第7話「少年の涙を止めたのは」


 お弁当を食べ終わった二人は、少しベンチで会話をして、立ち上がると、二人そろって伸びをした。


「あーいっぱい食べた! ありがとうね、桜野さん!」


 紅はのびーっと両手を合わせて伸びしたまま、桃香を振り返ると、笑顔でそう言った。


 桃香はえへへ、と伸ばした手を下ろし、照れ臭そうに笑うと「おそまつさまでした」と笑った。


 そうして、二人で並んで歩き出すと、水族館の入場ゲートへ進み、受付のお姉さんの所へ行くと、二人分のチケットを購入した。


 紅と桃香はお姉さんと二言三言会話を交わすと、チケットを受け取り館内へ入って行った。


 慌てて、俺と霧島もチケットを買って、後を追おうとする。

 俺たちは急いで、桃香達が並んでいた列に慌てて並んだ。


 今日はあまり入場者がいないのか、スムーズに券売のお姉さんの所にたどり着く。


「すみません、学生2枚ください」


 ここは男の俺が。と、財布を取り出し、チケットを買おうとする。

 しかし、すかさず霧島が横から千円札6枚をお姉さんに差し出した。


「青海におごってもらうほど、私は落ちぶれていないわよ」


「はぁ? だからってお前が2枚も買う必要はないだろうがよ」


 流石に、貧乏学生で、霧島の分も買おうとした自分は背伸びをしたなと思ったが……。

 倍返しとばかりに、俺の分のチケット代を躊躇うことなくだすなんて、ムカつく程、可愛くないやつだなと俺は霧島を睨みつけた。

 霧島も負けじと、俺の事を睨んで来る。


 そんな、俺たちの不穏な空気にお姉さんはふふ、と耐え切れないように笑みを漏らした。


「学生さんカップルで、2枚ですね。かしこまりました」


 そう言って、お姉さんは俺と霧島の差し出したお札を両方から一枚ずつ受け取ると、チケットをそれぞれに1枚ずつ手渡した。


 俺と霧島は同時に


「「いや、カップルじゃ……!」」


 と、声を合わせて否定をしようとしたが、お姉さんの菩薩ぼさつのような笑みにぐうの音も出ず大人しくチケットを受け取ってしまった。


 その様子にお姉さんは更にふふふと笑うと、右手をひらひらと振り、俺たちを見送った。


「素敵なデートにしてくださいねー」


 恥ずかしくって、お互いの顔もろくに見れず入場ゲートをくぐった。


「……私には、葉太という心に決めた人がいるわけであって、青海とそういう風にみられるのは、非常に遺憾だわ」


「いや、それは俺も同じだし」


 言いながらも、どうも変に意識をしてしまう。


「それより、あいつらはどこに行ったんだろう。遠くに行ってなければいいんだけれど」


 言って、きょろきょろあたりを見渡すと、案外近くに二人の姿を見つけることができた。

 見失っていなくてよかった、ほっと胸を撫でろし俺は霧島に二人がいることをつたえると、そちらへこっそりと近づいた。


 館内は思っていたよりも暗く、二人を見失ってしまう危険性もあるが、一緒に行動している霧島からも気を抜くとはぐれてしまいそうな感じがある。


 しかも、休日だからだろうか。

 辺りを見回すと、いたるところに小学生くらいの子どもらが歩き回っていた。


 霧島とはぐれないように子ども達を避けながら二人に近づくと、二人は入ってすぐの大型水槽の中にいる、大きなエイに夢中だった。


「ねぇねぇ、紅くん見てみて! エイさん面白い顔してるよー!」


 遥か頭上を悠々と泳ぐ巨大なエイを見上げ、桃香は嬉々として声を上げていた。


 確かに、下から見たエイは笑ったような顔をしていて、おもしろいけども!


 そんなそこらへんにいる子どもに負けないくらいにはしゃぐ桃香に、紅は呆れるような素振りを見せることなく、一緒にエイを見上げていた。


「エイさんって、あの笑ってるように見えるの顔じゃないんだよね」


「えっ、そうなの??」


「そうだよー。エイさんの目は案外つぶらで可愛いんだよ」


 そう言って、二人で水槽の中のエイを見上げていた。

 ふと水槽から視線を横にそらした桃香は、隣の部屋を指さした。


「紅君、あそこの水槽も見てみようよ!」


 そう言って、移動を始めようとした桃香。

 その手を、紅が慌てて掴んだ。


「待って、桜野さん」


「へ……?」


「そんなに急いでいくと、はぐれちゃうよ」


 あっけにとられた様子の桃香だが、桃香よりも驚いたのは、俺と霧島の方だった。


「っ……!?」


 俺の方は声にならない叫びをこらえるのに必死だった。

 野郎、俺の、俺の桃香の手を握りやがった……!!


