二巡目のプロローグ その2
教皇区の周囲に隙間無く聳え立つ城壁、その南に、一筋の煙が立ち昇っていた。恐れ多くも、天下に轟くアレス教皇区付近で野宿とは、なんとも肝が座っている。本来ならば万死に値する蛮行。だが、か細い煙は夜の闇に紛れ、焚火の光量は木々の枝葉が覆い隠した。
南側、つまりロア山脈の方角、ここに火を焚く者が後ろ暗い者である事は確かだ。通行料を払えない者、検問に引っかかる者……『外周渡り』の道を選択する者は大半がこの二種。
ジェラルドは、その後者であった。
火を起こしたのは、碌に整備もされていないロア山脈の山裾を行く道中、その半ば。城壁はロア山脈を食う様にして建設されている為にその道程は起伏に富んでおり、決して楽とは言えない。
このジェラルドという男、何の考えも無く教皇区にまでやって来て、検問の手前で漸く、ここまで背負ってきた大きな『木箱』が検問に引っ掛かると気付いたのである。木箱は道中で調達した物であり、成人の体躯では屈んでも入れないが、解体したなら詰め込める程度の内容量だ。
驚くほどの計画性の無さ、以前のジェラルドからしてみれば考えられなかった事である。しかし、彼は「これもまた旅の醍醐味」と前向きに捉えていた。
あの日、生涯に於ける分岐点となるだろう、あの日。剣を取ると決めたあの時から、ジェラルドは無頼の身なのだ。微風に抗う根無し草となり、一路カルーニアを目指していた。
理由は単に“カルーニアを見たことがなかったから”、それだけである。
焚火から遠ざける様に下ろしていた木箱が、がたり、と動いた。彼は冷えた笑みで木箱に抱き付き、気色の悪い声音で囁く。
「火が……恋しいのかな……。当たりたいのかなぁ、ん……? マーシャ……」
まるで後戯の様相。事後に男女が囁き合い、乳繰り合うが如く、箱の表面を優しく撫でた。この季節の夜は長い。ジェラルドは木の根っこに寄り掛かって、箱を抱いた。
箱の上蓋を開けようと試みる、が、右手は目的を果たすこと無く、動作の途中で糸の切れた人形の様に、ピタリ、と止まる。
生命の息遣いを感じ取っていた。城壁とは逆の方角――南のロア山脈の方角で、がさがさ、とやる茂みから、ジェラルドは何者かの気配を感じ取った。
決して獣ではない。二足で地を掴み、ひたひた、と歩いている。
ジェラルドが薄暗い地面を探り、その指先に鞘の冷たい感触が触れた瞬間、二足のそれは焚火に照らされて姿を現した。
まずジェラルドが気付いたのは、それが衣服の一切を纏っていない、という事だった。小柄な体格。突けばそこからポキリ、と折れてしまいそうな程、華奢な骨格を風に晒し、色艶を失った金の長髪が申し訳程度に覆い隠している。その見た目は、まるで毛玉の様だった。
顔にかかる前髪が風に揺らぐ度、微かに覗く
この見立ては正鵠を射ていた。
この少女こそ、エルフの集落を追放された『リー・ラム』その人なのだから。
王国と帝国の領土は世界の全てを覆った訳では無いのだから、侵略の瀬戸際で支配下に置かれなかった諸種族の集落も、当然存在する。
王国北方の森林地帯。ここは大した資源が望めぬ上、爾後の侵略行為にも利用し難い立地、効率を考慮し侵攻を先延ばしにされ続けた地だった。その間にアレス教が侵略を止めさせた為、終ぞ王国の手に陥ちる事は無かった。
この森林地帯には、木に絡み付いた蔓植物の如く生きるエルフの集落が三つ存在した。その内の最北西に位置する集落が、ラムの生まれ故郷である。何を隠そうこの集落、世にも珍しいエルフの傭兵『リー・ウォーフ』を輩出した集落――の隣の隣の集落なのだ。
「ねぇ~、タール。また……
金の長髪を風に靡かせ、幼いエルフの少女が片言の
「うーん、いいぞ!」
「やったーい!」
僅かに悩む振りを見せてからの、即答だった。タールはせがまれるのを待っていた様ですらある。何度も何度も、タールが少女に繰り返し話した“リー・ウォーフ”の逸話は、話す度に色を変える芸の細かさが少女に好評だった。
タールは人語の言葉を用いて、時に激しく、時に面白可笑しく、ウォーフの逸話を語る。
「そこで、ウォーフは長の目の前でガブッ! と心臓を食い千切った訳よ~」
「マジでヤッちゃうのかっけぇ……! ウォーフの兄貴マジかっけぇ……!」
確実に悪影響を残しつつある逸話は、ウォーフを異端者として追放したあとも若者を中心に人口に膾炙していた。エルフ族の戒律という戒律を破った彼の生き様は、同じく戒律を疎ましく思う若年層に密かな共感と憧れを抱かせていたのだ。
