第8話「抱擁と失恋と」
結局その後も、桃香と紅は喧嘩をすることなく、つつがなく水族館デートを終え、お土産を買うと館内から出た。
俺と、霧島はデートが成功してしまった事に肩を落としながら、二人の後を追う。
二人は正面玄関を出て、昼に来た時に会った受付のお姉さんに一つ会釈をすると、お弁当を食べた公園の前に差し掛かった。
そこで桃香はそっ、と前を歩く紅の洋服の袖を指で引っ張ると、紅に声をかけた。
「ねぇ、紅君」
それに紅は「ん? どうしたの? 桜野さん」と桃香の事を振り替える。
昼にランチの時間を告げた鐘の前で、二人は立ち止まった。
しばらくの間を置いた後、桃香が口を開いた。
「あのね、紅君。私ね、その……紅くんのことが……」
言いかけた桃香の言葉を、紅は「まって」と
その顔は、沈みかけている夕焼けよりも真っ赤で、紅はその顔を必死に手で隠そうとしていた。
「ちょ、っと待って。桜野さん。それは、多分君が言っちゃダメだ」
そんなことを言う紅に、桃香はしゅんと顔を伏せた。
「それは、きっとオレから言わなきゃいけない、事だ」
そう言うと、紅は桃香に向き直った。
その赤い顔を腕で隠していたが、しばらくしてすぅっと息を吐くと、顔を隠していた手を下して口を開いた。
「桜野さんに、オレからも言いたいことがあるんだ」
紅が、そう言った瞬間、二人の後ろの鐘が鳴った。
――リーン、ゴーン。
5回ほど鐘が鳴り、その音が終わると、紅は再び言葉を選ぶように話し始めた。
「オレ、今日桜野さんに誘ってもらえて、すっごく嬉しかったんだ」
紅のそんな言葉に、桃香は驚いたように顔を上げた。
「紅君、それって本当……?」
「本当だよ。すっごく嬉しかった」
紅は、にこっと笑った。
「オレ、正直に言うと、女の子の友達って結構いるほうだと思ってるんだけど、なんか桜野さんだけは女友達、って風に最初から思えなかったんだ」
「えっ……? それって、どういうこと……?」
桃香の顔が少しだけかげる。
「あっ、いや、悪い風にとらえないで欲しいんだけど……。あー、はっきり言うと、オレ、多分最初から桜野さんの事を好き、になりそうだったんだと思うんだ」
言って、紅は驚いた表情を浮かべている桃香に、意を決したような表情を浮かべて言った。
「オレ、桜野さんの事が好き、です。良かったら、そのつきあってくださ……ふぇっ!?」
紅が最後まで言う前に桃香が、紅に抱き着いていた。
両手を紅の頭に回し、桃香は本当に幸せそうに笑っていた。
「私なんかでよければ、喜んで……っ!」
最初はビックリしていた紅だったが、ゆっくりと桃香の腰に手を回すと、二人は鐘の前でぎゅっと抱きしめあった。
俺はその様子を遠くから見つめ、10年来の恋が失恋と言う形で終わってしまった事に対しては、かなりショックは受けていた。けれど、幸せそうに抱きしめ合う、二人を見ていると、これでよかったのだろう。と思った。
きっと、俺は桃香の事を幸せにはできなかっただろうし、何より今まで誰も好きになって来なかった桃香が初めて好きになった人と、結ばれることになって本当によかったと思っている俺もいた。
しかし、俺以上にショックを受けてそうな奴が隣に……。
俺はそっと隣の霧島を覗き見る。
「……っ……ぐ」
見ると霧島は、唇を噛みしめ、その両目からぽろりぽろりと大粒の涙を流していた。
流れた涙は、拭われることなく、その瞳から流れたまま頬を伝い、顎まで流れるとそのまま地面に落ちていた。
「霧島……」
俺は、つい彼女に声をかけようとしてしまった。
なんて言葉をかけていいかも分からないくせに。
「慰めなんて要らない」
そんな俺の心を読んでいるかのように、霧島はぴしゃりと俺を言葉で跳ねのけた。
「少し、そっとしてて」
霧島はそう言うなり、今度はさっきよりも少しだけ声を漏らしながら、泣き出した。
「っく……う……っぐ……」
きっと、彼女にも俺と桃香と同じように、沢山の思い出が幼馴染の紅との間にあったのだろう。
片鱗だけでもわかってしまうだけに、俺はそれ以上霧島に声をかけることはできなかった。
隣で涙を流す霧島の隣で、俺はただ時計を見つめ一緒に座っていることくらいしかしてあげられないが。
それでも、霧島を置いてどこかに行くなんてこともできず、彼女が泣き止むまで、桃香と紅が帰った後も、俺は霧島の隣にいた。
30分ほど泣き続けた末に、霧島は残った涙をバックから取り出したハンカチで静かに拭うと、すくっと立ち上がって言った。
「何をぼけーっと座っているんですか。青海のくせに私を元気づけようなんて100万年早いです」
立ち上がるなり、毒舌をフルに発揮しだす霧島に、本当にお前さっきまで30分も泣いていたやつと同じ人間か……と思いながら、隣に並ぶように立ち上がった。
「帰るか」
言って、駅の方に向かって俺が歩き出すと、しぶしぶと言った様子で、霧島も後に続いて歩き出す。
「私は、別に悔しくなんかないわ」
歩き出すなり、霧島はぽつりと独り言のように話し出す。
「葉太が桜野さんの事を好きなら、応援する」
「悔しくない」
「ただ……少し、少しだけ涙がでちゃっただけ、なのよ」
「って、ねぇ。聞いてるの?」
電車を待つ駅のホームで、そう言う霧島の言葉をただただ聞いていると、唐突に怒られた。
「独り言だと思ってたから、返事しないほうがいいかと思ってたんだが」
俺が肩をすくめて言うと、霧島はふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「コメントは要らないけど、
そっぽを向いたままの霧島に、今度は俺が呟くように言った。
「でも、あれだけ涙が出るってことは、それだけ霧島は紅の事が好きだったんだな」
「少しも泣けない、俺と違って」
言った俺の顔をちらりと霧島は見ると、再び鼻を鳴らしていった。
「……男と女だとそこは違うでしょ。涙なんかで好きの度合いなんて測れないわよ」
少し馬鹿にしているような口ぶりだったが、霧島が俺を励まそうとしてくれているのは分かった。
「青海が、桜野さんの事を大好きだったのは私がよくわかってるわ。そんなつまらない事でうじうじしないのよ」
「お前は、けなしたいのか、励ましたいのかどっちかにしろよ」
軽口をたたく俺だったが、少し笑顔がこぼれてしまった。
「でもま、ありがとな」
俺がそう言ったと同時に、電車がホームに滑り込んでくる。
「さぁ、帰ろう」
言って俺は、霧島と電車に乗り込んだ。
恋が実っても、失恋しても、同じように俺らに明日は来るのだから。
いつまでも落ち込まないで、前を見て歩き出さなきゃいけない。
そんなことは、俺も霧島もわかっていたから。
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