 しかし、ここで殴り込みに行っては、ここまで必死に後をつけてきた努力が水の泡だ。

 そう思い、必死に声を殺したが、隣からずいっと誰かが身を乗り出すのが見えた。

 他の誰でもない、霧島だ。


 霧島は、声こそ出していないが、その目はただ一点。桃香と紅だけを見ていた。


 その目は殺気立っていて、俺は瞬時に「これはやばいやつだ」と察した。

 慌てて霧島の手を今度は俺が引くと、霧島はキッと目を吊り上げて怒ったように言った。


「私の手を握らないでって言ったでしょ!! 私の手を握っていいのは、葉太だけなんだから!!」


 言って、瞬間今度は泣きそうな顔をしながら、言った。


「葉太が手を握っていいのも……私だけ、なんだから……」


 その目は今にも涙が零れ落ちそうで、俺は何と言って声をかけたらいいか分からずに、黙ってしまった。


「あ、のさ」


 それでも何かを言おうと、声を絞り出したその時だった。

 俺たちの隣を小学生低学年くらいのやんちゃそうな少年が駆け抜けていった。


 あ、やばい。と思った時には、既に遅く。

 少年は、踏み出しかけていた霧島の右足に勢いよくつまずいて、派手にこけた。


 ――ずでっ


 大きな音と同時に、時が止まったような気がした。


 少年も、こけた瞬間何が起こったのか分からない、と言った様子で唖然としていたが、自身が地面に転がったのだということに気づくと、とたんに大きな声で泣き始めた。


 俺は、少年が泣き始めるよりも先に、霧島の手を引きそっとその場を離れた。


「ちょっ、何してるのよ! あの子、泣いちゃったじゃない! 放っておくの!?」


 霧島は手を引く俺に抵抗をしたが、俺は手を引くのをやめない。


「あの子には悪いけど、あのままだと俺らが尾行してたことに、二人が気付いちまうだろ」


 そう言いながら、人並みに身体を隠しつつ、泣いている少年が見えるくらいの位置に立つ。


 振り返り少年を見ると、少年のすぐそばには紅の元を離れた桃香がいた。

 せっかく、大好きな紅と手を繋げたのに。

 その手を振りほどいて、少年に駆け寄ったんだろう。


 桃香は、自分のスカートが床についてしまう事など気にしていない様子で、少年と目線を合わせるためにしゃがみ込んでいた。


「ぼく、転んじゃったんだね。大丈夫?」


「うわーーーん! いたい、いたいよー!」


 桃香は、優しく少年に話しかけた。

 しかし、少年は中々泣き止まない。


 桃香は一瞬「どうしよう」と宙を見たが、次の瞬間自分のリュックを肩から外し、リュックについている猫型の魚の形をした子ども向けアニメのキャラクターのぬいぐるみを手に取ると、それをまるで生きているかのように動かすと、少年にぬいぐるみを通じて話しかけた。


『ぼくー? 痛かったね。でも大丈夫だにゅい! ぼくは強い男の子だもんね! これくらいの痛さなんて、すぐに飛んでいくにゅい!』


 声色も変えて、桃香がそう少年に声をかけると、少年は腕でこすっていた目元をそっと開き、桃香の方を見た。


「ねこ、どるふぃん……?」


『そうだにゅいー! ねこどるふぃんが見込んだ男の子だもん! これくらいへっちゃらだにゅい!』


 桃香が、ぬいぐるみを左右に揺らしながらそう言うと、少年はさっきまでずっと流れていた涙を右手の洋服の裾でゴシゴシと拭うと、ばっと立ち上がって言った。


「うん! ボク平気だよ! もう大丈夫!」


 そう言うと、えへへっと嬉しそうに笑った。


「ありがとう! ねこどるふぃんと優しいお姉さん!」


 照れ臭そうに頭をかくと、バイバイと手を振って、少年は走っていった。


 少年が走り去っていったのと同時に、後ろで成り行きを見守っていた紅が桃香に近づいた。


「すごいね……桜野さん」


 心の底から感心したような紅に、桃香は恥ずかしそうに頭をなでた。


「いやぁ……私ってほら子どもっぽいでしょ? ちっちゃい子と同レベルで話せちゃうのが特技なんだよね……」


「いや、凄いと思うよ」


 照れ隠しを言う、桃香に紅は茶化すことなく真剣な顔をしていった。


「子どもを泣き止ませることだけじゃなくて、あの場ですぐに駆け寄ったその優しさが、凄いと思う」


 紅の真摯な対応に、桃香は今度こそ恥ずかしくなったのか、声も出せずにうつむくように顔を伏せた。

 きっと、どういう顔をしていいのか分からずにいるのだろう。

 俺は付き合いが長いからわかる。


 わかるからこそ、悔しかった。

 いつもは笑顔でそれとなく照れとかそう言う感情を見せないように、している桃香が、ぐうの音も出ないほど照れている様子が、悔しかった。


 誰かを桃香が好きだといったのも、今回が初めてだったし。

 俺は、紅に対してとてつもなく悔しい思いでいっぱいだ。


 そして、隣で黙り込んでいる霧島も、俺と同様に悔しい気持ちなんだろう。

 さっきから何もしゃべろうとしない。


 そうこうしていると、桃香と紅はどちらからともなく手を繋ぎ、歩みを再開した。


 俺と霧島は会話をすることなく、二人の後を追った。

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