反転

 ユウは私の実の弟だ。今年で十一歳になる。兄の私は二十一歳だから、十歳差。かなり年の離れた兄弟と言えるだろう。


 私達兄弟は、昔は一緒に暮らしていた。ユウは同じ親から生まれながら、私とはあまり似ていなかった。私が取り立てて誉められるところのない、凡庸で冴えない容姿なのに対して、ユウは幼いながらも目鼻立ちが整った、一般に言うところの美少年であった。私が父親に似たのに対して、ユウはおそらく母親に似たのであろう。


 透き通るような白い肌。

 肩口あたりで詰めた、深い濡羽色ぬればいろの髪。

 二重瞼で、惹きこまれるような大きな目。

 あどけなさを残した、鮮やかな朱色の唇。


 あの頃ユウを見た大人は、誰もが驚いていたのをおぼえている。ユウはとても中性的であったから無理もない。


 私にとって、ユウは可愛い弟であった。もし私達が年の近い兄弟であったなら、私はユウを妬んで、幼い兄弟姉妹にありがちないじめなどをしていたかもしれない。だが、年齢差のお蔭をもってというべきか、私にとってユウは、一種の保護欲をすら感じさせる存在であった。私はユウとよく遊んでやったし、ユウの方も私によくなついていた。私を見上げるその純真無垢な笑顔を見て、私が守ってやらなければ、と幾度となく思ったものである。こう考えると、私は兄というより親のような感覚でユウと接していたのかもしれない。


 しかしそんな幸せだった日常は、六年前の夏、唐突に終わりを告げた。兄弟は引き裂かれ、私にはユウのその後の行方すら知らされなかったのである。


    *


 私がユウと再会したのは先月の初め、五月上旬の土曜日のことだ。まだ五月だというのに気温が三〇度に迫ろうかという猛暑日で、太陽はジリジリと照りつけ、路上には陽炎が揺れていた。


 昼下がり、私は岩戸山いわどやまの某所まで届け物があり、市街地のいた道を車で走っていた。後部座席にはその届け物が入った大きなスーツケースが積んである。市街地から目的地までは片道一時間ほど。ちょっとしたドライブだ。ラジオをつけると女性の声で物語の朗読が流れていた。これは、子供向けの教育番組であったと思う。



「父鳥と母鳥は口々に、『大人になった鳥は独り立ちしなければなりません。兄弟はそれぞれに旅立ち、それぞれに家庭を持って生きていかなければならないのです』と言いました。


 鳥の兄弟は仲良しでした。離れたくありませんでした。彼らは、一緒に生きていきたいという想いと鳥の掟の間で悩み、苦しみました。


 悩める兄弟を見かねてか、あるフクロウが言いました、『大昔、海を隔てた遠い国に、比翼ひよくの鳥がいたという。片方の翼しか持たない二羽の鳥が、寄り添い助け合って飛び、一羽の鳥として生きていたということだ』と。


 兄弟鳥は決めました。自分たちはその『比翼ひよくの鳥』として生きていこうと。

 兄鳥は左の翼を、弟鳥は右の翼を切り落とし、二羽ぴったりと寄り添いました。


 こうして兄弟鳥は、病めるときも健やかなるときも共に在り、満ち足りた幸福な生涯を送ったのでした……」



「――『比翼ひよくの鳥』、か……。おや、あれは……」


 ハッと驚いた私はブレーキを踏んで減速し、ゆるゆると車を徐行させた。

 この時私の目は、ある一点に釘付けになっていた。私から見て左側の歩道を、こちらに向けて歩いてくるひとりの少年。制服を見るに、おそらくこの近所にある御船みふね小学校の生徒だろうと思われた。クラブ活動の帰りなのか、体操靴の袋をさげている。

