一九六〇年五月―日。訓練初日
覚悟を決め、臨んだ午後の訓練。
――俺は、飛宙士への道が想像以上に困難であることに直面した。
体操服に着替え、運動場に移動した俺に中佐が指示したメニュー。準備体操に始まり、鉄球投げ、鉄棒懸垂、重量上げ、跳躍、ランニングと多岐に渡り、まるで体操選手を育成するかのごときだった。
甘く見ていたわけではないが、あまりの運動量に俺の体力は尽き、ランニングの途中に足を停めてしまった。
「……ぇ、……ぁ」
心臓がばくばくと鳴り、肺が息を求めて必死に呼吸する。みな、このメニューを毎日こなしているのか?
「……ベロウソフ、何を勝手に休んでいる? まさか、これで終わりかと思ったか?」
立ち止まる俺に中佐が呼びかける。
「え? まだ――」
「それが終われば、五〇メートル全力疾走、二〇本!」
死ね――と言われた気がした。俺の目には彼女が白薔薇の悪魔に。
それでも、ふらふらの足を動かそうとした。しかし、胃のなかのものが逆流し、食道を昇って、口から一気に溢れる。
俺は、ゲロをしてしまったのだ。
更に最悪なことは、こんな情けない姿を、周辺に集まった候補生たちに見られたことだった。
昼にあんな発言をしたばかりなのに……。
ほとんどの候補生たちが嫌な顔をしているなか、イワンが俺の元に寄る。
「ベロウソフ君、大丈夫かい? これを使うといいよ」
彼は自分のきれいなタオルを差し出した。
「……俺に構わないでくれ」
一瞬、その優しさにくらっとしたが、俺は断った。
「マ――ベロウソフ候補生、失礼です! アニケーエフ中尉が差し出したものを!」
無礼な俺をエヴァは非難する。
「クズネフォワ君、いいんだ。出過ぎた真似をした僕が悪い」
イワンは怒るどころか、自分が悪いと反省した。
ああ、何て出来た人物なんだ。それに比べ、俺は自分の惨めさで涙が出そうに。
「ベロウソフ、下を向くな。顔を前に向け、頭を上げろ!」
中佐は情け容赦無く、聞き覚えのある言葉で俺を叱責する。
周辺の候補生たちから俺に対する失望の言葉が囁かれる。ああ、チャーチフ、分かってるよ。俺はなめてた。あんたたちを。
今はまるで、敵のただ中へ独りでほおりこまれたような気分だった。
「まるすをいじめないで!」
敵地でただ一人、それまで大人しく見ていたマイラが叫び、俺の元に走り寄る。
彼女は俺の汚物にまみれた口まわりを舌でぺろぺろとふきとってくれた。
「こ、こら、人前で恥ずかしいだろ……やめろって」
周りは狼がじゃれているように見えるが、少女が青年の顔をなめまわす絵面はやばい。
「まるす、かわいそう……。これ以上続けたら、死んじゃうよぅ」
「……いや、死なないよ。それに、君が励ましてくれたおかげで、回復したから」
もう底は尽きたかと思われた体力だったが、マイラのおかげか、足を動かせる程度は。
「……ベロウソフ。今日はこれまでだ」
だが、中佐は中止と宣告する。
「え? 何故ですか。俺はまだ、」
「もうじき、午後五時。訓練終了の時間だ。候補生の一日は予定に沿って行われなければならない。ここで延ばせば、後に差し支える」
「っ……わかり、ました」
俺は悔しさをこらえ、了解した。
「お前たちもいつまでも見ているんじゃない! 人のことを構っている余裕があるのか?」
中佐の指示に、候補生たちは散った。
俺は一目散にトイレに駆け込む。この汗と涙で汚れた顔を洗い流すために。
蛇口の水で俺は顔を思い切り流す。鏡で泣き跡が無いか確認し、トイレを出た俺を待っていたのは、マイラと、意外な人物だった。
「エヴァ? 何してるんだ?」
彼女はマイラの髪を撫で、顔をうっとりとさせていたのだ。
「あっ?」と、エヴァは俺の声に驚いて、慌ててマイラから手を離す。
「……こほん。トイレ短かったですね。今から私があなたをこの町の主要施設を紹介します……不本意ながら」
と、むすりと告げる。
「え? 紹介?」
「行きますよ」
何をしようとしているのか全く理解出来ない俺を追いて、エヴァはさっさと歩き出す。
はじめは白キツネに騙されたような感覚だったが、エヴァは歩きながら、候補生が関わる施設、この町のことを淡々簡潔に紹介してくれた。
