天敵 ―チャーチフ один―
一九六〇年六月中旬。俺が星への始発駅に訪れ、訓練開始から一か月以上経った。季節も、共和国の短い夏に。
今日は中佐から与えられた訓練メニューの試験日。規定時間までに全ての工程をこなし、かつ、今までで最高記録を達成しないといけない。
初日はランニングの途中でへばり、吐いていたが、今では余力を残し、最後のダッシュ二〇本を完遂する。
「良し、合格だ。だが、ようやくお前は他の候補生と同じ地点に立てたというところ。これから先、今以上に努力しなければ、追いつくのは不可能だぞ」
「はっ、分かりました」
自分の成長におごりを感じていた俺を、中佐は見抜いていた。
「お前がここに来て一か月、給与も出たころだろう。明日の休息日の予定は?」
日曜日。候補生は一日自由時間となる。事前に申請すれば町外へ出るのも可能。
「そうですね。休息し、座学の勉強と言いたいところですが、マイラが遊んでくれとせがむもので」
「うん、だってまるす、最近遊んでくれなかったの」
と、隣に控えるデートの相手は言う。
「まあそれも良いだろう。マイラの面倒を看るのもお前の大切な役目だ。……保養区にある飲食店、チャイカのブリヌイはお勧めだぞ」
「えっ? は、はいっ」
中佐の最後の言葉に耳を疑うも、俺は快諾した。
翌日、俺はマイラと共に保養区に出かけた。
「まるす、ぶりぬいって何?」
「小麦粉を溶いて、薄く伸ばしたものを焼く。それを何層も重ね合わせてジャムを乗せれば完成さ。さくさくの感触がやみつきになるんだ。中にハム、サーモンを挟んだものもいけるよ」
ブリヌイ。この国の食卓では定番のおやつ。作り方、食べ方も家庭によって千差万別。父さんの得意料理の一つで、中の材料を変えて一週間続いたことも。
「おいしそう! 早く食べたい」
マイラはぴょんぴょんとはしゃぐ。
俺も彼女と同じ気持ちだ。中佐から認められ、給与も受け取ったから。こんな気持ちになったのは、町に来てから初めてかもしれない。
保養区にある飲食店「チャイカ」の前に俺たちは到着する。
だが、店先にいた人物を目にして、さっきまでの気持ちはしぼんでしまった。
美形だが、無表情、無感情、無口の三無い揃った顔。さらに、雨に濡れてもとけないような整髪剤で固めたオールバックの黒髪。
「え? チャーチフ……」
見間違えるわけもない。初日から俺にやたら因縁をつけた天敵だ。
何であいつがこの場所に? 休息日もずっと部屋で籠ってそうな印象なのに。
「……マイラ、少し時間を置こう」
「どうして? お店はお休みじゃないし、もう始まってるよ」
「……顔を合わせたくない奴がいるんだ」
「や。わたし、早く食べたい」
「あ、こら、マイラ……」
マイラは珍しく俺の言う事を聞いてくれず、先に走ってしまった。
しかも、食べることで頭が一杯だったのか、チャーチフにぶつかってしまったのだ。
「……」「きゃうっ」
背が高く体格の良いチャーチフはびくともせず、小さく華奢なマイラはお尻を着いてしまう。
そんな彼女に、チャーチフはぬっと手を伸ばす。
まずい、はたかれる――と直感した俺は、二人の間に走る。
「マイラ、大丈夫か?」
間に合った俺は彼女の無事を確認し、起こしてあげた。
「う、うん……」
「ベロウソフ? ……いきなり現れて、お前のケモノはしつけがなってないな」
チャーチフは俺たちを睨んで言った。相変わらず人を見下して。
「マイラと一緒にブリヌイを食べに来たんだよ。悪いか?」
俺も彼を睨み返す。
「ち、貴様らなんぞと食事が出来るか。俺は帰る」
こうして会えば嫌味を言うチャーチフに対し、俺はもう我慢の限界だった。
「あんた、前に言ったよな。俺は一週間もたないって。今はあれから何週間経つ? 逆にあんたが俺より先に辞める可能性だってあるんじゃないか?」
俺の啖呵に、チャーチフは黙る。半端者と蔑んだ俺が予想以上にもったことに何も言えないのだろう。
だが、奴は口の端を上げ、嗤った。
「ふん、威勢がいいのも今のうちだ。……お前は、負け犬に育てられたからな」
