大粛清 ―イワン три―
『マルス・ベロウソフさん、三〇一号室までお越しください。患者様がお呼びです』
待ち構えていた呼び出しに、俺は教授が目覚めたと分かった。すぐさまその部屋に直行する。
三〇一号室の前には黒服の男が番をして、不審人物が近づかぬように威圧をかけていた。
「マルス・ベロウソフです」
「……分かった。入りたまえ」
俺が名乗ると、彼は俺の制服の名札を確認し、入室を許す。
失礼しますとドアを開け、俺は中に入った。
室内はとても広く、豪奢な内装で、病室というより高級ホテルのスィート。こういうのを特別待遇室と呼ぶのだろう。
「……来たか。今度は立場が逆だな」
大きなベッドで横になる教授は、心なしか先程より気力が衰えていた。
俺は教授の側に寄り、直立する。
「椅子に座りなさい。長い話をする」
許しを得て、俺はその通りに。
「あの……」
「言いたいことは分かる。私の体のことだろう……正直に言えば、おそらく、長くはない」
「えっ――!?」
絶句した。その突然の告白は、あまりにも衝撃的だったから。
「このような体になってしまった原因は、過去に遡る。それには、彼、フルシェコも関係していてね。彼は、第二試作設計局の責任者。私と同じロケット開発者だ」
「あ、そんな偉い人に……」
教授と並ぶ人物に、俺は反抗的な態度を取ってしまったのだ。
「そんなに気にするな。……話を戻そう。彼との因縁は、もう三〇年に及ぶ。その頃から、私たちは同じものを目指していたが、別の道を歩んでいた」
教授は教えてくれた。フルシェコとの因縁の始まりを。
三〇年前、二人は同じ研究所でロケットの開発に勤しんでいた。その頃は友人とまではいかないが、二人の仲は今ほど険悪ではなかった。互いに同じ道を志す者として、敬意に似た感情もあったという。だが、教授が研究所の長に出世することで、変化が起きてしまった。フルシェコは教授を妬み、自分こそが長にふさわしいと周囲に不満をわめき散らす。教授はそんな彼に何も言い返さず、粛々と仕事を与えていた。彼の優秀さを認め、クビにするよりは上手に利用すれば良いという打算で。
そんな二人の関係を、時代は再びかき乱す。
大粛清だ。当時の最高指導者、スワニーゼによる大規模な政治弾圧が国中に吹き荒れる。
反体制派とみなされた人物は容赦なく黒服に連れ去られ、尋問、名ばかりの裁判にかけられ、その半分が死刑となった。残り半分が送られたのは、強制収容所。かといって、死が免れたわけではない。過酷な環境、劣悪な労働に冤罪の汚名をかぶせられた囚人は、一人、また一人と倒れていく。
粛清の対象になった時点で、訪れる
「その粛清者のリストに、私の名が挙がった。先に対象となった、フルシェコの告発によって」
「そんな……いくら教授のことを憎んでいても、そこまでするなんて」
俺は自身を振り返る。殺したいほどの憎悪。それほどまでの想いを、俺は持ったことがあったのかと。
「そうしなければ、極刑が待っていたのだろう。連行された日、私は娘の誕生日だった。家族三人で祝っている時、ドアは激しく叩かれ、察したよ。遂に私の元にも……と」
捕えられ、尋問の際には言われのない罪を並び立てられ、沈黙すれば顎を思い切り殴られた。それ故に、教授の顎には一生消えない傷が。
それまでの功績から極刑は免れたものの、送られた強制収容所はセヴェル。共和国の極北、吐いた息も瞬時に凍るという寒地である。教授はそこで、実に六年もの間を過ごした。過ごしたというのは、和いだ表現だ。彼は命も絶え絶えに生き延びた。最低最悪の労働環境により、壊血病を患い、歯は全て抜けた状態で。
「じゃあ、そのせいで……」
「ああ、心臓はすっかり弱まってしまったよ。……あそこにいて得をしたのは、煙草を止められたくらいか」
教授は皮肉気味に微笑った。
俺は思い出す。彼と初めて会った際、勧められた飴を。その時は単純に甘いもの好きなのだと感想を持った。それに至るまでの過酷な経緯を知らなかったからこそ。恥ずかしい。あの時の浅はかな自分が。
六年後、彼は恩師による嘆願で罪状の軽減が認められる。首都に戻り、別の収容所内の研究所に勤めよという令が下った。が、セヴェルから首都までは、自力で移動しなければならない。彼は収容所を出て、首都への交通船が停泊する町に何とか着いた。しかし、不運は続く。既に船は出港済みで、次の便は半年後。冬だったので海が凍り、次の春まで待つ必要があった。
「その時は、もう駄目だと諦めた。強制収容所でも必死になって生き延びたのは、家族に再会し、仕事に戻り、再びフルシェコの顔を見るためにと。だが、私の生涯の運は、既に使い果たしてしまったのだ。……そう悟り、私は雪の降る路地裏で、目を閉じ、一生を終えようとした。その時に――」
教授は俺の瞳を見る。
「あの声が聞こえた」
「その通りだ。かのものたちの声は、私を覚醒させ、気づけば、眼前にパンのひとかけらが落ちていた。先程まで、何度探しても残飯一つなかったはずなのに。私は理解した。私の命は、私だけのものではない。私は、生かされている。あることを成せと。それが人類を宇宙に送ること。使命を察した私はパンを口にして、日々の住食の銭を稼ぐために何でもした。そうして半年後、船で首都に帰ったのだ。それから二〇年、ここまで来るのにあらゆる手段を使ったよ。天敵の手を借り、政界の
三〇年以上もの長い時をこの人はロケットに懸けてきた。
その執念の塊が、あのM4。俺は、それにふさわしい候補生なのか? と、迷いがよぎる。
「教授、今の話を聞いて、俺は……怖くなりました。あの声は、天啓であると同時に、呪詛ではないかと」
「恐れるな。お前は二〇年待った私の夢を託せる者なのだから」
「――」
夢を託せる者。その言葉を聞いて、俺は涙が出そうになった。
「あと、どれくらいなんですか? 無理しなければもっと……」
「それは出来ない。私は全力を尽くす。この命果てるまで。だが、逆に考えれば、ロケットは完成し、候補者は揃った。もうじき、我らの悲願が果たされるということだ」
教授の決意に、俺はもう何も言えない。
「マルス。良い名だ。世界の様々な言語で火星を意味するもの。君の両親は、どのような想いを込めて名付けたのだろうか。私の目的は宇宙に出ることに終わらない。月、火星、もっと先へ……」
教授は窓の外を見る。そこには、空に浮かぶ月があった。
「……教授、俺、貴方の望む飛宙士になれるよう、頑張ります」
俺はこれ以上部屋にいるのが辛くて、立ち上がり、去ろうとする。
「マルス、国を信用するな。利用しろ。それが私の人生で得た教えだ」
俺の背に、教授はそう伝えた。
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