 やがて距離が縮まるにつれて、私が抱いた直感は、強い確信に変わった。


 透き通るような白い肌。

 肩口あたりで詰めた、深い濡羽ぬれば色の髪。

 二重瞼で、惹きこまれるような大きな目。

 あどけなさを残した、鮮やかな朱色の唇。


 あの頃と比べれば背格好は変わったが、あの子は紛れもなく弟のユウではないか。

 私は車を路肩に寄せて停止させると、窓を開けた。


「おーい、ユウ。ユウじゃないか」


 少年はあたりをキョロキョロと見回して、私に呼ばれたのだと気がつくと、車のそばまでやってきて、私をまじまじと見つめた。


「おにいさん、だあれ。なんでユウの名前知ってるの」


 私は今にも泣きだしてしまいそうだった。その子は、やはり弟のユウだったのだ。

 その前月の末には両親を亡くし、ひとりぼっちになった矢先でもあった。その境遇も手伝ってか、もう会えないかもしれないと思っていた実の弟との再会に、私はなにかしら、運命のようなものの存在を感じていた。これからは兄弟仲良く助け合って暮らしていけということではないか。


 しかし、ユウは私のことをおぼえてはいないようだった。さもありなん、なにしろ六年ぶりの再会である。それより以前に一緒にいたのはユウがまだ五歳の頃であったし、私の見た目も随分変わっていたのであろう。


「僕の名前はコウイチ。ユウのお兄ちゃんだよ。六年前まで一緒に暮らしていた――おぼえてないかい」

「コウイチお兄ちゃん……。うーん、思い出せないや。ごめんね」


 ユウは心底申し訳なさそうな顔をしていた。昔と変わらない、優しい性格のまま成長したのだろうと思われた。


「帰ったら、コウイチお兄ちゃんのこと、お母さんに聞いてみるね。ユウもなにか思い出せるかもしれないし」


 お母さんという言葉に一瞬違和感を持ったが、この六年間ユウを育ててくれた人を指しているのだろうと私はすぐに理解した。そういう事情であれば、その方から事情を聞かされた方がユウも理解しやすいに違いない。


「ありがとう。今夜にでもお母さんに聞いてみてね。ユウが昔のことを思い出したら、お兄ちゃんとまた一緒に暮らそう」


 再会した日からすぐに同じ家で一緒に暮らす、というわけにはいかなかった。何事も準備というものが必要だし、ユウにはその時暮らしている家があった。それに私としても、ユウをここまで育ててくれた方にお礼をしたいという気持ちもあった。


 この日は結局、次に会う日にちと場所を約束するだけで別れた。一週間後の土曜日、同じ時間に同じ場所だ。ユウには、今度は私の家に引っ越す準備をして、お母さんと一緒に来てほしいと伝えた。少し怪訝そうな顔をしたが、お母さんにお礼をしたいと伝えると納得してくれたようだった。


 別れ際、車のバックミラーには、私の車が見えなくなるまでずっと大きく手を振っているユウの姿が映っていて、その可愛らしい様に、私の目頭はしらず熱くなっていた。


「さて、忙しくなるぞ」


 私はひとり呟いた。

 私はもうすっかり、一週間後からユウと二人での新生活を始めるつもりになっていた。運転しながらも、脳内ではユウとどのように暮らしていくかの未来図を描き始める。まず思い至ったのは、家の掃除をする必要があることであった。当時、両親が亡くなったことに関連したで、家の中はかなり散らかっていたのである。考え始めると、無駄にしていい時間などまったくないように思われた。やるべきことは山積している。


「とりあえず、この届け物を早く済ませてしまおう」


 岩戸山いわどやままで続く国道○○号線に出ると、アクセルを強く踏み、スピードを上げた。エンジンの振動がなんとも心地よく感じられた。


    *


 一週間後、私は約束の場所まで来ていた。ユウの姿はまだなかった。

 少し早く着きすぎたか、と考えながら空を見やる。先週の快晴とは打って変わって、その日はどんよりとした曇り空であった。外出前に見た天気予報によれば、地域によっては急な雨が降るかもしれないということであった。雨が降る前に来てくれるといいが……。


 ちらりと後部座席に目をやると、そこにはユウに贈る花束が置かれていた。目に鮮やかな緋色ひいろの薔薇である。来る途中で買ってきたものであったが、いざ落ち着いてくると少し気恥ずかしくも感じた。だが、これから一緒に暮らそうという節目の日に、私はユウに対する感謝や想いを、なんとか形で示したかったのである。家ではユウを歓迎する準備もしてきていた。夜には兄弟水入らずで、語り合うつもりだった。


