惨劇
六月中旬のある金曜日、篠突く雨の中でひとり、私はある男を待っていた。
上旬に梅雨入りが発表されてからの二週間ほどは、ほとんど毎日が雨模様であった。よしんば雨がやんだとて、空は大抵厚い雲に覆われていたので、街は日の光を忘れたようにすっかり冷え込んでいた。五月のあの暑さは欠片も残っていなかった。
「――二十二時か。そろそろだな」
袖から覗かせた腕時計をちらりと見て、ひとり呟いた。
煌々と周囲を照らす電飾と、その間にぽつぽつと点在する、少しばかり時代遅れのネオンライトたち。遠くから見ると、それらはまるで光の海であった。
私の他にも、この歓楽街の路上には多くの人々がたむろしていた。彼らの待ち人は、通りに出てきた不特定の人々である。そう、彼らは客引きであった。
私は彼らから声をかけられるのも煩わしいと思い、彼らに擬態していた。黒いレインコートを着込み、髪はワックスで強めに整える。さらに黒の傘を差せば、どこから見ても、客引きのうちの一人である。この策は功を奏したようで、すでに二時間ほど道の端に佇んでいたが、誰からも話しかけられずに済んでいた。
やがて、五メートルほど離れた先にある居酒屋の暖簾が揺れた。
出てきた影はひとり――待っていた男だった。
彼が、金曜の夜は決まってこの周辺で酒を飲み、その後電車で帰宅することは、それまでの数週間でわかったことであった。彼の勤め先もこの近くにある為、会社での飲み会などで来ることもあるようだったが、そういった集まりがなくとも彼はよく一人で飲みに来ていた。この日はそのパターンであった。
私は、駅の方に向かって歩く彼を背後から追いかけ、右隣にすり寄ると、
「お父さん、もう一杯いかがですか。今日開店したところなんで、お安くしときますよ」
と、腰をかがめて
「すまないが、あまり遅くなれないんでね。終電までそんなに余裕もないから、今日は遠慮しておくよ」
やんわりと断られたが、なんとか食い下がろうとする。しかし客引きなどにここまで丁寧な受け答えをする人間も珍しい。あるいは好人物なのかもしれない。
「いやいや、本当に一杯だけでいいですから。どの路線も終電までまだ三十分はあります。十分だけでもいかがです。いいお酒を揃えてるんですがね。ちょっと奥まったところにあるので静かなんです。穴場ですよ」
いくつか酒の銘柄を挙げてみたところ、彼は少し興味を覚えたようだった。
「それじゃあ、一杯だけ寄っていこうかな」
私は「それでは」と承って、露地の方に先導していった。
歓楽街とは言っても、大抵は露地の方に入っていけば、暗く、静かになっていくものである。喧騒は遠い海鳴りのようになっていったし、視界は水底に潜っていくようだった。月明りでもあればまた違ったのだろうが、その夜は生憎の雨模様。不規則に設置され弱弱しく点滅する街灯以外に、その闇を照らすものは何もなかった。
勢いは少し弱まったが、それでも雨はしとしとと降り続けている。
「少々暗いので、足元に気をつけてください」
「大丈夫だよ、ありがとう。それにしてもこんな路地裏の方にもお店があるんだね。なるほど、穴場と言うのも頷けるよ」
「ええ、もう少しですよ。次のかどを曲がればすぐ、ですからね」
学校の廊下のように長く伸びる薄暗い露地を歩きながら、私の昂ぶりは抑えきれないほどだった。自然、声が上擦りそうになったが、それを懸命に抑えて雑談を続ける。
「それにしてもお父さん、終電を気にするところをみると、もしかして奥さんが厳しいんですか」
「ははは、そうだね。当たっているかもなぁ」
彼は苦笑いしながら頭を掻いた。
「私みたいなひとりものにはわかりませんが、家族ってのはやっぱりいいものなんですかねぇ」
「そうだなぁ、もちろん大変なこともあると思うよ。僕なんかは独身の頃、しょっちゅう飲んだくれていた。まさに今日みたいな日には、ね。あの頃は楽しかった。独身はとにかく制約があまりないのがいいんだ」
「でもね、家庭を持ってよかったこともあるんだよ」
彼はフッと、緩んだような
「――と、言いますと」
(……かちり)
「いやね、子供が二人いるんだが、特に下の子が可愛くてね。小学五年生の男の子なんだが、本当にいい子なんだよ。年齢的には反抗期でもおかしくないんだが、そういうところもなくてね。いまだに休日は遊んでくれとせがまれるんだ」
(……かちりかちりかちりかちり)
