陰陽の宴
ヘィベルの演説を余所に、ヴィシルダは侍従を捕まえて耳打った。
「火を用意しろ、
「か、畏まりました!」
「万一の時は、この大部屋ごと焼き払ってくれるわ」
レオとティグリスが先鋒に立ち、ヘィベルと何やら言い争っている様を、ヴィシルダは背後から眺める。彼らの表情やヴィシルダ側への合図が無い事を見遣るに、意図した時間稼ぎでは無いと思われるが、そこは重要では無い。これを存分に利用させて貰い、態勢を整える事とする、ヴィシルダは次にニヴァーリを手招いた。
未だ料理を咀嚼しつつ近寄ってくるニヴァーリへ、北方の壁、丁度、ヴィシルダが用意させた椅子の背後になる辺りを叩いて示す。
「ニヴァーリ、ここに穴を開けろ」
「ういっス」
ヴィシルダの要求に対し、間を置かず頷いたニヴァーリは、天から舞い落ちる羽根を想起させる儚げな手付きで、土壁を撫でた。すると、忽ち土気色の壁は青々とした深緑へと変色を始め、
背後に見ていた侍従などからしてみれば、劇的にも映る光景であったが、既に幾度か目撃しているヴィシルダに取っては、途轍も無く
「者共、掛かれ!」
「ヴィシルダ王子を守護しろ!」
漸く“人”が屈んで通れる程の大きさが出来上がった頃、大部屋の中心では両者の決別が確固たる物となっていた。待機していた兵たちが否応無しに色めき立つ。半円を描く
ヴィシルダは、彼らを暖かく迎え入れ、椅子の裏へと招く。
「カルーニアの方々、どうぞ
「ヴィシルダ王子、これは……」
「見ての通り、さぁ、逃げましょうぞ」
戸惑う
壁を潜ると、月だけが輝く夜空がヴィシルダを包んだ。壁をひとつ挟んだだけで、戦の喧騒は随分と遠くに感じる。大部屋の裏手は何も無い砂地が広がっており、話に聞く未開発地帯だろうか、とヴィシルダは思考する。
兎も角、ひとまずは身を隠さねばならない。土地勘のある
「ヴィシルダ王子。どうやら、奴は根回しを怠っていた様です。彼らとも話しましたが、入念な準備の跡は伺えません。他のカルーニア兵を動員できれば、鎮圧は容易でしょう」
「左様か」
「今は我々の持つ隠れ家のどれかに参りましょう。狭い
「構わん。最悪、港を押えられなければ、ファートへ逃げられる」
ヴィシルダは後方に開いた穴を見遣る。穴を通って傭兵共が来る気配は無い。だが――
ヴィシルダは緊張感の欠けるニヴァーリを捕まえた。
「ニヴァーリ、逆賊の中に件の奇縁持ちが居た。お前も応援に――」
それは、一瞬の出来事だった。
ヴィシルダは最後まで言葉を述べる事が出来ず、ニヴァーリはその言葉に顔を顰める事も出来なかった。そもそも、反応など出来る筈も無いのだ。何しろ、“青緑のそれ”はニヴァーリの胸元に突き立てられるまで、誰の眼にも“不可視”だったのだから。
ニヴァーリの口中からくぐもった声が漏れ出る。
「ぐぅぅ……」
「触手ッ!ビジャルアが追って来たか!」
ヴィシルダが手元の松明を構えた。炎で円の軌道を描く松明は、気色の悪い触手を地に叩き落とさんと振り下ろされる。触手は松明の先端に燃え盛る火を避け、音も無く血を振り払いながら脱出、夜の帳へと溶け入った。
月だけが
――逃走は叶わぬか――
ヴィシルダは八つ当たり気味にニヴァーリへ問い掛けた。
「ニヴァーリ! 生きているな!?」
「急所は……外れてるっス」
「ならば――!」
「……分かってるっス!」
「良し!」
ニヴァーリは胸元を押え、地に
「ニヴァーリ殿、大丈夫で――」
「寄るな
ヴィシルダは手隙であった巨人の
――決して、お姉様の邪魔立てはさせない――ミネアは、大部屋に
――お姉様の御言葉を借りるならば、これも『縁者の甲斐性』――