彼女曰く、この「星への始発駅」は、主に三区によって成り立つ。ひとつは管理センター、候補生たちの訓練施設、実験開発棟が並ぶ中枢区。候補生、教官、職員の宿舎が建つ居住区。日常雑貨、飲食店などが軒を連ね、住民が休日を過ごすための保養区。
「この建物には、無音響低圧室があります」
エヴァは訓練施設のひとつを指さし、言った。
「むおんきょう、ていあつ室? いったい、何の訓練なんだ?」
「……入れば分かりますよ」
俺の質問に、二度と入りたくないという表情をするエヴァ。
「これで、私たちに必要な施設の紹介は済みました。後はご自分でご確認下さい」
「そうか、ありが……あ、マニュアルで読んだけど、保養区にはこれから、ボーリングやバーが建設されるようだね。楽しみだな」
そのままお礼を言うと話が終わりそうなので、俺はエヴァに話題を振った。
「私は別に。お酒は飲めませんし、余暇は勉強、読書をしていますから」
「……あ、そう」
マルス・ベロウソフ、エヴァ・クズネフォワにあっさり撃墜。
一蹴された俺はエヴァの後をとぼとぼと着いて行く。夕暮れの風が冷たい。
「まるす、元気ないね。手、つなご」
そう言って握ってくれたマイラの手のなんと温かいことか。
宿舎へ帰る途中、ドーム屋根の上に十字架が立つ、共和国正教の教会が見えた。
「そうだ、エヴァは今でも毎日のお祈りはしているのかい? たしか、お祖母さんは熱心な信徒だったね。だから君の名も……」
俺が知る限り、エヴァは常に首から十字架を下げていた。おそらく、今でも。
「……ベロウソフさん、勘違いをしているようですが、私はあなたとお喋りをするために紹介役をしているわけではありません。ダーチャ中佐から令を受け、仕方なくしているんです」
その話題になると、エヴァは明らかに不機嫌になった。
え? 何か、まずいことを言ってしまったのか。
彼女は足を速め、理由が分からない俺との距離をどんどん離していく。
結局、お互い無言のまま候補生宿舎に着いてしまった。
「あなたのお荷物は部屋に移動してあるそうです。場所は、二階の東端。では」
「待ってくれ」
「……」
エヴァは俺の制止を聞き入れて、立ち停まる。
「何か機嫌に障るようなことを言ったらごめん。……それに、あの時のことも」
「……いまさら。ここでは、私たちの過去は忘れてください。今の私とあなたは、競争相手。あなたが昼間言った通り。私も飛宙士への道は譲れません、センパイ」
彼女は俺に宣戦布告する。センパイという呼称を最後に着けて。
宿舎に入っていく背中を見送り、俺は彼女と最後に交わした約束を思い出していた。
――その時まで、待っていてください。マルス先輩。
「……先輩か。あの時と今では、全然響きが違う」
「まるす、えばとはどんな関係だったの? わたし、知りたい」
マイラは、興味津々といったふうに聞く。
「……ハハ、君も直球だね」
彼女の純粋な瞳に負け、俺は素直に喋ることにした。
「彼女は、俺の飛行士養成校時代の後輩。俺が最高学年の時の新入生」
エヴァ・クズネフォワ。入学時から彼女が話題になったのは操縦技術だけじゃない。学業優秀、容姿端麗、一般人とは段違いの品格をも備えた完璧ぶりから、ついたあだなが「氷の皇女」。(エヴァにアタックして返り討ちにされた男女の数で、彼女は養成校一年生にして既にエースパイロットだった)
そんな彼女と俺は、あることから知り合いになり、俺が学校を辞めるまで、関係は続いていた。
「だんじょこうさい、おつきあいしてたの?」
「ぶっ! ……い、いや、そこまで深くはないよ」
男女の仲になる。俺たちの関係はそこまでは進展しなかった。むしろ、あの先輩後輩の関係が心地よくて、それ以上になるのが怖かった……かもしれない。
「彼女が俺に怒っているのは、全部俺のせいなんだ。当然だよな。あんな……」
「そうなの? でも、えばってわたしには優しいし、それに……」
「マイラ、そろそろ行こう。夕食の時間は決められてるし、早くシャワーも浴びたい」
「ごはん? うん!」
俺は一旦エヴァのことを考えるのを止め、宿舎に入った。
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