「子供を持つっていうのは特別なことかもしれないね。これは月並みな言い方だけど、今の僕は『幸せな家庭』を持っているんだ」
(……がりがりがりががりがりがりがりがりがりがりがりがりがり)
いつからであったろうか、気づけばどこかで聞いたような異音が鳴り響いていた。心臓は早鐘を打ち、冷静な思考は激しい衝動に塗り潰されそうになる。私は必死になってそれらを堰き止めつつ、なんとか紡いだ言葉を返した。
「そう、でしょうね」
かどを、
「――ユウは、可愛いでしょう」
曲がった。
*
私を目覚めさせたのは、ぐっしょりと濡れた髪から流れて頬を伝った冷たさであった。雨の中、私は傘も差さずに立ち尽くしていたのである。
ここはどこだったか……。
辺りを見回すと、三方を窓がない建物に囲まれた、路地裏の行き止まりであると知れた。外界と断絶し、外からの観測も難しい密室のような場所。無計画な開発の結果、産み落とされた空間の
壁のところどころには赤いペンキが無造作に塗りたくられていて、そこだけが暗闇に沈むことなく、鮮やかに浮かび上がって見えた。
光届かぬ深海に、
やがて目を足元に向けると、そこには私の大きなスーツケースが置いてあった。
「ああ、また新しい届け物か」
状況を理解した私は、ゆっくりそれを持ち上げてみる。ズシリとかなり重たく感じた。幸い、近くに車を停めてあったので、そこまで持っていって、あとは後部座席に乗せてしまおうと考えた。
一度スーツケースを開け、中から濡れた携帯電話を取り出す。家族に心配をかけまいと考えた私は、帰りが遅くなる旨のメールを妻宛に送った。とは言え、すでに寝ていたかもしれないが。
時刻は二十三時を少し回ったあたり。
私は濡れた手を拭ってフードを被ると、この異界を出ようと歩き始めた。しばらく行くと徐々に大通りの喧騒が聞こえてくる。
車に乗りこんで数秒ほど、次の目的地に向かうか、先に届け物を済ませるかで迷ったが、結局後者を優先した。届け物はこまめに消化した方がよいだろうと判断したのだ。次の用事の方は多少遅くなっても構わない、という考えもあった。
*
午前二時、雨はやんでいた。
近くに車を停めて降り、夜の
やがて辿り着いた家屋もすべての明かりが消えていた。二階建ての一軒家で表札には「冴木」の文字。子供たちは勿論、妻もすでに就寝しているものと思われた。
取り出しておいた鍵入れから、家の鍵を探した。真っ暗でよく見えなかったのだが、ほとんどの鍵になにか乾いた汚れがこびりついているのに気づいた。爪でそれらをこそぎ落としてから、おそらく正しいと思ったものを鍵穴に滑り込ませる。ドアを静かに開けながら中の様子を窺ったが、なにも聞こえてこなかった。皆寝てしまっていたのであろう。
屋内に入ってすぐ、そっと閉めたドアの内側から鍵をかけた。
浅くなりがちな呼吸を制御しようと無理やり深めの呼吸をしながら、忍び足でゆっくりと階段を上る。二階にあるのが子供たちの部屋だということは、すでに調べてわかっていた。
階段を上がってすぐの部屋。扉にはネームプレートが掛かっており、そこには「詩織」と書かれていた。部屋の主の名前であろうか。確かめるようにゆっくりノブを回してみる。
(……かちり)
鍵はかかっていなかった。少し開けてみると、ふわりと
(……かちりかちり)
女の子の部屋だな――まずそう思った。
広い部屋ではない。それほど多くの人が入ったり、家具を置いたりすることは出来ないだろう。だが、よく整理されているせいか、それほど狭さを感じさせなかった。
(……かちりかちりかちりかちり)
入るとすぐに姿見の鏡が置かれていた。さらに行くと、机と小ぶりな衣装箪笥が置かれており、その横の壁には白と紺のシンプルなセーラー服が掛かっていた。
(……かちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかち)
部屋の奥に窓があり、その下にベッドがあった。窓は開いていて、入ってくる風が涼しく心地よい。ベッドには可愛らしい人形やぬいぐるみに埋もれて、女の子がひとり、静かに眠っていた。
(……がりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがり)
彼女は急に目覚めると、最初こちらを驚いたような目で見上げた。やがてその顔に