そう思い、擬態させたビジャルアをこそりと伸ばしていた所、案の定、ヴィシルダがニヴァーリを差し向けようとしていた。故に、ミネアは攻撃の指示を出したのだ。これで、当初掲げた足止めの目的は果たしている。
ニヴァーリへの刺突は急所を僅かに外れており、それ故か死んでこそいないものの、その身体は未だ地に蹲って動かない。ヴィシルダは油断なく鎖を構えて辺りを見回しているが、その方向は暗闇、上への意識は欠片も見られない。それは
そう、足止めの目的は既に果たしている。だが、別に殺したとて問題は無いのだ。ヴィシルダの首は勿論の事、
――そうと決まれば
然し、獲物を前にしたミネアの
蹲るニヴァーリの頭部が幽鬼の様に
その時――目が合った?――ミネアは地上に蹲るニヴァーリの
ビジャルアは尚も蠢く。
「ミネア! 飛べ!」
「馬鹿、喋るなって――!」
ミネアの小言はヴィシルダの放った鎖の投擲で飲み込まれた。
――何ッ!――動転の眼前に、廻転を加えられた先端の錨が躍り出る。一体、
ヴィシルダの顔が愉悦に歪む。
――先端の錨に明確な手応
「
「空中っス!」
「うおおおおおおお!」
ヴィシルダはらしくも無く雄叫びを張り上げ、
空中で猛烈に身体を牽引されるミネアは、左
ビジャルアは擬態の維持を優先して動かず、ミネアの身体は受け身も満足に取れぬ
「落ちたっス!」
「それくらい、音と感触に感ずるわ!」
「まだ動いてないっスよ!」
――完全に動きが割れている!――彼らの必死の叫びがハッタリなどでは無い事は、ミネアの左脚に
他国より流れ着いた曲刀を地に突き立て、根深く生えた“雑草”を
「なッ、カルーニアに“草”だと!?」
まさか!――ミネアは首を思い切り
――ならば、これ以上の隠密は無意味――ミネアはひとつの決断を下す。
「びしゃびしゃ! 左脚を切り落とせ! 擬態が解けてもいい!」
「了解!」
ミネアを包んでいたビジャルアが
膝下に刳ったまま飛んでいく錨を視界に捉え、ミネアは笑みを深める。然し、この動きはヴィシルダに取って予想の範疇であった。
「甘いわ!」
ヴィシルダが右手に握った鎖を思い切り振り下ろす。鎖を伝わる力は減衰を見せず、先端に向かって直走る。その力はやがて錨にまで届き、宛ら蛇の如きうねりを見せたかと思えば、次の瞬間には斬り飛ばされた左
――畜生!――
ミネアは曲刀を地に突き立て、歯を食い縛る。
「クソッ! びしゃびしゃ、踏ん張れ!」
「やってる! けど、すげぇ力なんだよ! 持ってかれそうだァ!」
擬態を解いたビジャルアもミネアと同様に、乾いた地面に触腕の杭を打ち込んで抵抗を試みている。だが、ヴィシルダの手元に引き絞られてゆく鎖の力は、杭を打ち込んだ地面ごと引っ繰り返さんばかりだ。
「――じゃあ、踏ん張るな!」
ミネアは
「
状況に付いて行く事が出来ていない
――跳躍し過ぎたか――これ程までに高く飛び上がってしまっては、ミネアの曲刀は届かない。だが同時に、相手の攻撃も届かない安全圏とも言える。ミネアは右脚に触れた。
――刺突の合図――ビジャルアはその意図を察し、
攻撃を的中たらしめる要因の悉くが欠落しているが故に、刺突の雨は当然空を切る。数少ない的を射た軌道もヴィシルダが手繰る鎖によって防がれ、皮膚を数箇所ほど掠めるに留まった。
この一合は互いに決定打を放てず、ミネアはヴィシルダの頭上を通過した。触手を回収したビジャルアが蠢く。
「ミネア! どうすんだ!?」
防御の為にヴィシルダの手が割かれ、水面へ引き絞られる力は“一時”停止していた。その隙を突いてミネア、ビジャルアは先程より
先の再現となるか――否、
――びしゃびしゃに取って、火は掠るだけでも致命的――
「分離して別々に戦えば、俺がヴィシルダぐらいはやってやる! そうしたら逃げられる!」
「――『分離して別々に』? 何を言っている。そんな物、以ての外」