「負け犬、だって?」
「お前の養父、ベロウソフ元共和国空軍飛行士は、戦時中エースパイロットだったが、戦後、飛行士を辞め、姿をくらましたらしいな。それで、お前を拾ったわけだ。ハっ、笑わせる。負け犬に育てられた奴は、同じなんだよ」
父さんが、負け犬。こいつは、あの人を最大限に侮辱した。
「お前――父さんを!!」
完全に切れた俺は、奴に飛びかかり、襟首を掴んだ。
「訂正しろ! 父さんは負け犬じゃない! お前にあの人の何が分かる!? あの人がどんな想いで……」
つばきを飛ばし、大声で喚いた。無意識に右手を握り、奴の顔へ――
「まるす、ダメっ!!」
マイラの叫びが、俺の拳を停めた。
「……あ、マイラ?」
その声に頭が冷え、俺はチャーチフから手を離し、自分のやろうとしたことを理解する。
最悪だ。もしこの場面を教官の誰かに見られていたら、俺は……。
「貴様ら、何をしているか!」
不意に、店内から俺たちを咎める大きな声。
最悪の事態は現実に起こった。声は、リーリヤ中佐のものだったから。
数十分後、俺とチャーチフは、管理センター、中佐の部屋に並んで直立していた。
その前には、中佐が椅子に座り、足を組んで俺たちを睨んでいる。
俺の後ろにはマイラが控えているが、部屋の空気を読んでずっとおとなしい。
この静かで重苦しい雰囲気は、俺たちが中佐に店から連行されて以来、ずっとだ。
「……二人とも、何か言いたいことは」
長い長い沈黙の後、ようやく中佐は声を発した。
「お、俺は……」
悪くないと言いたかったが、今更、何を話しても無駄だろう。
「中佐、先程の件については、私とベロウソフ候補生の間に多少の諍いが起きたまでです。私は何もされておりませんし、誰にも迷惑はかけておりません」
チャーチフの発言は意外なものだった。「何もされていない」と。年下に掴まれ、殴られそうになったのに。
「ふん、多少の諍いか。ものは言いようだな。……今回の件は幸い、目撃者も少なかった。あの場にいた一番上の階級は私。なので、私の預かりとする」
「えっ? いいんですか……」
中佐の発言に、俺は仰天する。クビも覚悟していたのに。
「安心するのはまだ早い。お前たちには後でたっぷりと私の特別メニューをこなしてもらうぞ……クク。では、チャーチフ中尉は部屋に戻れ。今日一日、外出禁止だ。ベロウソフは、まだ話す事がある」
「は」と、チャーチフは敬礼し、さっと退室する。
残された俺は唾を飲みこむ。一体、これからどんなお説教があるか……。
「初日の食堂の件といい、お前は一度頭に血が昇ると制御が効かなくなるな。そんなことでは、飛宙士に選ばれるなど、不可能だぞ」
中佐は軽く息を吐き、俺の欠点を指摘した。
「う……だって、チャーチフが俺の父さんのことを……」
「今のお前を見たら、ユーリ・ベロウソフ飛行士も悲しむな」
「え? 中佐、父さんを……」
さっきの話しぶりは、父さんを知っているようだった。
「もういい、部屋に戻れ」
俺の疑問に、中佐は答えない。
これ以上ここにいても無駄そうだったので、俺は大人しく従った。
宿舎の自室に戻り、俺はベッドにふて寝する。せっかくの有意義な休息日になるはずだったのに、チャーチフのせいで台無しになってしまった。
「ちくしょう、あのヤロウのせいで……」
「まるすは、どうしてちゃーちふと仲良くできないの?」
マイラは俺の顔をのぞきながら聞く。
「仲良く? やめてくれよ。あんな奴と……。世の中にはどうしても気が合わない奴もいるのさ。いつまでたっても、道は交わらない。そんな奴を理解したいとは思わないね」
俺の答えに、マイラはしゅん……と残念そうな顔をする。
「……そんなの、悲しいよ」
マイラなら俺のことを分かってくれると思ったが、それも叶わず。俺は口を、瞼も閉じた。
翌日から六日間。俺は中佐特製地獄の訓練メニューを味わった。
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