そういった経緯もあってか、侵略に飲み込まれなかった集落の若者のエルフも、人族の言葉を戯れに習得していた。しかし、実際にウォーフ程
盛り上がる二人のもとに、良識ある“水差し野郎”の登場した。
「おいおい、ラムにあんま変なこと教えんなよ」
「へっ、煩いぜ水差し野郎!」
ラムはウォーフの逸話から台詞を引用して罵る。水差し野郎はラムを指差して言った。
「ほらみろ、もう影響されてんじゃねぇか」
「アハハ、大丈夫だって、
「えっ!? 他にもあるの?」
初耳である。ラムはてっきり
この青年タールにも最低限の良識はあり、本当に聞かせてはマズイところは削っていたのだ。その結果、話せる逸話は(この話もギリギリだが)この一つ絞られた。
タールがうっかり漏らした事で、他の存在を知ってしまったラムは当然せがんだ。
「話して話して話してよ~」
「さすがにダメだ。大人になったら教えてやんよ」
「ふ~ん、……あっそ~!」
タールの予想に反して、ラムはあっさりとひいた。不思議に思ったが、その思考は水差しの言で打ち切られる。
「そろそろ仕事しろよな」
「わかってるって」
「はいは~い」
ラムは仕事である作物の世話を終えると、大人たちに「遊んでくる」と告げて森にくりだした。根と根の間を走り抜け、枝葉を蹴散らす。暫く走ったラムが辿り着いたのは、集落から遠く離れた地、そこに建てられた『人間風』の建物だった。
叩き割る勢いで叩扉するラムを、一人の男が気怠げに出迎える。ラムがタールから聞き出す事に拘らなかった理由が彼だった。
「ベアル~、おっす~」
「なんだ、また来たのか」
ベアルはウォーフの信奉者を自称する異端者で、大っぴらに戒律を破っていないため“リー”の称号を冠してはいないが、エルフの大多数からは逸れてしまっている哀れ
な個だ。
「この近辺には近寄るな」と集落のエルフから言い含められていたラムだが、その持ち前の好奇心から数日前に踏み入り、ベアルと知り合ってしまっていた。
ラムはベアルが飲んでいた野草を煮出した茶を奪い取る様に飲む。
「ねぇ、ウォーフの話って肉食べたのだけじゃないの?」
「んー、ああ、聞きたいか?」
「聞きたい!」
ベアルに秘匿する良識はない。ついにラムは知る。良識の濾紙を通さない原色のウォーフを。
「エルフの戒律における三大禁忌は言えるか?」
「え~っと、肉を食べちゃダメってのと、自分の血を流しちゃダメってのと、後は――知らない」
「教えてねぇんだろうな。肉食の禁、流血の禁、最後は姦淫の禁だ」
「かんいん?」
ベアルはエルフの者にあまり見掛けない髭を揺らして笑った。
「エロい事」
蛮骨であり野卑。獣肉を常食している為か他のエルフより太く、ぼうぞく的な腕がラムの肩を掴んだ。……この事は、次の朝には集落中に広まっていた。断っておくが、ラムはこの日の事を誰にも話さなかった。
「エルフの戒律」、これを破った場合の沙汰は、全て集落の長の裁量で決められる。例え「三大禁忌」を破ったとしても、年齢や退っ引きならぬ事情を顧みて“情状酌量の余地あり”とする事も多い。
更に元来保守的であり、決まり事には盲目的に従う傾向が、エルフに強い事も相俟って、エルフの歴史において『
しかし、今回の場合は時勢が悪かった。直近に生まれ落ちたウォーフという突出した存在。これが集落の保守的な老人たちを峻険にしていた。
……結局、ラムはこの日、目出度くも『リー・ラム』の名を冠する結末と相成った。タールはラムを誑かした事を咎められ、石牢の刑に科せられる。
咎人の証を名に背負い、ラムは足を森の外へと足を向ける。途中、ベアルの家付近を通りかかったが、そこには灰と燃え
ラムは少しの間、見るともなく見ていたが、やがて、とぼとぼと歩を進め、森を去った。
エルフの生き方しか知らぬラムは、人の営みに併合できず、追放後も森を彷徨い歩き、森の恵みと朝露を啜って生きていた。かつてウォーフが見せた振る舞いはこれを危惧した訴えの面もあったのだが……結局の所、ウォーフは集落の堅物爺を説得できず、彼も追放の結末と相成っている。
その皺寄せとも言える境遇。しかし、ラムの目は決して腐ってはいなかった。
恥じる事無く全身の皮膚に風を浴び、焚火の炎に輝く黄眼は好奇の色に満ち満ちて、今にも溢れんばかりである。
目の前に座る人間が、街のすぐ側に居ながら、一人寂しく火を焚いている事が、どうにも不思議だった。