ヴィシルダを殺せば――恐らくだが――奇縁は消失するだろう。だが、ミネアにはある予感が合った。
「分離すれば十中八九、私とびしゃびしゃのどちらか、乃至は両方が死ぬ」
ミネアは死を目前の物と捉えていた。ミネアはビジャルアにしがみつき、残された右脚になけなしの力を込め、地を掴む。
「この状況、私とびしゃびしゃが揃って切り抜けるには、二つの力を合わせる必要がある!」
「合わせるったって――」
「射出するんだよ!」
「お前、その脚でか!?」
ビジャルアの体組織が僅かに震えた。だが、ミネアの眼はどの角度から観察しても、本気の色しか見えない、映さない。
「びしゃびしゃ、山で戦った時も、食堂の時も、お姉様を投げた時も、化物とやった時ですら、ずっと――『手加減』してた。……そうでしょ?」
図星であった。ビジェイの種族は、身近な家畜との触れ合いで命の脆さを学ぶ。少し力の扱いを間違えただけで、生命は容易く壊れ
ミネアは激昂の中に気合を張り上げる。先程の自棄糞気味の叫びではない。魂の底から響く、不退転の覚悟に満ちた叫びだった。
「人はな、そんなに脆かねェんだよ! 残った右脚ぶち折るぐらいでやれや!」
「――ああ! もう、しらねぇぞ!」
その言葉を肯定と受け取り、ミネアは右腕を軽く上げた。右進の合図。
――ミネア、分かったぜ。けど、後で文句言うなよ――言葉も無く、ビジャルアはミネアの意図の大部分を察していた。これは、間に控える邪魔な
――行くぞ!――ミネアを中心に据え、ビジャルアは地を這って迂回を始める。地の草に両手を添えるニヴァーリは、与えられた役目を愚直にこなそうと、声を張り上げた。
「動き出したっス!」
「見れば分かるッ! ニヴァーリ、少し離れていろッ!」
「了解っス!」
だが、彼女達の姿が割れている以上、戦闘の心得に乏しいニヴァーリをこの場に留めていても仕方がない。ヴィシルダは彼を一旦、戦線から下がらせた。
動き出した彼女達を追い、
「なッ!」
驚愕するヴィシルダの視界に飛び込んで来たのは、
その刹那――アレは!――ヴィシルダの脳内に蘇ったのは、在りし日の死闘の記憶であった。この気配、悪魔の使いとの死闘が佳境に至った折、ハンナの身体を上空へ打ち上げた物に違いない。然し――何かが違う。あの折、彼奴は変色などしていなかった――ヴィシルダの背に冷や汗が吹き出る。
「『凝縮』、しているのか……?」
寸前、ビジャルアの体組織が輝きを放った様にも見えた。
――これをやると、体が半壊するから嫌なんだ――
曲刀を備えたミネアは弾丸。
触手の撃鉄が、今――落ちる。
思えば、ハイケスの裏門を蹴破ったハンナは、これと比べれば蠅も止まろう。
――
大陸伝来の曲刀が、密度の高い腰骨の感覚を感じ取った。ヴィシルダの右腰から、斜めへ、地に向かう角度で侵入した
ミネアの身体が顔面から地に激突。
曲刀の刃は共に地へと突き立った。
静寂が辺りを満たした様に思えたのは、ヴィシルダの錯覚である。此の場に於いて、ヴィシルダの聴覚だけが
――ニヴァーリ、何と
くぐもった音の中、ハルボルンに聞いた鐘の音だけが明示的に鳴り響く。
――ひとつは彼の地に渡り 半死半生に生きる道
――貴方は 死生の中間を彷徨い歩く事となる それでも
ヴィシルダが選択したのは半死半生に生きる道。
『死生の中間を彷徨い歩く事となる』彼/彼女がそう言った意味をヴィシルダが察するには、意識が暗転してゆく数瞬では不足であった。
ニヴァーリがヴィシルダへと駆け寄り、地に倒れ伏したその身を抱き止める。
奪われてゆく――何かが――流血に伴って溢れ出たのは――
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