 ……ぽつり……ぽつりと、車の窓が叩かれる音。

 物思いにふけっていた私は、車の窓に落ちた雨の音でフッと我に返った。予報の通り降ってきたのである。雨の勢いはみるみる強くなり、やがてざあざあと降る大雨になってしまった。


 その日、ユウはその場所には来なかった。四時間待った私は、こんな大雨では仕方ないと、自らを慰めつつ帰路についた。明日はきっと来てくれるだろう。明日もまたここで待つことにしよう。


 しかし、翌日もユウは現れなかった。その日も生憎の雨模様であったのだ。それでも私は約束の場所まで出向き、車内でずっと待っていた。私は雨を恨めしく思うと同時に段々と不安になってきていた。ユウの身になにかあったのではないか。もしくは、ユウがここに来ることができないような状況が発生してしまったのだろうか、と。


    *


 次の日、太陽が低くなり、街が緋色ひいろに染まり始めた頃、ユウはそこへ来てくれた。道の向こうからその姿が見えると、私は大きく息を吐きながら運転席にもたれかかった。もし来てくれなかったらどうしようかと思っていたのである。二日越しの不安は大きな安堵に変わり、一瞬身体を重くした後で心を浮き立たせた。


 しかしどうしたことであろう。心なしか、ユウの表情が曇っているように見えた。二日間、ここに来なかった為に私が怒っていると思っているのだろう。そう考えた私は、早くユウを安心させてあげたいと思った。ユウの美しく可愛らしい顔に、あんな表情は似合わないのだから……。

 車のそばまで来たユウは、私が窓を開けるやいなや、私に向かって頭を下げた。


「ごめんなさい」


 その目にはうっすらと涙が溜まっていた。

 ああ、ユウ。そんな目をしないでくれ。お前にそんな顔はしてほしくないのだ。


「ユウ、いいんだよ。僕は、この二日間、ユウが来なかったことなんて、これっぽっちも怒っちゃいない、本当さ。昨日まではあんなお天気だったからね。出てこれなかったのも仕方ないことさ」


 私はそう、微笑みかけた。だが、ユウの表情は変わらず、さらに首を横に振りながら「違うの」と言った。


「そうか、まだ引っ越しの準備ができていないことを謝ってくれているんだね。そういえばお母さんもいないものね。そんなことは些細な問題さ、気にすることはなにもないんだよ、ユウ。一週間はちょっと急だったかな。ゆっくりでいいんだ。僕と一緒に暮らし始めるのを、そこまで急ぐ必要はないのだから――」


 ユウを安心させようと必死で言葉を紡ぐ私に、ユウは一層沈んだ声でこう告げた。そして、であった。奇妙な、それでいてどこかで聞いたような音が鳴り始めたのは。


                               (……かちり)

「違うの、コウイチお兄ちゃん。ユウはもうお兄ちゃんと一緒に暮らせなくなったの」

                            (……かちりかちり)

「あの日ね、帰った後お母さんに聞いてみたの。お兄ちゃんが話してくれたこと」

                      (……かちりかちりかちりかちり)

「そしたらね、お母さんたらユウの肩を掴んでお兄ちゃんのことを色々質問してきたの。変だよね、昔のことおぼえてないユウにそんなこと聞くなんて。手も震えてたしさ」

          (……かちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかち)

「それでお母さん言ったの。そのお兄さんには絶対ついていっちゃダメだって」

       (……がりがりがりがりがりがりががりがりがりがりがりがりがり)


 ユウが言葉を紡ぐにつれて、聞こえてくる異音は加速し、より大きく、より暴力的になっていった。この音がいったい何なのか、どこで聞いた音であったか、この時の私にはどうしても思い出せなかった。なんとなく不吉なもののようには感じたが。


 体内の血液すべてが沸騰し、さかのぼっていくような感覚。

 肉体が、冷えきった虚空こくうの穴に落下していくような感覚。


                           (……おぉ――――ん)


