無音響低圧室  ―チャ-チフ два―

 六月末、俺は新たな訓練に挑む。その場所は、無音響低圧室。以前エヴァに紹介され、彼女が凄く嫌な顔をしていたのが印象的だった。

 中枢区にある平屋の建物、その中に隔離された部屋が二つある。出入り口はエアロック、中は宿舎の二人部屋よりやや狭く、平均的個室といったところ。備えてあるのは、机、椅子、ベッド、電気コンロ、簡易トイレ。あと、数日分の水、食糧。快適ではないが、牢屋よりはましか……という感想を、準備を済ませて部屋に入った時、俺は抱いた。

 この、無音響低圧室で俺はこれから独り耐えなければならない。何日までという期限は無く、己の限界まで。訓練の目的は、想定される宇宙空間――孤独、闇、無音――を再現し、候補生の精神を試すこと。

 体にはセンサーパッドが張りつけられ、常時体調を別部屋のモニタで監視されている。中の様子も天井からのぞくカメラによって生中継。壁のスピーカーからは、指示が下る。

 エアロックが閉じられると、まず、音が聞こえなくなった。次に、電気が消され、闇。耳と目を奪われた状態で俺は手探りでベッドを見つけ、とりあえず横になった。それから、何十分か、何時間経ったのか分からなくなった時、突然電気が点く。スピーカーから机上の知能テストを解けと告げられた。必死になって解いている途中、次の指示、その場で屈伸、腕立てをしろというわけのわからぬもの。

 それまでの過程で、俺の精神的疲労は既に限界に迫っていた。

『さて、マルス君、今はどんな気持ちかな?』

 と、その時を見計らったように質問がされる。声はこの訓練担当医のタチアナだ。

「(最低だ。と言いたかったが、ぐっとこらえて)これが宇宙というのなら、自分の思ったほどではないよ。もっと……」

 答えの途中、またも電気が消され、室内は再び暗黒に。

 ――おい! と、叫んでその場のものを殴りたかったが、必死に抑えた。

 こうなれば寝るしかないと思い、俺はベッドに横になり、目を閉じる。

 まるで、実験動物の気分。

 俺は囚人より酷い扱いを受けているのではないか。

 五感のうち、視覚、聴覚が封印されていると、他の感覚が敏感になってくる。触覚――パッドを着けた胸、上腕が痒かった。それに、嗅覚――消毒用のアルコールのにおいが鼻につく。

 指示が無ければ本当にすることが無いので、ただひたすら、頭で色々な事に思いを巡らせた。

 ……マイラはモニタ室で大人しくしているだろうか。エヴァ、イワン、チャーチフはこの部屋に入り、何をして過ごすのだろう。中佐は父さんと知り合いなのか……

 ……いつのまにか俺は夢なのか、現実なのか分からぬ世界に陥っていた。


 ――父さん、やっぱり卒業式には来るの? いや、父さんのことが嫌いになったわけじゃ……わ、分かったよ。来てください。うん、エヴァも父さんに会えるのを楽しみにしてるって。は? つきあう? い、いや、まだ……っていうか、変なこと、言わないでよ。

 それは、俺が父さんと交わした最後の電話だった。

 卒業式に出るという父さんに俺は恥ずかしがっていたものの、内心では嬉しかった。

 何故ならば、一五で父さんの元を離れ、養成校の三年間、直接会えたのは数回のみ。その後の進路が決まって、父さんとは益々会えなくなると分かっていたから。それに、式には卒業生によるお披露目飛行が行われ、飛行士となった俺の姿を見てもらえる。

 俺にとって唯一の家族、命の恩人であるあの人に晴れ姿を見せたい。

 式で感謝を告げ、俺は新たな地で夢に向かって飛び続ける。

 ……その願いは、叶うことはなかった。

 電話を最後に、父が俺から遠く離れてしまったのだ。

 ……父さん、会いたいよ。俺を独りにして、どこへ行ってしまったの?

