悪縁

 戦闘から二夜明けたハイケス城。

 ヴィシルダはその一室にコーミュを呼び立てた。


おれは明日にも戦勝の報告に王都へ向かう。君とあの蜥蜴はおれに帯同してもらう」

「あの、アレス教の学舎での事は――」

「案ずるな。その程度の事は握り潰せる。それに、人間にリザードマンの区別は容易では無い。違うと張れば、それまで」

「……」


 アレス教の学舎での事とは、カイマンがコーミュを連れ出したあの一件である。

 最もカイマンの罪はそれだけではなく、カルーニアでの蛮行も追加された人相書きが王国にも張り出されていた。


 そんな王族直々の暴言は、コーミュの心を幾らか安らがせる。

 ヴィシルダは後ろ手に従者たちへ指図し、食事を持ってこさせた。


「飯を食わせて看病してやれ、死なれたら困るのはおれとて同じ」

「……はい」

「ふはは、どれ、『カルーニアの大罪人』と呼ばれた蜥蜴をおれもじっくり見物してやろうではないか」


 興味本位で立ち上がったヴィシルダの気勢は、しかしカイマンに届くこと無く削がれてしまった。


「殿下! グリュー・キ・ハイケス様がお呼びです!」

「ふむ、火急の用か?」

「はい! 今すぐに、と!」


 ハイケス私兵団の態度は頑なだった。

 コーミュに向かって肩を竦めて見せたヴィシルダは、冷めたコーミュの視線に見送られ、兵に先導されるままに歩き去る。


 思わず「ふぅ」、と吐いた息には、コーミュの心中を占めていた恐れにも似た感情が入りまじっていた。

 コーミュは食事の乗ったトレーを従者より受け取り、割り当てられた部屋へと向かう。


 ハイケス城の下階層、大きな石をそのまま切り出した様な、窓のない部屋がそれだ。

 カイマンが盲である為、この部屋が割り当てられた。

 清潔ではあるが……些か牢獄じみすぎている。


 罪人ではあるのだから、ある意味相応しいのかも知れない……。

 コーミュはドアの前に立ち、もう一度だけ心を落ち着かせる。

 そして、変に刺激しない様、静かにドアを開いた。


 ベッドの上で身を起こしていたカイマンの包帯に巻かれた蜥蜴頭が、ピタッ、とコーミュが開いたドアの方角を捉える。

 ドアを開く小さな音にここまで大きな反応を見せる。


 やはり、敏感になっているのだろう。

 コーミュは後ろ手に優しくドアを閉じ、静かに歩み寄った。


「……カイマン、食事を持ってきたわよ」

「……」


 コーミュの声に、カイマンは一言も発しなかった。

 ただ、コーミュが歩みよる物音に合わせて、その蜥蜴頭を揺れ動かすだけ。


 コーミュが用意された料理を一匙掬って口元に差し出してやると、カイマンはその気配を感じとったのか、即座に食い付く。


「食べるだけの元気はあるのね」

「……」


 チクリ、と刺してみるが、これに対してもだんまりだ。


「アンタの指名手配はあの王子がもみ消してくれるそうだから――」


 それに気を落とすこと無く、コーミュは度々声をかけてやりながら一連の動作を何度も繰り返す。

 器の底が覗き始めたかという頃になって、カイマンがようやくその重苦しい口を開いた。


「……犬、口数が増えたな」


 カイマンが連れ回していた時は日がな一日無言というのも珍しくなかったが、一昨日の一戦以来、コーミュは常にと言っていいほど対話を試みていた。


 コーミュは匙を置き、トレーを横に退ける。


「アンタが唯の『我が儘』な子供だと気付いたからね。そう思うと、何も憚る事はない」

「……」


 決して晴れる事のない闇の中、カイマンは19年の半生を顧みる。

 「我が儘」、そうであったかもしれないとカイマンは感じた。


 欲しい。


 そう思った物は全て手中に収めてきた。

 しかし、渋る者を退けた事はあっても退けられたのは初めての経験だった。


 カイマンの奥歯が軋みを上げる。


 両目を抉られ、鼻先をこそぎ取られても、カイマンの欲は衰えを見せなかった。

 寧ろその逆。

 取り逃した男――ウォーフの影を夢想するだけで、その口中は涎で溢れ返る。


 欲しい、欲しい、欲しい。


 何度願おうとも歩くことすら困難な今、この欲求を満足させる事は到底不可能だ。

 カイマンは遣る瀬無い気持ちを寝床に叩き付けた。


 そんなカイマンの姿を見兼ねたわけではないが、コーミュが再び口を開く。


「コーミュ・イストス・ヤムナ」

「……は?」


 コーミュが発した言葉を、カイマンは理解できなかった。


「私の名前よ。コーミュ・イストス・ヤムナ」

「コーミュ? ……フハハハ、芋じゃないか」

「芋って……、『コーミュ』は獣人の言葉で『神の子』の意――」


 カイマンはもう聞いてはいなかった。

 “コーミュ”、カイマンにとっては故郷の響き。


 芋が食べたかった。故郷の蒸した芋が。

 魚も。こんな病人が食べるような不味い飯ではなく。

 ――嗚呼、欲しい……欲しい!


 馴染み深い言葉を契機にカイマンの欲望は更に膨れ上がる。

 その欲望は食欲を越え、性欲を越え、睡眠欲を越えて、身体をはち切らさんばかりに膨れる。膨れる。膨れる。


 鼻先が欲しい!

 匂いがわからない! 熱源も見失った!


「欲しい!」


 だが、もっとも欲するもの、それは――。


「――何が?」


 コーミュの落ち着いた催促。これが、引き金。

 カイマンはその眼窩で天を睨んだ。


「光だッ!」


 遂に欲望は臨界点を越え、鱗板りんばんの隙間から溢れ出した。

 ドロドロにほどけて溶けたコーマの濁流。


 コーミュは持って生まれた緑眼りょくがんにてそれを視認する。

 石切部屋の壁に跳ね返り、襲い来る波をコーミュは身動ぎみじろぎ一つせず、受け止めた。


 これは――『隧道すいどう』。


 正道を踏み外した生ける欲の終着。

 獣人の宗教のみならず、人の宗教にも造詣の深いコーミュにとっては既知の事象であった。


 神から下賜された縁を欲に捻じ曲げる。

 人族の神学者はこれを『悪縁』と呼び、忌み嫌った。


「ウオオオオオオオオ!」


 雄叫びは石切部屋の壁に消え、コーミュとカイマン以外の耳には入らなかった。


 最中、カイマンはむくつけき鱗を見た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る