 刻むような音が過ぎ去ると、一瞬の静寂せいじゃくの後、遠くから地を這うような、低く長い音が聞こえてきた。いつの間にか辺りは真っ暗闇だった。視界が失われていた。今やユウがそこにいるということも、何かを喋っているその声でしか認識できなかった。


 外界から隔離されたエレベーターの胎内で、上下いずれに向かうかも知れず、ただただどこか深みに吸い込まれていく、そんな感覚。


「ユウね、お兄  んと暮 すの いい なって思 てた   ――本当だよ。

   ね、ユウは今の家 がすごく   んだ。

 お父 んは  に るし、お母さ は っても しいし。

  姉ちゃ も    意地悪だけ 、本当 ユウを大切に  てくれ  し」

 ユウの言葉はところどころ、虫に食われたように穴が開き、どこか彼方から聞こえてくるように感じられた。

                           (……おぉ――――ん)

                              (……がこんっ)


 どこかに着地したかのような、唐突な縦揺れ。時を同じくして、唸るような通奏低音が止むと、世界はその本来の姿を取り戻した。すると、それまでとは打って変わった明瞭さで飛び込んでくるその宣告。


「……だからね、ユウはやっぱりお兄ちゃんとは一緒に暮らせないの」


 咄嗟に出かけた「なぜ」という問いは、目に飛び込んできたユウの、その悲しげな面持おももちに押しとどめられてしまう。


「本当はね、もう二度と会っちゃダメだってお母さんに言われたんだ。だから、もうこれからは会えないと思う」


 ユウ、どうして一緒に来てくれないんだ。私たちは二人だけの兄弟なのに。


「あまり遅くなるとみんなに心配されちゃうから、もう行くね」


 みんなって誰だ。ユウにはもう私しか、本当の家族はいないじゃないか。


「ごめんね、お兄ちゃん。……さようなら」


 行かないで、私を置いて行かないでくれ……。


 ユウは小走りで離れていった。

 引き止めたかったのだが、私の口からは言葉にならない呻きしか漏れてこなかった。喉で詰まって出ていかない言葉たちは代わりに私の頭の中に流れ込み、混ざり合ってとぐろを巻き、やがて心に沈殿して、どす黒い腐葉土となった。そこからは蛹のような、卵のようななにかが、モゾモゾと蠢きながら現れた。


 フラッシュバックする、ユウの悲しげな顔。

 そうだ、ユウも私と一緒にいたいに違いない。それが叶わないから、あんな悲しそうだったのだ、そうに決まっている。

 推測は瞬く間に確信に変わり、私を次の思考の階層へ押し上げた。


 私とユウが一緒になることの障害となっているものはなんだ。それはユウの今の家族、だ。もしかしてそいつらは、六年前にユウを誘拐したんじゃないのか。六年前のあの日、ユウの行方を訊いた私に、両親は詳しいことはなにも答えてくれなかった。以来、私は、両親がユウをどこかにやってしまったのだと思っていた。でも両親すらユウの行方を知らなかったのかもしれない。なるほど、きっとそうなのだ。私はユウをそいつらから取り戻さなきゃいけない……。


 入道雲のように、加速度的に膨れ上がった思念は、今まさに生まれてこようとしているモノに、なにか一定の方向性を与えたようだった。それはより一層激しく蠢いたかと思うと、その背がぱっくりと割れた。


 花が日の光に向かって開くように、卵が世界を見たいと孵化するように。


 そこから現れたのは、美しくも妖しい紋様がはねいっぱいに描かれた――異様なことに、闇夜のような濡羽色ぬればいろの――アゲハ蝶であった。


 ぬらりと艶めくそのはねが、ゆったりと開閉する。

 セカイの虚と実の輪郭がぼやけ始め、ワタシの表と裏が溶け混ざっていく。

 平衡感覚を喪い、一瞬クラリとした。頭を振ってそれを払おうとする。


 やがて蝶は二、三度大きく羽ばたくと、去った小鳥のあとを追って、黄昏の街を縫うように、ゆらゆら飛んでいったのだった。

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