紅い炎 ―イワン девять―
蒼い炎を灯した俺は、一日、つつがなく座学、訓練を修める。
午後五時過ぎ、空は鼠色の雲が覆い、ぽつりぽつりと、雨をこぼしていた。
訓練を終え、宿舎に戻った俺の前に、エヴァ、クルスクが姿を見せる。
「マルスさん、お疲れ様です」
「マルス、調子は元に戻ったようだな」
二人は、俺に嬉しそうに話かけた。
「二人とも、ありがとう。俺はもう大丈夫だよ」
俺は二人に平静を装う。胸の蒼い炎を悟られないように。
「……そういえば、マイラちゃんは? 最近、一緒にいませんよね?」
「マイラ? あ、ああ……あの子なら部屋にいるよ。ご飯を食べ過ぎて、寝込んでるんだ。まったく、食いしん坊だよな」
久しぶりに聞く名に、虚を突かれる。
「え? だったら、私、お部屋に」
「いい。彼女の面倒を看るのも俺の仕事だから。じゃあ」
エヴァの申し出を拒絶した。これ以上相手にしたくなかったからだ。
二人を後にして、俺は自室に籠る。来たるべき時のため、準備を万全にして、計画を練り、心を整えた。
夜の九時。消灯まで一時間を切り、宿舎は最も静かな時を迎えた。外は夕方からの雨が激しく降っている。出歩いている者はほとんどいないだろう。俺はこれが天恵と確信し、行動を開始する。
――そういえば、マイラちゃんは?
部屋を出ようとした瞬間、数時間前のエヴァの言葉が頭に浮かぶ。
マイラ……彼女を最後に見たのも何日前だったか。
いつの間にか俺の前から姿を消し、今はどこで何をしているのか見当もつかない。というより、今はどうでもよかった。むしろ幸いだ。計画の実行には邪魔になるだけだから。
宿舎を発ち、適当な言い訳で車を借り、町のゲートまで移動した。
「ベロウソフ候補生、この時間、町の外へ出ることは禁止されていますが」
と、当然、警備兵は俺をいぶかしむ。
「中佐からの許可はもらっている。急ぎの用事だ。……頼む」
俺は捏造した書類を見せ、懇願した。
「……分かりました」
俺の顔に鬼気迫るものを感じたのか、警備兵は了承する。
開錠されたゲートを抜け、俺は車を南の空軍基地に走らせた。
基地に着き、先程と同じ方法を用いて格納庫まで急ぐ。道中怪しまれはしたが、候補生の肩書きは想像以上に効き目があった。鍵を確保し、格納庫の扉を開ければ、目的の訓練機が待っていた。
明日、イワンと中佐が搭乗するMil15UTIが。
銀の機体色、後退翼、
この機体で明日、イワンは飛行訓練をする。指導教官は中佐。
件の二人が同時に飛行機に乗り、奇跡に近い確率で俺がここに来れたこと。
神が復讐を認めたと受け取り、俺は瞳を閉じて心を落ち着かせる。
刹那、雷鳴が轟いた。
瞼を開け、備え付けてあった工具箱を持ち出し、訓練機の側へ。
こんな時、父さんから教わったこと、養成校時代の知識が生かされるのは皮肉だった。
Mil15には欠陥がある。それは高高度飛行、高速飛行中に突然、きりもみ状態に陥ってしまうということだ。開発陣は速度計とエアブレーキを連動させ、マッハ0.92を超えないようにすることで解決を試みた。
それはつまり、速度計とエアブレーキが連動していなければ、マッハ0.92を超え、いずれは操縦不能に陥る。
もちろん、その辺りは整備士も充分に分かっている。なので、異常が無いかは入念に点検されているだろう。
だが、何事も抜け道はある。もし、整備が完全に済んだと安心しきった後に、誰かが細工したら? それが飛宙士候補生という空軍の中で選ばれた者であったら? 更には、共和国飛行士にはある慣習があった。同じ飛行士を疑うな。でなければ、共に飛ぶことは出来ない、という。
だから、俺が飛行機に細工しても、誰も疑わない。明日、整備士は飛行機を送り、飛行士は搭乗する。異常を抱えたまま。
そのさじ加減が腕の見せ所だった。飛行前に異常が表示されてはいけない。人体に感染した菌が徐々に広がり、気づいた時には手遅れのように。
だから、俺はまずエアブレーキから始める。胴体後部に近づき、工具箱からレンチを取り出す。右手でレンチを持って、ブレーキのカバーを開けようとした。
が、不意に、レンチを落としてしまう。
手が滑ったのだと思い、レンチを右手で拾った。
しかし、再びレンチは落下。
落下時の乾いた金属音が耳に響く。
三度レンチを拾おうとしたが、出来なかった。
右手が、どうしようもなく震えていたから。
右手だけではない。いつのまにか、全身が震えていた。
緊張ではない、葛藤だ。俺の中でまだ理性――紅い炎――が残っていたのだ。
心は蒼い炎で燃やし尽くしたはずなのに。
どうしたんだ? 何をためらう? 実行すれば、明日、何も知らないイワンと中佐は死ぬ。俺の父さんと同じ墜落で。これは罪に対する正当な罰だ。奴のせいで父さんは死に、俺は飛行士になれず、今でも苦しんでいる。中佐も同罪だ。あいつは父さんの死の理由を黙し、イワンと共に俺を見てせせら笑っていたのだろう。
そうだ、全部、ぜんぶ、ゼンブ、あいつらが悪いんだ!
……でも、でも、でも!!
突如、雷光が格納庫内を照らし、人影が俺の元に伸びる。
「どうした? 何をためらう?」
それに気づいた直後、影の主が尋ねた。
俺は背後、格納庫の扉方向に振り向く。そこには、彼女がいた。
「もう少しでお前の復讐の準備は整うのだぞ」
彼女は俺の元に歩み寄る。
「……あ、ちゅう、さ。どう、して……そんな、顔を」
俺は後ずさった。今の中佐の表情が、あまりにも異質だったのだ。罪を犯そうとした俺に対する怒り、蔑みではない。もっと、別の……。
「咎めはしない。お前の復讐を受け入れようとした。だが、この子がお前を停めて欲しいと頼んだのだ」
中佐が答えると、背後からマイラが姿を見せる。
「まい、ら……!」
「……まるすぅ」
彼女はとても辛そうに俺を見つめていた。目尻に涙を溜めている。
俺は両者の視線に耐えられず、両膝、両手を着き、頭を下げた。
「う、あああああ――! 手が、手が動かないんです! 父さんを殺したあいつが、それを黙っていたあなたが憎いはずなのに……! だって、俺は彼を兄さんだと思ってしまった。こんな人が俺の兄さんだったら良かった……と。それに、あなたはとても厳しいけど、俺たちのことを嫌いだからじゃない、真に想っているからなんだ。そんな貴女たちを殺してしまえば、俺は本当にあそこには行けない、父さんに二度と会えない。飛行機を殺人の道具に使ってしまったら! どうすればいいんですか? リーリヤ!」
感情の奔流を受けた中佐は俺に向け、手を上げた。
びくりとし、身を護る。しかし、それは勘違いだった。彼女は俺の頭を両手で包んでくれたのだ。
「……辛かったな、マルス。お父さんが亡くなった時から今まで、ずっと我慢していたんだろう。もういいんだ。泣きなさい」
その優しい言葉で俺は理解した。
中佐の今の表情は、母親。俺が初めて見る顔だった。
俺はその通り、感情を爆発させる。母から産まれた時を思い出して。
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