「――――」
なにかを叫ぼうとするように口を動かすが、声は出なかった。激しいが虚しい口の動き。
声が出ないのは、私が彼女に覆いかぶさるように跨り、首を絞めつけているからだった。なんとか脱出しようと暴れもがく彼女を抑え込みながら、私は絞めつける腕にさらに力を込めた。
ぎしぎしと激しく軋むベッド。彼女が助けを求めて壁を叩く音。食い込んだ爪が皮膚を少し抉るような感触。窓から差しているわずかな明かりが、彼女の顔を薄明るく照らし、そこに存在する恐怖と憎しみを浮き上がらせた。そこには紛れもない断末魔の苦痛が刻み込まれていた。
大きく開かれた双眸から二条の雫が流れ落ちると、彼女の肉体からは力が喪われ、その
(……がりがりがりがりがりがりがりがり)
異音は少し落ち着いたものの、依然鳴り続けていた。それもそうか。当然なことだ。私はその異音の正体を、この時ようやく理解しつつあった。
この音は私の憎悪なのだ。もしくはそれに端を発する暴力的な衝動であり、殺意の表出なのだ。この音を完全に消す方法など、もはや考えるまでもない。
「あと一人、か……」
意図せず、言葉が漏れた。
「シオリ、どうかしたの。なにか二階で大きな音がしたけれど」
私は階下から足音と共に聞こえてきた女の声に、一瞬びくりとした。先ほどの物音で起こしてしまったのだろうと考えた。階段を上る音が徐々に近づき、さらに呼びかける声。
「シオリ、聞こえないの」
咄嗟に私は腹をくくった。多少の危険性もあるが、現状これが最善手であろうと考えた。決断を下すなり、私は扉の陰に潜み、そこで息を整えつつ腰回りを探った。
声はおろか息すらも押し殺して、待つ。待つ。握りしめていたのは、煌めく白刃。
「開けるわよ」
扉が開いた。彼女はしばらく室内の様子を窺うと、ベッドの上の異常に気づいたようだった。娘の死体に駆け寄ると、しばらく揺すりながら声をかけていたが、やがてベッドの横にへたりと
(……がりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがり)
心臓の鼓動と共に、一際大きくなった異音。逆手に持ったナイフに力を込め、背後から喉を掻き切った。女の喚く声は嫌いだからである。代わりに聞こえたのは、ごぼりと口から溢れる水音。
続けて背中を何度も刺した。何度も何度も振り下ろした。勢いよく飛び散る血は、偏りなく容赦なく、周囲を
やがて彼女が事切れて、死んだ娘に折りかさなって倒れた時、見下ろす視界は累々たる、
しばらく呼吸を整えると、私は隣の部屋へ向かおうと歩き出した。部屋を出る直前、姿見に私自身が映される。
あちらの私はどういうわけか、笑みを浮かべているようだった。
*
隣を見ると、ユウがすやすや眠っていた。水色のパジャマに包まれたその薄い胸が、絶えず静かに上下している。
幸せな時間であった。窓を開けると夜風が心地よかった。
しばらくすると、ユウが目覚めた。瞼をこすりながら、怪訝な顔で私を見た。
「お兄ちゃん、どうしたの。ここはどこ。どうして車に乗っているの」
「ユウ、これからはお兄ちゃんと一緒に暮らせるんだよ。今から最後の届け物を済ませたら、僕の家に行くんだ。そこでずっと一緒に生きていこう」
私は喜んでいたし、ユウも喜んでくれると思っていた。なにしろ本当の家族、血を分けた兄弟と一緒に暮らせるのだ。こんなに喜ばしいことはないはずだった。だが、ユウはどういうわけか、難色を示した。
「どうしてコウイチお兄ちゃんと暮らすの。ユウにはお父さんとお母さんとお姉ちゃんがいて、その家族で暮らしていたいのに」
「ユウ、どうしてそんな聞き分けのないことを言うんだ。ユウの家族はもうお父さんもお母さんもいない。四月の末に二人とも亡くなったんだ。それに、ユウにはお姉ちゃんじゃなくてお兄ちゃんがいるだけじゃないか」
私は少し叱るような口調でユウをたしなめた。だがユウは、なぜか一層怪訝な顔をしてこう言った。
「お兄ちゃんはなにを言っているの。ユウの家にはずっと、お父さんもお母さんもお姉ちゃんもいるよ」
「わかった、わかった。少し静かにしていなさい。また後で、ゆっくりお話しよう」
私はこう言ってユウを黙らせると、ひとり考えた。
