握手

 翌朝、俺は小さく名を呼ばれ、体を揺すり起こされた。

「……す、まるす、起きて」

 目を覚ませばマイラが俺の体の上に乗り、顔を近づけている。

「……ん、マイラ? もう起床時間……まだ、五時じゃないか。あと一時間は大丈夫だぞ」

 時計を見れば午前五時。外はまだ薄暗い。

「わたし、踊りたいの」

「え?」

 踊る。それが何を意味するのか分からないが、俺はともかくベッドから起き、着替え、宿舎の外に出た。まだ眠気の残る俺と違い、マイラは軽やかに足を弾ませながら先を歩く。

 マイラの後に着いて、二〇分、軽いジョギングになった距離の末、到着したのは小さな湖。周辺をマツの木が囲んでいる。この部分は元の自然のままを残しているのだろう。

「こんなところ、よく知ってたな」

「うん、ここに来てから発見したの」

 マイラはすぐに体を動かし始める。手足を伸ばし、振り、回転し、舞った。その動きに決まりなどなく、己の感情のまま、自分を表現している。

 湖の前で踊る彼女を見て、俺はあの時と同じバレエ舞曲が浮かんだ。共和国がかつて皇国だった時代、かの大作曲家が創り出したものを。

 父さんはその曲が好きで、よくレコードを流すとともに、物語のあらすじを俺に話してくれた。

 ――マルス、この物語はとある国の王子と、白鳥の姫が出会う。二人は恋に落ちるが、悪い魔法使いが邪魔するんだ。

 ――もちろん、その悪い魔法使いはやっつけられて、二人は幸せになるんだよね。

 ――残念ながら、そうとは限らない。この話は二つの結末があって、一つはお前の言う二人が結ばれるもの。もう一つは、二人が……消えてしまうもの。

 ――ええっ、そんなの前のほうが絶対にいいよ。物語の最後は幸福でなきゃ。

 ――そうだな。でも、俺は後にも惹かれるんだ。……お前も大人になれば分かるかもしれないな。

 今なら、その意味が少し理解できるかもしれない。現世で結ばれなくても、二人は……。

 俺が父さんとのことを思い出すうち、いつのまにか観客が増えていた。木の枝には鳥がとまり、幹にキツネ、湖からアライグマも。

 俺と、彼らは、朝日に照らされた彼女の踊りを見て、種族を越えてひとつの感情を抱いている。

 ――美しい、と。 

 踊りの締めにマイラは両手を開き、右足を水平に伸ばし、停まる。

 今、俺たちの眼前には、まぎれもなく白鳥の姫がいた。

 俺は夢中で手を叩き、動物たちは彼女の周りに集まる。

「良かったよ。……マイラは本当に踊るのが好きなんだね」

「うん。ここはとてもきれいな場所、お友だちもいて、自然に踊りたくなるの」

 鳥が肩にとまり、キツネ、アライグマが足元で戯れる彼女を見て、俺は「君が一番綺麗だ」と思わざるをえなかった。

「じゃあ、いつかもっと大きな場所、例えば国立劇場で踊れたらいいな。こんな小さな所、少ない観客だけにはもったいないから」

「こくりつげきじょう? そこだったら、前にきょーじゅに連れて行ってもらったの。そこで踊る人たちを見ていたら、わたしも……」

「あ、だから君は……」

 逃げ出し、あそこで踊っていた。

「あの時、まるすがわたしを見つけてくれたから、わたしは外に出れて、広い場所で踊れる。……ありがとう」

「――そ、そんなことないよ。俺だって、君と……」

 感謝を伝える前に、突如、拍手が聞こえる。

 その音にびくりとし、背後を向くと、まさかの人物が立っていた。

「おはよう。驚かせちゃったかな。黙って見ているつもりはなかったんだ」

 と、笑顔を向けるのは、候補生のリーダー格、イワン・ヤコヴレヴィチ・アニケーエフ中尉。

 彼は俺の元に近づくが、俺は昨日のこともあり、少し後ずさった。

「い、いえ……それより、さっきの拍手は?」

「うん? その、マイラ君が踊っているように見えたんだ、おかしいかな」

「そ、そんなことは……」

「君が候補生に選ばれたのは、その子が関係しているようだね」

「あ……はい」

「いや、僕はその件に関して何か言いたいわけじゃないよ。マイラ君と君の間にある何か。それで選ばれたのなら、理由としては充分だ。それに、君が飛行士であっても無くても、過去も関係無い。今の僕たちは候補生。互いに全力を尽くし、誰が選ばれても拍手を送ろう。もちろん、僕だって一番になるつもりだ」

 中尉は手を差し出す。

「……は、はいっ」

 彼の真摯な言葉に、俺は自然に手を出して、握手をしていた。

 やはり中尉は器が違う。どこかの誰かと違って。

「……チャーチフ中尉のことは、気を悪くしないでほしい。彼はその誇り高い性格ゆえ、色々と勘違いをされてしまうんだ。にしても、昨日の彼はやけに不機嫌だったな……」

「え? ……はい」

 勘違いされやすい? いつもあんな感じじゃないのか。

「あの、アニケーエフ中尉はなぜ飛宙士になりたいのですか?」

「国のためだよ」と、その質問に即答する中尉。

「国……」

「それだとおおざっぱすぎるかな。分かりやすく言えば、僕がこれまでお世話になった家族、友人、先生、上官……そんな人たち。彼らのおかげで、今の僕がいる。僕が飛宙士に選ばれ、世界初の偉業を成す。そうなれば世界中に共和国の優秀さが知られ、みな、自分の国を誇りに思えるだろう。それが僕の使命だ」

「……」

 彼の考えはあまりにも広く、俺の頭では理解するのが難しかった。

「……はは、僕のこと、大丈夫かって思ってそうだね。よく言われるよ。お前は固すぎるって」

「い、いえ、そんなことは」

「ともかく、他のみなも理由があってこの任に就いている。そんななか、一番になるのは生半可なことじゃない。君も、僕も」

 俺は気づいた。中尉の額に汗が垂れ、体操着も濡れていることを。

「はい……分かってます」

「ああ、そうだ。君と僕とは歳が近いんだから、堅苦しいのは無しにしよう。呼び捨てで構わない」

「あ、じゃあ……イワン」

「ああ、マルス」

 俺たちは再び固い握手を交わす。

 それは、誓いだった。どちらが先に飛宙士に選ばれてもうらみっこなし。だが、決して負けはしないという。

 イワンは俺の元を離れ、朝のランニングに戻る。

「まるす、いわんと友だちになったの?」

 彼を見送った俺に、マイラが聞いた。 

「うん、ともだち……かな」

 友人。誰かとそんな関係になるのは随分と久しぶりだった。


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