 父に想いを馳せると、目の前に、父に似た人物の背中があった。

 彼が着るのは茶色の皮のフライトジャケット。その服は俺が飛行士になったら譲ってくれると約束してくれたもの。

 ……父さん? 俺に会いに来てくれたの? だったら、どうして顔を見せてくれないのさ。

 俺が呼びかけても、その人物は振り向かない。それどころか、離れていってしまう。

 いや、俺が彼から離れていくのだ。こんな拘束を受け、独房に閉じ込められているから。

 俺に出来るのは、声を出すことのみ。


「待ってよ、父さんっ!!」

 叫ぶと共に、俺はまぶたを開け、ほおが涙で濡れていることが分かった。

 暗室には、俺独り。覚醒しても孤独だと知った俺は恐怖し、限界を超えた。

「出してくれ! もう嫌だ! こんな所にいたら父さんが、父さんが――」

 頭をかきむしり、喚き、自分でも何を言っているのか分からなくなる。

 照明が照らされ、エアロックが開き、職員が入り込んで来た。

「……つけ、落ち着け! ベロウソフ候補生。訓練は終わりだ!」

 俺を羽交い絞めにして、職員は訴える。

「……あ? 終わり? 時間は? 俺はいったいどれくらいこの中に……」

 ようやく自分を取り戻した俺は、質問した。

「五時間だ」と、職員は答える。

「な、五時間……?」

 一日以上はいたと思っていたのに、まだ、たった五時間だったことに呆然とした。

「外に出ろ。一人で歩くのがきついなら、肩を貸すぞ」

 普段の俺ならその申し出を断っているところだが、今は素直に従う。実際、足がふらつき、肩を借りなければとても進めなかった。

 俺は職員に付き添われ、モニタ室に移動する。

「まるす、大丈夫!? 怖い夢でも見たの……?」

 この部屋で待機していたマイラが俺の元に駆け寄り、目をうるませて聞く。

「あ、ああ……何とか」

 心から俺を心配してくれる彼女に、大丈夫とはっきり言えないのが辛い。

「マルス君。深呼吸をして、新鮮な空気を飲み込み、心を落ち着かせなさい」

 タチアナも俺に近づき、指示をした。

 俺は彼女の言うことを聞き、呼吸を整え、何とか落ち着きを取り戻す。

「タチアナ医師、俺は……」

「まあ、初回なのでこんなものだね。気にしない……と、はぐらかしてもしょうがないから、ハッキリ伝えておこう。五時間というのは、候補生の中では最下位だよ」

「――そう、ですか。……最高記録者は? 何時間?」

「今のところ、チャーチフ候補生。五日と二〇時間が最高記録だ」

「そんなに……? 彼は、どうやって過ごしているんですか?」

 俺の何十倍もの時間をチャーチフはあの世界で耐えているのだ。

「見たまえ」と、タチアナはモニタの前のスイッチを押し、ある画面を出す。

 彼女が見せた画面の中には、隔離部屋にチャーチフがいた。

「録画だよ。先日最高記録を出した時のね」

 過去の彼は、本を手にして朗読している。その様子はここが隔離室など微塵も感じさせない優雅なものだ。

「本を持ち込んでる……」

「まあ本来ならば禁止はされているんだけど、彼はこう言ったのさ。この本は既に暗記している。御守り、幸運のまじないだって。そんな彼の熱意に負け、了承したんだ。他にも、彼は食糧の缶詰を水の入った鍋に入れて、温め、食べたのさ。頭いいよねえ。そうすれば、鍋は汚れず、何度も使えるから」

 その方法を聞いて、俺ははっとする。

 たしかに、食糧は豊富にあるが、鍋は一つしかない。鍋を洗う手段はないのに、食事は何回もする必要があるのだ。一回目の食事で缶詰の中身を鍋に開けてしまったら……。

 俺はモニタのチャーチフをしっかりと観る。たった五時間でおかしくなってしまった俺に比べて、彼は全く動じていない。彼の凄さが今更分かり、俺はあんな生意気を言ってしまったことを恥ずかしく思えた。

 ちくしょうと、俺は小さく小さく口の中で呟いた。

「さて、ここで止めにしておこう。本当は他の候補生の映像を見せることはルール違反なんだ。フェアじゃないからね」

 タチアナはモニタの映像を切ってしまった。

「俺は……どうすれば」

「その答えは自分で見つけるしかない。でも、医師として言わせてもらえば、キミは過去にとらわれ過ぎだと思う。人は、前を向いて生きるものさ」

「あ……」

「じゃあ、今日はもう着替えて、部屋に戻ってゆっくり休みなさい」

 タチアナに休息を提示され、俺は黙って頭を下げ、退室した。

 宿舎の自室に帰った俺はベッドに直行し、寝た。

 何が「俺よりあんたが先に辞める」だ。俺のほうがよほど自分のことを知っていなかった。

 中佐の言った通り、俺はまだ、みなの背を追っているに過ぎないのだ。まして、追いつき、抜こうと思うならば……。

「まるすぅ……」

 施設から俺の後を追い、ずっと黙っていたマイラが声をかける。

「ごめん、今は何も喋りたくない。寝るのなら、隣のベッドで頼むよ」

「……う、うん」

 彼女はびくりとし、悲しそうに返事した。

 ……ごめんな。今君に優しくされると、本当にダメになってしまいそうなんだ。

 俺はマイラに謝りながら、眠りに着いた。


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