抱いていたのは共感と期待の念。この男も自らと同じく追放の身の上なのではないか。視界を塞ぐ前髪をかきあげ、ラムは乳臭くも質問を投げ掛けた。
「お前も――“リー”、なの?」
「……はぁ?」
全裸のエルフが放った言葉に、ジェラルドは困惑を隠せない。エルフ語の『リー』が『追放者』を意味する事は教養の一部として知っていたが、この時すぐに理解は出来なかった。
「あ~……、リー、ではないぞ」
「なんで……ん~、入らない?」
単語の一つ一つを記憶から浚ってくるような、辿々しい口調でラムは人語を紡ぐ。集落に居た時はもう少し流暢に話せていたが、暫く使わなかったので、すっかり錆び付いてしまっている。
ラムが発した「入らない?」と言う言葉が何を指すのか、それは彼女の指差す方角を見れば理解できた。以前のジェラルドならその様子に庇護欲の欠片ぐらいは自覚しただろうが、
「それは――コイツの所為だな」
そう言いながら、ジェラルドは抱えた木箱を、コツコツ、と叩いてみせた。それに反応したのか、不意に箱が大きく音を立てて揺れ動いたので、驚いたラムは大きく飛び跳ねる。野性味溢れる森の暮らしで身に着けたのか、言うなれば猫科動物の警戒心にも似た反応。
「なんぞ、……それ……」
「見たいか?」
警戒は持ちつつも、その瞳は好奇心を失ってはいない。ラムは頻りに頷いた。
それを見届けたジェラルドの右手は、もう一度木箱の上蓋に伸びる。
これは、ジェラルドにとっての――『宝物』だった。
幼少の折、路端に転がる何の変哲も無い石を丁重に持ち帰り、部屋の一等地に飾り立てるが如く。それでも……流されるままに生きて来たジェラルドが、初めて見せた自主性の象徴であり、その、お披露目の瞬間。
彼は年甲斐もなくワクワクしていた。逸る気持ちを抑え切れないなんて人生初めての経験である。それに加えて、ちょっぴりの背徳感。
初心なオナゴに
ジェラルドは勢い良く上蓋を取っ払った。そして、ラムが中を覗き込む前に捲し立て始める。
「見難いか? そうだろう、こんなに暗くちゃあな! いま出してやる」
そう言って両手を突っ込み、“マーシャの胴体部”を抱えあげた。「うおぉ」という気の抜けたラムの声に気を良くしたジェラルドは、焚火の近くに突き立てる様にして胴体を置く。
燃え盛る火の熱を感じたのか、胴体はもぞもぞと力なく動いていた。首を刎ねた時には付いていた両腕も今は無く、肩から赤桃色の断面を覗かせている。
訳の分からない“物体”をラムは食い入るように見詰めた。
「触ってみるか?」
コクリ、と頷くラム。そーっと伸ばした手が、静かに表皮に触れた。
仄かに暖かい。火の熱とは別種の暖かさ。
四肢は
断面がピクピクと蠢く様は猟奇的な雰囲気を醸し出していたが、ジェラルドはその様が何処と無く淫靡であると感じていた。
それもある。ペタペタと表面を触り続けるラムを見て、ジェラルドは次なる演目を目論んだ。胴体を持ち上げ、膝上に優しく乗せる。「何をするのか」と表情で尋ねるラムに、足元(付いてない)が前面になるよう傾けた。そして、胴体に残った足の残骸を掴み、広げて見せる。
差し出された股座を凝視して、ラムは言う。
「女の子、なの……?」
「ふふふふ……、ふはははははは!」
狂ったように笑い出したジェラルドを怪訝な目で見つめる。
「男も女もないぞ!」
「……?」
「触れてみろ……」
言われるがまま、ラムは割れ目を
尻餅をついたラムは、すぐさま居直り、再び好奇に眼を輝かせながら割れ目に手を伸ばす。しかし、その手が触れるか触れないか、という所で、ふと、割れ目から粥にも似た液体が漏れ出た為に、その手は引っ込んでしまう。
「……あら」
ジェラルドが懐から取り出した布で拭うと、どうやらラムの好奇心は粥を契機に反れてしまったらしく、憮然とした表情で火を見つめていた。これにはジェラルドもすっかり興が削がれてしまい、胴体を箱へ戻す。
ジェラルドは緩慢な動きでラムの隣に腰掛けた。
「名前、何ていうんだ」
「……リー・ラム」
「ジェラルドだ」
この会遇は吉兆である。
ジェラルドはこの会遇をそう称えながら、火と、ラムとを見つめていた。
――敬虔なるもの、旅に出よ。
旅は道連れ世は情け、縁の向くまま赴くままに――
昔のアレス教徒も良い言葉を残している。
ジェラルドはラムの視界の外で、その口角を釣り上げた。
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