ユウがまさかこんな風に駄々をこねるなんて。どうしたことだろう。あんなに優しい子だったのに……。もしかしたら反抗期なのかもしれない。きっとそうだ。そうでもしなければ、家族と一緒に暮らせることを嫌がるはずがないのだから。なににせよ、家に帰ったらよく言い聞かせてやらなければ。
午前四時過ぎ、目的地に着いた。ここは
急がなければ。あと僅かで日の出時刻であった。すでに東の空が少し白みはじめていた。私はユウに車で待つように命令すると、後部座席から大きなボストンバッグを二つ持ち出した。すると、バッグの底に潰されて付着していたのだろうか、枯れた花の欠片がパラパラと舞った。茶色く褪せた、薔薇の残骸。
この時の私はどうしたことか、その花をいつ、どうして買ったのかということをまったく思い出せなかった。
両の肩に一つずつ荷物を下げ、そばの林に分け入った。しばらく行くと小さな窪地がある。この二か月間、私はしばしばここまで届け物をしに来ていた。
窪地の端に到ると、バッグを地面に下ろし赤黒く染まった中身を取り出した。どさり、とそれらを窪みの中に放り込んだ。同じような物体が、全部で五つ、窪みの底に累々と転がった。
「お兄ちゃん、今投げたものはなに……」
ハッとして振り返ると、そこには大きな目をさらに見開いてこちらを見る、ユウの姿があった。
「ユウ、どうしてお兄ちゃんの言う通りに車で待っていないんだ。どうして素直に言うことを聞けないんだ」
私の叱る声を無視して、ユウは窪地に走り、そこにある残骸たちに駆け寄った。
「――――」
ユウは声ひとつ出さず、その場にうずくまった。近くに寄っていくと、どうやら嗚咽まじりに泣いているようだった。ユウの年齢を考えれば、それも無理からぬことだった。やがてユウは向き直ると、目に涙を溜めながら、ぎりりと鋭くこちらを睨みつけた。
(……かちり)
なにかに似ていると思った。私を見据えたその目が、だ。私はその既視感を記憶の海に辿った。なんとか掬い上げられないだろうか。
まず思い出したのは、つい先刻のことだった。首を絞めあげられながら、こちらを見返す女の目、目。そこに映った、私の姿と憎しみの色。
だが、これだけではないと思った。もっと以前にも、この目を、この色を、この涙を、私は見たことがある気がしていた。
(……かちりかちりかちりかちり)
いつの間にか、あの音がまた鳴り始めていた。もう聞くことはないと思っていただけに、私は少し驚いた。
その時、木々の間に一条の光が差した。雲が流れ去った東の空、そこに横たわる山の稜線から、太陽が僅かにその顔を覗かせていたのである。辺りが徐々に明るくなり始める。
同時に、私は記憶の断片を探り当てた。
(……かちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかち)
あれは、四月の末の早朝、場所は我が家の一室だった。
床に転がった父の遺体。周囲には
やがて扉が開き、母がやってきた。血相を変えて私を問い詰める。私がわけを話すと、半狂乱になった母は、金切り声でなにか喚いた。
「ユウは六年前のあの日に死んだのよ。何度言えばわかってくれるの。いつまでもその事実を受け容れられないばかりか、本当のことを言ったお父さんを殺してしまうなんて。……あなた狂ってる、まともじゃないわ。狂人、そう狂人よ、
意味不明なことをまくしたてる母。完全に狂っているようだった。
手に持ったナイフが、彼女に吸い寄せられるように持ち上がる。
「私も殺すのね。ええ、殺せばいいわ、もうお父さんと一緒に逝かせてちょうだい。そうすればまた、あの子とも一緒になれるわ。
こちらを見据える母の目、目。そこに映った、
(……がりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがり)
そうか、あの目だ。どうしてすぐに思い出せなかったのだろう。二重瞼の美しい目に涙を溜めて、ぎりりと鋭くねめつける、あの激しい眼差しを。
どれほどの時間がそこで経ったのか、私には未だによくわかっていない。
意識が現実に立ち返ると、世界は静けさを取り戻していた。早朝の山の穏やかな空気。やがて聞こえてきたのは、そこかしこで囀る鳥たちの声。
窪地に差し込んだ光に、
「さあ、僕らの家に、一緒に帰ろう」
私は
この日から、私と
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます