る。
席に近づくと彼も手を止めており、椅子に座ったまま大きく背伸びをしていた。
「おかえりー」
私の姿を見つけ声をかけてくれる。
そして抱えた本に目をやると「お菓子の本?」と尋ねてきた。
席につきながら「そうです!」と私は頷く。
「最近ケーキ作るのにハマっているんです」
両手で本を持つと表紙を彼に向ける。
「へぇ、いいね!」
「ケーキって、作るのが少し難しいんですけど、だからこそ出来上がった時本当に嬉しくて……」
嬉々としてケーキについて語ってしまう。
「個人的にはモンブランが好きなんですけど、ショートケーキの方が飾り付けとか楽しくて……」
次第に自分が好きなケーキの話まで始めてしまう。
彼はうんうん、と相槌を打ちながら話を聞いてくれたが、他のお菓子の作り方まで説明してしまいそうになった瞬間に、ハッとして言葉を切った。
「あっ、すみません、ちょっと話しすぎちゃいました……」
申し訳なくなって頭を下げると、彼は「いやいや」と手を振った。
「佐藤さんってお菓子作るの好きなんだね! 今度もしよかったら僕も食べたいな」
そう言って「あ、それは流石に迷惑か」と自分の言葉に眉をひそめる天野さん。
「作ってきます!」
続く言葉を待たずに、食い気味で私は言った。
天野さんは少し驚いた表情を浮かべて、そして「じゃあ楽しみにしてるね」と笑ってくれる。
雨が洋服に染みるように、その笑顔が私の心にじんわりと染み込んでいくような心地がした。
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