ぬるぬるてかてか

タルト生地

見えぬ鱗と牙


 まだ若干の薄暗さが残る空。すでに電車と小鳥たちは動き始めていた。


「ん……ああ……朝か。ああー……今日も一日頑張るかあ……」


 眠気でぼんやりとした頭と視界も夜が明けたことを彼、小牧真司に訴えていた。

 感覚的にはまだいつもよりは少し早い時間。ゆったりと朝の支度をして家を出ようと思っていたその時だった。


 ベッドの下でぬるぬるぺたぺたもがく鰻を見つけたのだった。


「え、いや意味わからん」


 素直な感想であった。その動揺たるや想像に難くない。


「いやいやいや、え? いやえっ! 鰻⁉︎ えっこれ鰻⁉︎ いやアナゴ? ウツボ? いやそんなんどうでもいいわ何で⁉︎」


 真司は慌てふためきつつも洗面器に水を貼り、鰻をその中に入れた。


「いっやええー……なにがどうなってここに鰻……? いやそれよりとりあえず床拭いて家出る準備せな……」


 ネトネトとした謎の粘液の掃除をして家を出る。偶然早めに起きたのが幸いして遅刻はなかった。


 その夜。


「ええー……鰻って毒あんのかい……しかもそもそも一人暮らしの家でさばくの絶対無理やん。マジかよー蒲焼きにしようと思って楽しみにしてたのになー。しゃーない、週末どっかの川にでも捨てよ……」


 結局その日はコンビニの弁当を食べて寝たのだった。天然(?)鰻の蒲焼とはえらい違いだった。


 次の日の朝。


「え、2匹おるやん。うそやん。そういうルールなん?」


 そういうルールだった。


「ほーら同居人やぞー1号。2代目とジェイソウルブラザーズと仲良くしろよー。狭いからなー。」


 捨てるまではきちんと扱う。真司はそういう優しい男であった。


 また次の朝。


 床の鰻は4匹に増えていた。


「ああーそっちかー。俺てっきり1匹ずつやと思ってたわ。はいはいそっちね。倍々パターンね。オッケーオッケー気が狂いそう」


 洗面器には入りきらないので、普段使わないバスタブに水を貼って放流した。4匹はまとめてバイバインズと名付けた。


 さらに次の日の朝。


 目に入ったのは床一面の鰻だった。


「いやルールちゃいますやん! うーわうわうわ気色悪っ! え、どうしようどうしよう。え、足突っ込んでええのこれ! いや普通に噛まれるやろ! うっわ嫌やマジで怖い」


 滑り気のある黒く細長い生命体がうねうねと渦巻いている。時々その無機質な目と小さく鋭い牙がこちらに向けられる。あちらこちらからビチビチと音がする。


 真司は服を脱ぎ、それらを脚に巻きつけた。出来る限り隙間のないように。

 そしてガニ股で脚を大きくあげてもはや笑いなどと無縁な黒々とした沼を走り抜けた。

 その日は休みの連絡を入れて、家の裏に鰻を捨てる作業と掃除に徹した。


 その日の夜は眠らないことにした。とてもじゃないが恐ろしかったのだ。

 それに、鰻の正体もつかみたかった。


 最初はテレビを見たり、音楽を聞いたりして眠気と戦った。シャワーを浴びる時もトイレも常に部屋を見つめながら済ませた。


 そうして何とか睡魔と戦っていたが、ほんの一瞬意識が飛んだ。その時だった。

 部屋の隅のカバンから鰻が溢れ出してきていたのだ。


「‼︎ それか! うわうわうわ止まれ!」


 真司は一瞬面食らったがすぐさま駆け出し、カバンを閉じようと必死になった。が、しかし鰻の勢いは止められない。隙間を通って次から次に部屋を満たしていく。もはや滑りが顔や体に飛ぶのは気にならなくなっていた。

 さらに背後でビチャビチャと音がする。目をやると、テレビ台や押入れからも鰻がなだれ混んできているのだった。信じられない光景だったが、真司は意外なほど冷静に死を覚悟していた。


 逃げなければ。


 とるものもとりあえず玄関へ走りはじめる。部屋から玄関、ドア一枚にほんの数メートルの距離を進むのが何倍にも困難に感じる。床に散らばった粘液は脚を取り、鰻たちの殺意のようにも感じていた。


 廊下のドア開けたとき、そこは光り輝いていた。

 正確にはぬらぬらと照っていた。既に鰻が凄まじい勢いで靴箱から溢れていて、流されるようにリビングへ押し戻された。もう逃げ場はなかった。

 何とか助けを求めようと携帯電話を探す。しかし既にベッドは細長い化け物たちに飲み込まれていた。

 どんどんかさを増す鰻たちは胸元まで迫り、立っているのがやっとになってきた。


 その時である。真司の腿に鋭い痛みが走った。鰻は肉食である。


「うわぁ! 痛っ‼︎」


 反射で動いてしまい、足を滑らせた。体がぬるぬると動き回る海に沈み込むのを感じる。無防備に晒された腕や足、顔に鰻の感触がまとわりつく。筋肉の塊のような独特の不快感と生臭さが襲う。もはや口を開くこともできない。


 腕に、脚に次々と痛みが走る。生きたまま食いちぎられる痛みに悶え、目や内臓も奴らの餌であるという恐怖に震えた。

 どれだけもがこうと暴れようと、鰻以外の感触に触れることはなかった。


 そして痛みにいつしか意識は薄れ、真司はあまりにも理不尽にその生涯を終えた。


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